2020年7月27日月曜日

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その8)「子安自警団員の多くは日本刀を肩にして自転車を疾駆し、「朝鮮人は1人残らず打ち殺せと只今警察から命令が出ました」とわざわざ生麦方面まで触れまわったほどで、このため恐怖の町民は奮ひ起ち、2日~4日までの3日間で50余体の朝鮮人の惨殺死体が主として鉄道線路付近に遺棄された」 「此夜、鮮人十七八名、反町遊郭の裏デ惨殺サレタ」

【増補改訂Ⅳ】大正12年(1923)9月2日(その7)「久保町愛友青年会を初め在郷軍人会員は第一中学校の銃剣を持ちだして戦闘準備をととのへ保土ヶ谷の自警団と連絡をとって三十余名の鮮人を包囲攻撃し何れも重傷を負わせ内十名ほどは保土ヶ谷鉄道線路や久保山の山林内で死体となってうづめ、また池中に沈められた。」
より続く

大正12年(1923)9月2日
【横浜証言集】2 横浜中部地域の朝鮮人虐殺証言
(3)藤棚、西戸部、県立中第一学校(二日より戸部警察仮本部になる)付近
⑮神奈川県立工業学校機械科三年「津波が来る。朝鮮人が刀を抜いて四百人も押寄せてくる」
九月二日 曇 早朝日の出づる頃に父と共に我が家を出で、父の会社の様子を知る為に鉄道線路を歩みて子安に行く。線路を歩む者列をなし、両側には焼出された者が小屋を作って居る。〔戸部に引き返す→関内〕漸く家に帰って来た。握飯を食って少したつと「津浪が来る」、「朝鮮人が刀を抜いて四百人も押寄せて来る」といふ事が伝はると、近所の人達は皆一斉に山へ逃げた。其の騒ぎは大変な物であった。其の内に朝鮮人が三四人来たら消防夫や、警官が来て皆でなぐって連れて行った。人々は皆警戒して刀や鉄砲を持って居ったりした。家へ入る事が出来ず庭へ小屋を作った。其所で一先づ露をしのぐ事にした。かくして又夜を過した。
九月三日 十時頃横浜倉庫で米を呉れると云ふ事を聞いたので行って見ると、それは戦場のやうであった。荷車がずつと列んで其れへ米俵をかついで来ては又積んで居る。僕はよその人が米を3升ばかり呉れるのでそれをもらって帰って来たが、それは大変な騒ぎであった。

