2020年7月31日金曜日

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その9)「十人ぐらいの人が、火消しのとび口を人の体に突き刺して連行しているのを見ました。悪いことをしたかどうかもわからないのに、朝鮮人だということで、そんなことをする人もいることを知って、がく然としました。ただただびっくりしました。そのことは気持ちのなかに、あとあとまで残りました。」

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その8)「子安自警団員の多くは日本刀を肩にして自転車を疾駆し、「朝鮮人は1人残らず打ち殺せと只今警察から命令が出ました」とわざわざ生麦方面まで触れまわったほどで、このため恐怖の町民は奮ひ起ち、2日~4日までの3日間で50余体の朝鮮人の惨殺死体が主として鉄道線路付近に遺棄された」 「此夜、鮮人十七八名、反町遊郭の裏デ惨殺サレタ」
より続く

大正12年(1923)9月2日
【横浜証言集】3 横浜市北部地域の朝鮮人虐殺証言
(2)高鳥山、反町、二ッ谷橘、東神奈川付近
②黒河内巌(七軒町在住)「警官が鮮人と見たらみな打ち殺せと」
大正十二年九月一日/前日宇田川叔母来泊/宇田川叔母 おけい すゝ子東京へ行 月島/福沢 宇田川徳蔵 三十五日墓参として出発/神奈川駅ニテ地震 直チニ帰宅/朝十時雨止/午前十一時五十八分大地震/家族一同在宅/地震卜同時ニ全町ノ家屋潰倒 所々ヨリ火ヲ起ス/二階ノ荷物 箪 フトン 行李 風呂敷包略全部運ビ出シ船へ積ミ避難ス/避難セシ船へ火ガ移り他ノ船へ避難ス/福吉約十人 中屋二人 藤の家三人 亀藤の家七人 坂部三人 家族八人海水ヲ注ギ一夜ヲ明カス 夫レガ為メ 栄 私 喜み江三人共眼ヲ痛メ 更ニ明ク事ガ出来ズ 二、三日間ハ失明ナリ
九月二日/宇田川叔母ハ帰レリ/朝家族ヲ引キ纏メ 高島山へ避難シ 露セリ/同夜ハ朝鮮人ガ飲用水井戸へ毒ヲ打チ込ミタリトテ 鮮人卜見タラ皆 打殺セト極端ナル達シアリ 依テ鮮人ト邦人卜間違ヒ ナグリ合等ニテ混雑セリ
九月三日/高島山ヲ引キ払ヒ 青木小学校へ立退ケリ/喜み江と小児二人ヲ栄ガ連レテ関沢へ行ク/坂部モ東京ヨリ来り 関沢へ行 同所モ泊ル事モ不能トテ一同帰リ来レリ
九月四日/坂部一家族 東京へ出発セリ/眼モ少シハヨクナレリ
(「黒河内巌日記」横浜開港資料館所蔵)

⑦神奈川県立工業学校機械科四年「朝鮮人が戦っている。27人捕まり2、3人は殺された」
9月2日正午頃、電気会館で朝鮮人が戦ってると聞いたので、急いで行って見ると、大勢戦って居る。橋の所で一人は死に一人は川の中に投げ込まれていた。会館の近くに行つ見ると家の中で大乱闘が始って居る。家から一人が飛び出してまさかりを持つて土工に飛び掛った。怒り狂つて居た土工は鉄棒で相手の腹を貫いた。倒れる所を頭を打つて殺していた。
之れに力を得て大勢で室の中に飛び込んで手当り次第に捕へ始めた。捕へられれば命は無いと思つた鮮人は椅子を投げたりピストル迄乱射して抵抗した弾丸が無くなつたので次の室へ逃る、追ひかける、二階へ逃る、追ひかける。逃場を失ひ2、3人は屋根へ上り他は仕方が無のいて窓から飛び下りた。そして皆鉄棒で、なぐられて、捕まって仕舞つた。
屋根へ逃げた者は追ひかけられて海へ飛び込んだ。
かうして27人中殆捕まり2、3人の者は殺されやつと形が付いた。大勢の人の顔にはやうやく安心の色が見えた。
⑩大野林火「隣町からの伝令に緊張」
神奈川斎藤分に住む父の友人の離れまがいの一室に親子3人落ちついたのは2日の昼過ぎ。余震はまだまだ頻繁であったが、それでも峠を越し、その方の不安は遠のいたが、食料品店、衣服品店をはじめ店々への浸入、略奪が口々に伝えられた。子安の日清製粉、港の倉庫も襲われたという。そうした不穏な空気をさらに強めたのが、朝鮮人が暴動を起こしたとか、井戸に毒を投入したとかの流言蜚語である。当時の斎藤分は文字通りの町はずれ、裏は畑つづき、夜はしんのやみであった。従って自警は当然であるが、竹槍、さらには日本刀まで持ちだしたのは、専らそのためである。いまどこそこまで押し寄せていると、まことしやかに隣町から伝令が来るのだから緊張せざるを得ぬ。理性を失ったと云われれば、その通りだが、いったん狂うとつぎつぎ狂う。夜間の通行は殆どなかったが、それでもあると誰何がきびしくその返答に些かの不審があると不祥事にもなった。
(「神奈川の写真誌 関東大震災」一九七一年)

⑫フェリス女学院本科五年「恐ろしさ」
〔神奈川町三八一番地で〕2日目の露営した時の恐ろしさ、鮮人の顔や胸から出ている真紅の血潮のそのものすごさ、そしてその時にも平然としてつれて行かれる彼等の不思議とも思われるその態度等を見、又何万という国民や外国人の残酷な死を傍にききながら、自分達ばかり生きて行くという不幸か幸か。選ばれた者として大きな責任を果すのに、どうしていったらよいかと考えさせられた。

⑬金子富男「火消しのとび口を人の体に突き刺して連行」
〔九月二日神奈川の御殿町に移る〕印象に残っているのは、朝鮮人が井戸に毒を入れたという話でした。たまたま、十人ぐらいの人が、火消しのとび口を人の体に突き刺して連行しているのを見ました。悪いことをしたかどうかもわからないのに、朝鮮人だということで、そんなことをする人もいることを知って、がく然としました。ただただびっくりしました。そのことは気持ちのなかに、あとあとまで残りました。
(「語りつぐ関東大震災 横浜市民84人の証言」一九九〇年)

⑯中村保蔵 (栗原・下栗原北在住、被災当時、数えの三〇歳) 「三ッ沢辺りの路傍に死体が転がっていた」
〔二日、神奈川へ貸していた乳牛を引き取りにいく〕途中、三ッ沢辺りの路傍に死体が転がっているのを見ました。さすがにコモはかぶせてありましたが、それは朝鮮人を追い込んで殺した死体だったらしいのです。      (「座間の語り伝え⑪」一九八四年)
⑬安藤耕平 (被災当時一三歳) 「朝鮮人を見るとたちまち大勢で追いかけ」
〔神奈川下反町で古物商。学校は祭礼で休み→父の兄のいる白旗の納屋で一晩→母の実家神奈川新町へ。二日〕街中に移ると、今度は流言蜚語が私たちを新たな恐怖に包んだ。それは、朝鮮人が井戸に毒を入れているとか、少女を襲って殺害したとかいう噂である。そのため、朝鮮人を見るとたちまち大勢で追いかけ、棒や石を投げて攻撃するという騒ぎがいたるところで突発した。日本人でも、間違えて襲われることもあった。
(「週刊読売」一九八三年九月一一日号「特別企画関東大震災60年」)

つづく

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