2020年10月25日日曜日

早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ3)「子規の主治医であった宮本仲博士は、こう語っている。 「子規も偉かったが、御母堂と御令妹の奉仕と愛もまた偉いものだった」 子規が身体に何箇所も穴が開き、膿が流れ出し、毎日ガーゼを替えるたび痛みで号泣しながらも、俳句と短歌革新という大業を成就できたのは、母八重と妹の律の献身的な看護と奉仕があったからこそだと感動を込めて話しているのだ。」  

 早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ2)「極東の詩人に強く共鳴したトランストロンメルさんは、正岡子規をかく理解した。 「死の板にいのちのチョークで書く詩人」と -。 正岡子規が病床で書き刻んだ日記『仰臥漫録』は、まさに”死の板”に刻んだいのちの記録である。また、トランストロシメルさんは、こうも書いている。 「森の深みに迷った者だけが見出す思いがけぬ空地がある」と。」

より続く

子規の母八重(73歳)と妹律(48歳)


早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ3)

三、『仰臥漫録』 にたどりつく

『仰臥漫録』

とうとう、私の眼からウロコを落としてくれた子規さんの『仰臥漫録』 にたどりついた。

私が心筋梗塞と胆のう癌のはさみ撃ちに遭い、絶体絶命の崖っぷちに立たされてから、一年目のことである。

大げさかもしれないが、子規さんの『仰臥漫録』は、絶望の中にいる私の魂を見事に救い出してくれたのです。

(中略)

まず、明治三十四年は西暦でいえば二十世紀のはじまった一九〇一年で、子規は三十三歳であった。

すでに子規の肺は左右とも大半が空洞になっており、結核菌が脊椎に入り、重症のカリエスを発症していた。自力では寝返りもできず、いわゆる病床六尺の牢獄につながれ、死刑宣告を受けた重罪人の身の上であった。

背中には蜂の巣の如く穴が開き、膿が流れ出ているから、ガーゼがあてがわれて、仰臥のままでいなくてはならない。つまり、俯(ふ)すこともできず、したがって、この『漫録』も、仰臥のまま、半紙を左手にして書き綴ったものである。

(中略)

さて、九月二日のおしまいには、読むものの心がなごむ一節がある。

「午後八時、腹の筋病みてたまらず沈痛剤を呑む 薬いまだ利かぬうち筋ややゆるむ

母も妹も我枕元にて裁縫などす 三人にて松山の話ことに長町の店家(みせや)の沿革話いと面白かりき」

枕元で母や妹たちが、つくろいものの裁縫をしている情景ほど心なごむものはない。いってみれば、この時、子規は幼い子になっているのた。目をあければ母や妹が枕元でつくろいものをしなから、世間話をしていることぐらい、幼い子に安心感を与えるものはないのだ。

(略)


子規の妹と母こそ、子規の命

明治三十四年 (一九〇一) こそは、子規が自分の死期を確実に悟った年であり、日本にとっては、北の大国ロシアとの対決に向かう年でもあった。

(中略)

さて、死の一年前から書き始めた 『仰臥漫録』 は、まさに”死の板にいのちのチョーク”で綴った詩人の日記なのだが、その日記のいちばん最初に綴った根岸の子規庵の風景にいるのは、仰臥する子規さんの枕元で裁縫をする母・八重と妹の律の三人だけである。

・・・・・

八重は五十六歳、明治半ばにあっては、すでに老齢の人である。仰臥する重病人の息子の体の向きを変えることすらできない。激痛で「たまらん、たまらん、どうしよう、どうしよう!」と泣き叫ぶ息子の枕元に座り、「しかたがない…しかたがない」とつぶやいて、痩せた背中をさすることしか出来ない老母なのだ。

・・・・・

私は、ここに”最強にして最良の看護人”というタイトルをつけているが、その日記に最も多く登場する律さんを、子規さん自身がどう書いているのか紹介してみたい。

「律は(…・)同感同情のなき木石の如き女なり」「律は強情なり 人間に向かって冷淡なり」

と、まことに痛烈な文章が綴られている。はては、

「到底配偶者として世に立つ能わざるなり」

と断じるのである。

たしかに、律さんは二度結婚し、二度離婚されている。二度の結婚とも、数か月で破綻している。一人は同郷のエリート軍人。もう一人は松山中学校で教鞭をとる教育熱心な教師だ。

(略)


律さん必死の勉学

・・・・・

・・・律さんは子規の死後に、共立女子学園、そのころの共立女子職業学校に入学、さらに卒業してから、裁縫の技術を磨き、母校である共立女子職業学校の教員となり、十四年間勤め上げているのだ。共立女子学園には、律さんの履歴がきちんと残されていた。次の写真を見てもらいたい。これは子規の死後三年の、明治三十八年(一九〇五) 三月に、共立女子職業学校を卒業したときの写真である。

見てすぐわかるように、律さんは同級生よりもかなり年上だ。このとき律さんは、なんと三十五歳だったのた。

この共立女子職業学校は、自立した女性の育成を目的として、東京の中心地に名士の鳩山春子さんを含む三十四名の有識者が集まって明治十九年(一八八六) に設立された。共同で設立した学校なので名前が共立なのだ。