⑯神中生徒「傷ついた朝鮮人が相当収容され」
二日の昼頃になると、朝鮮人騒ぎがおこり、「今後、不逞鮮人数百名が神中を襲撃してくるという情報が入ったから十四才以上の男子は武器をもって闘うように」と在郷軍人会や青年団の幹部がいって回った。神中の武器庫が避難民によって破壊され、鉄剣、演習用の空砲等が全部持ち出された。また各自、日本刀、銃剣、鉄棒等を持って校内を歩き回るので物凄千万だった。夜になると、銃声、突撃ラッパ、カン声等が囁、神中の表門通や保土ヶ谷方面でするので、私たちは地震よりもその方の恐ろしさが身にこたえた。(後で思えば日本人同志の錯覚による出来事たったのだが)。
戸部警察署が焼けて神中に本部を移し、博物の教室が留置場に代用された。傷ついた朝鮮人が相当収容され、日赤救護班の治療を受けていた。
三日の夜、生田校長が有泉先生らを連れて提灯を下げて避難民の間を廻り、「奥少将の率いる軍隊が近くの一本松小学校に泊っているから、もし朝鮮人が襲撃してきた場合、皆で大声を出して、「山」というように、軍隊は「川」と答えて、すぐ応援に馳けつけてくれることになっています」と説明されると、皆安堵した気特になったことは今も忘れません。(昭和41年10月28日)
(「神中・神高・希聖ヶ丘高校百年史」所収「震災当時の神中の思い出」)
(4) 久保山方面
②神奈川県立工業学校機械科四年「巡査が朝鮮人が放火したり、井戸に毒を入れるから気をつけてくださいと」
僕はY君とS君と3人で久保山に避難した。途中どの食料品店も人でいっぱいであった。久保山から高い岡の向ふは僕の自宅であるが、煙が勢いよく立発って居るから大抵焼けているのであろうと思ったので帰る勇気もなく1時間余り山に坐ったのみあった。〔・・・〕
其の日〔二日〕の3時頃に巡査が「朝鮮人が放火をしたり、井戸に毒を入れるから気を付けて下さい」と、青年会の人に話をして居た。それを聞き伝へた者は奮起した。そして腕に赤い布をまいて同胞なる事を示し標の無い通行人をしらべて、内地人には赤い布を与へた。次ぎに白を又その次には赤白を付けた。2日の夜は来た。大人は刀或は竹槍及小刀を持って要所要所に集って、十分に防備した。
夜が更けると山の下の方で喊の声を上げて、勢を示して朝鮮人の来ぬ様に努め、山の上では盛に火を焚いて居た。その有様は戦争の如くであった。年寄小供に非常に恐しがって泣いた。夜明になって海軍陸軍隊が一小隊ばかり山に登って、僕の前を通り過ぎた。その時老いも若さ一声に、万歳を唱へた。
【横浜証言集】3 横浜市北部地域の朝鮮人虐殺証言
(1) 子安地域
①東海林静男「朝鮮人は一人残らず打ち殺せと今警察から命令がでた」
神奈川方面では2日朝から流説が伝わり、子安自警団員の多くは日本刀を肩にして自転車を疾駆し、「朝鮮人は1人残らず打ち殺せと只今警察から命令が出ました」とわざわざ生麦方面まで触れまわったほどで、このため恐怖の町民は奮ひ起ち、2日~4日までの3日間で50余体の朝鮮人の惨殺死体が主として鉄道線路付近に遺棄された。
(「神奈川の写真誌 関東大震災」一九七一年)
(2)高鳥山、反町、二ッ谷橘、東神奈川付近
①八木熊次郎(当時元街小教員)「警官が流言を広げ、自警団を組織」
〔反町在住、高島山へ避難〕九月二日、大空ハ黄灰色ニ霞ンデ頭上ノ絶へズ。ライジングサン石油タンクノ煙ガ渦巻イテ飛ブ。太陽ハ銅色ヲ帯ビテ煙ノ中ヲ縫ッテヰル。何トナク災禍ノ前兆ヲ示スモノノ如クデ一層不安ヲ増サシメタ。火災ハマダ全市ヲ包ンデ居ル。
コノ日午後、吾々ガ陣取ッテヰル草原へ巡査ガ駈ッテ来テ皆サン一寸御注意ヲ申マス。今夜、此方面へ不逞鮮人ガ三百名襲来スルコトニナッテ居ルサウデアル。又、根岸刑務所ノ一餘名ヲ解倣シタコレ等ガ社会主義者卜結託シテ放火強奪強姦並ニ投毒等ヲスル。
昨夜ハ、本牧方面ヲ襲来シタ。右ノヨウナ始末デアリマスカラ、今夜ハナル可ク皆様ガバラバラニナラヌ様ニ一所ニ集ッテ居テ下サイ。サウシテ万一怪シイ者ガ来タラ一同デ喚声ヲ挙ゲテ下サイ。猶、十六歳以上六十歳以下ノ男子ハ武装シテ警戒シテ下サイ。コレヲ聞イタ婦女子ハ皆震エ上ガッテ、各自重キ家具ヤ貴重品ヲ負ウテ狼狽シ始メタ。子供等ハ恐レテ泣キ出ス。目モ当テラレヌ有様デアッタ。
自分ハ家族ニ向ヒ決シテ心配スルニハ及バン若シテ不逞ノ鮮人攻メ来ルコトガアッデモ此処ニハ数十人ノ青年ガ居ルシ此下ニハ又何十人ト居ルノダカラ片ッ端カラ什スカラ心配スルナ。死セバ○ノ諸共ダ此様ナ周章スルト却ッテ命ヲヲトス。静カニシテ居ナサイト言ッテヰルト、午後四時過ギ向フノ山上デ喚声ガ起ッタ。一同ガ振り向ヒテ見ルト白服ヲ着夕者ガ幾十人カ抜剣シテ沢山ナ人ヲ追イカケテイル。其ヲ見夕者ハ異口同音ニ不逞鮮人襲来ダ、白服ノハ日本ノ青年団ダト騒グ。人々、戦々恐々急ニ避難場所ヲ変ヘル者、重キ荷物ヲ草叢へカクスモノアル。疲労卜不安ノ中二、其日ハ暮レカカッタ。各町ノ青年団衛生組合ノ人々ガ腕ニ赤布ヲ巻キ、向フ鉢巻、腰ニ伝家ノ実刀ヲ侃ビ、或ハ、竹槍・ピストル・猟銃共他鉄の棒ナド持ッテ避難地ノ草原へ集合シタ。恐ロシイ夜ノ戸張ハ全ク閉サレク。余燼ハ空ヲ赤ク染メテヰル。海上遥ニ低ク下限ノ月ガ懸ッテヰル。夜ノ十時過頃カラ各方面デ銃声ガ聞へ始メ提灯ノ火ガ幾ツトナク野原ヲ飛ンデヰル。折々、武装シタ青年ノ伝令ガ駈ッテ来テ「御注意ヲ願ヒマス。只今、会シイ者ガ数十名此方面へ這入ッタ形跡ガアリマス」等ト入替り立替り報告シテ来ル。此夜、鮮人十七八名、反町遊郭の裏デ惨殺サレタ。カカル不安ノ中ニ妻子ハマンジリトモセズ一夜ヲ明シタ。(二日朝六時ヨリ翌三日午前六時迄大小地震ガ三百三拾十四回アッタ)
〔・・・〕三日、鮮人襲来ノ報一層喧シク放火、強奪、強姦、井水二投毒、鮮人ト格闘セルコト等ノ報頻リニ伝へラレタ。此日、海軍陸戦隊ガ五十鈴、春日等ニテ到着シ、探照燈ノ光ガ暗澹タル空ヲ照シタ。避難民ノ混雑ハ昨日ニ同ジク。重傷者ノ死亡、妊婦ノ出産ナド目モアテラレヌ、ミジメサデアッタ。余震ハ午前六時ヨリ翌四日午前六時迄二百五十三回ニ及ンダ
(八木熊次郎「関東大震災日記一九二三年、櫛浜開港資料館保管)

つづく


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