2018年9月28日金曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その15)「そのうち爆弾の破裂の音や銃声などが聞こえますので身構えていますと、一人の鮮人が出て来ましたので私は竹槍で突殺しました。.....夜が明けたら鮮人も来ないだろうと夜明けを待っておりましたら今朝(3日)になってまた一人を殺りました。その朝荒川用水路付近には20人位の鮮人が血まみれになって倒れていました。」(『いはらき新聞』1923年9月4日)

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その14)「2日か3日ごろ、軍隊が荒川の葦のところに機関銃を打ちこんで、危なくて近づけなかった。 旧四ツ木橋に兵隊を連れた将校が先達で来て2、3人射殺したという話を聞いた。殺されたのは共産系の人だという話もあった。旧四ツ木橋あたりは死体がゴロゴロしていた。」 
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉
氏名不詳
あの日のことは忘れません。なんの罪もない朝鮮人が土手の坂にすわらせられ、きかんじゅうをひたいに向け一発で殺されていったことを。たしか9月2日のお昼すぎだったと思います。「朝鮮人が火をつけた」「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」「朝鮮人がぼうどうをおこそうとしている」という”うわさ”が人から人へと伝えられました。町にすむ17才以上の男の人たちは竹やりをかついで集まりました。あやしい人を見つけたら「15円50銭」と言わせるのです。朝鮮人は「チュウコエンコチュッセン」としゃべるからわかるのです。最初につかまったのは木下川にすむ青森からきた年よりです。その人は小説家で文章を書くのはうまいのですが、しゃべる方は、方言(なまり)があって、それにつかまったおどろきでよくしゃべれません。私たちは急いでつかまえられた場所(土手)に行って「この人はちがいます。ちがいます」といって助けてもらいました。
町では夜になってあやしい者がきたらすぐつき殺せ、夜のくらやみの中で味方をまちがえたらいけないから”山”とよばれたら”川”と答えるようにと合言葉までつくられました。
地震があって4日日です。土手に行ったら、習志野きへいたいがきていました。昔の軍隊ですね。そのきへいたいが朝鮮人を4人土手に坐らせ、きかんじゅうを1発ずつ頭にうって殺しました。そのきかんじゅうの音はぶきみな音で「プシュ」という音でした。
その1発で朝鮮人は土手の人(ママ)にころげないで後ろにたおれました。土手の上では朝鮮人のお母さんと子どもが死んでいましたよ。
(木下川小学校4年1組『関東大しんさい作文集』添付資料No.3、1983年9月30日。授業で使用した資料)

氏名不詳〔3日午後4時水戸着の夫婦者。本所から亀有駅へ避難〕
「避難する道で 鮮人3名突き殺す」
ようやく三ツ木の荒川用水路あたりまで逃げのびて来ますとその付近には昨夜(2日)は鮮人が出没し、鮮人なる事をまぎらかす手段として日本人の洋装を奪おうとするので役場員、駐在巡査、騎兵等で警戒しておりました。私共も死を決して鮮人を見付け次第殺そうと2人して竹槍を持って注意しておりました。
そのうち爆弾の破裂の音や銃声などが聞こえますので身構えていますと、一人の鮮人が出て来ましたので私は竹槍で突殺しました。昨夜は一人まで突殺しましたがもう自分は命をかけてしたのです。
夜が明けたら鮮人も来ないだろうと夜明けを待っておりましたら今朝(3日)になってまた一人を殺りました。その朝荒川用水路付近には20人位の鮮人が血まみれになって倒れていました。〔略〕一昨夜の荒川用水路辺はまるで鮮人の出没で戦争の様でした。
(『いはらき新聞』1923年9月4日)

〈1100の証言;世田谷区〉
相原栄吉〔当時世田ヶ谷町長〕
〔翌2日〕自宅は早朝より災害調べ、炊出し等に忙し。午後1時頃より避難者続々来る。聞けば鮮人襲来するなりと、予報に依り老幼婦女は一定の箇所に避難すべしと云ぅ。いずれに行くかと問うに、行くとして目的なしと。次の報告に依るに、横浜を焼き鶴見に来り、爆弾を以て町に放火せりと。或はこれと対抗すと、故に戦場に異ならずと報ず。次に不逞鮮人、大挙して多摩川を渡らんとす。六郷は橋を断ちこれを防ぐと。次は鮮人、丸子にて目的を果さず、溝の口に来る。衝突し、死者20人程ありと。いずれの死者なるや不明。
午後3時頃、警鐘乱打、警報あり。鮮入団、多摩川を渡り、用賀方面に向う由。又一説には、奥澤方面に現れたりと。午后4時半頃、砲兵隊にて空砲を発射す。これは、鮮人を威迫するなりと。これにて大に信ぜざるを得ざるに至る。依て警戒す。砲兵、輜重兵、憲兵等、交々偵察すれども、要領を得ず。
日の暮る頃までに避難者陸続として来る。目的地なき人は、拙宅裏竹薮中に避難させ、四方を消防隊、青年団にて護衛す。握飯を庭前に用意し、各自勝手に食す。
夜に入り、船橋土手下に鮮人2名現れたりと。喜多見橋付近にも出没せりと。六郎次山に怪し者隠れたりと。代田橋にも怪人来れりと。和泉新田火薬庫、大警戒せりと。その内に若林にては、2名鮮人山に入りたりと大きわぎ。一同気を取れおりしに、宇佐神社太鼓を打ち大きわざ。何事ならんと慄々たり。聞けば、2名怪人豪徳寺山に逃入せんと。最も事実らしく、けだし詳細は不明。如何に鮮人地理にくわしくも、人目に触れざるは不思議なり。
かくの如く警戒中、夜半に至る。青年団捜索の結果、2名の僧を連れて来る。この者は、最近豪徳寺の徒弟となりしもの、一人は8月25日、一人は9月1日午前11時、寺へ来りしもの、裏の山に避難し、落伍して畑に出て陸稲の中に隠れ、時々頭を出し外を見たるとき、青年団員に見られ引卒されたるなり。依て避難所警戒を命ず。町内各警戒所の連絡、異状報告、軍隊の連絡、憲兵等交々来る。互に相戒め、その夜は不眠にて警戒す。
翌3日より戒厳令を布かれ、秩序を保持することとなる。しかれども流言区々にして、何等信ずる能わず。加うるに、玉川砂利場鮮人工夫は皆1カ所にトラクターにて運搬、或は護送す。三軒茶屋にて殺傷事件あり(勝光院に葬る)。
(世田谷区編『世田谷近・現代史』世田谷区、1976年)

内田良平〔政治活動家〕
3日の夜自警団が世田谷に於て憲兵及び巡査が鮮人2名を捕え取調中、その行動如何にも奇怪なるにより自警団員は奮激しでこれを撲殺したり。
〔略〕2日の午後10時50分頃、調布方面より「代々幡自動車部」と箱囲に書きたる1台の自動車来りたるが〔略〕鳥山水車小屋第一非常線を通行するや「止まれ」の号令を発したるも彼等は肯かずして突破し去りたるが、第二の非常線前の橋の破壊し居るを知らずこれを突破せんとし遂に車輪陥没して動かずなる〔略〕たちまち自警団員の認むる所となり、団員200名許りにて自動車の周囲を取り巻き取調べたるに箱中13名の鮮人潜伏し居たるを3人(内一人日本人)逸走したるを除く外捕縛し〔略〕また逸走したる鮮人は〔略〕いずれも途中にうろつき居る所を翌日自警団に捕えられたり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

つづく



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