・・・・・

律さんが職業婦人を目指したのは、正岡家が長男の子規こと升を失って、律さんが戸主となり、年老いた母の面倒を見なければならない事情が第一であったのだが、実は、律さんは、”勉強”をしたかったのである。

病臥する子規の口述を筆記し、膨大な日本の俳句の分類を手伝わねばならなかったころ、その子規さんの仕事を支えるに当たって、あまりにも律さんは文化を知らなさすぎた。余命いくばくもない兄の子規は、病苦の中で、妹の律さんに「馬鹿」とか「阿呆」のきつい言葉を浴びせたという。

無理もない。明治のころの普通の女子は、漢学の勉強をさせられることもなく、学閥と無縁のところにいた。女は結婚して、子供を産み、義父母に仕えて家事に尊念するのが務めであったのだ。

- 兄は、俳句革新の道半ばにして倒れた。そのあとを何とか継いでいくためには、戸主として家計を安定させた上で、文化の勉強が必要だった……。そのために、女子の自立の旗をかかげた共立女子職業学校に入学したのた。それ故か、律さんは若い仲間に気おくれもせず、常に成績がトップだったそうである。

・・・・・


二度の結婚と離婚

共立女子学園の図書館には、同校を卒業し、教員として奉職もした律さんの公式年譜がつくられている。

それによると、兄・正岡子規さんの三歳年下の妹として明治三年(一八七〇)に生まれたとあり、そしていきなりの感じで、明治十八年(一八八五)に従兄・恒吉忠通と結婚となっている。年齢をみると、十五歳である。やや若すぎると思ったが、日本が近代国家に成熟するまでは、女子の十五歳は結婚適齢期であった。

夫となる恒吉忠通は、同じ松山藩の士族であり、陸軍大学にあって銀時計をもらうほどの英才だったから、実に良縁であったといえよう。

ところが結婚して二年にして、律は離婚されて正岡家に帰ってきている。

(略)

子規さんの説得によるのか、律さんは二年後に再婚している。相手は松山中学校の教員・中堀貞五郎である。夫になった中堀さんは夏目漱石『坊っちゃん』に出てくる「うらなり」のモデルだという説もある人で、教育熱心かつ実直な人と評判が高かったが、なんと、こちらも一年で離婚となっているのだ。

この破婚は、子規の病気が原因であったようだ。

「兄の看病に、帰らせてもらいます」

と律さんは、夫の中堀さんに宣言したのだと、私は想像する。なぜ、そういうことをするのか - 。ざっくり言ってしまえば、律さんにとって兄・子規が恋人であり、理想の人であったのではないか。

(略)


わが兄はホトトギス

子規の主治医であった宮本仲(ちゆう)博士は、こう語っている。

「子規も偉かったが、御母堂と御令妹の奉仕と愛もまた偉いものだった」

子規が身体に何箇所も穴が開き、膿が流れ出し、毎日ガーゼを替えるたび痛みで号泣しながらも、俳句と短歌革新という大業を成就できたのは、母八重と妹の律の献身的な看護と奉仕があったからこそだと感動を込めて話しているのだ。

「ことに妹律さんは、十分表彰されてよい方だと思う」

とも語っているが、律さんは十分表彰されているかというと、残念ながらまことに乏しいと言わざるを得ない。

そう思うのは私一人ではないようで、すぐれた小説家であった山田風太郎さんが、昭和五十一年(一九七六)に書いた「律という女」の一文がある。

「私は『仰臥漫録』を読むたびに、妙にこの女性のことが気がかりであった」

なぜなら、子規の偉業を支えた律は、

「他の大作家の妻の内助の功などというもの以上に偉大なものであったといえるのではないか」

そして、

「律という女性は、子規の歿後どうしたのだろう。どんな運命を辿ったのだろう?」

と書いている。

まったくその通りで、律さんのその後はまったくといっていいくらい検証されていない。

(中略)

すると、子規さんの側近の弟子であった俳人寒川鼠骨さんの一文を見つけたのだ。

鼠骨さんは関東大震災のあと、老朽化した根岸の子規庵を再建し、お律さん(と鼠骨は呼んでいる)と母堂八重さんとは壁一重の隣家に住み、律さんと一緒に子規の遺品や子規魔そのものを護った上、律の最期をも看取った人物である。

その鼠骨さんは、こう書いている。

「子規没後、お律さんはまだ三十一歳。再々婚してもよい年頃であった。実際に、お婿さんに擬せられた人もあった。しかし、お律さんは健気にも独力で家を支持し、令兄の跡を濁(けが)すまいとの決心を固められた」

つまり、お姉さんを迎えることも出来たのだが、自分が正岡家の戸主となったのだから、まず自立して正岡家を維持したいと決心したのだ。自立するには、どうすればいいか。先に書いたように、律さんは、神田の共立女子職業学校に通学して、卒業後はその教員として独立の計を立てたのである。

(中略)

律は職業婦人となって、独立の計を立てたのち、親戚から義子を迎え、正岡家を立派に永続させた。そして子規さんに続き、母・八重さんを看護し、看取るのである。


つづく

(註)「親戚から養子」に貰ったのが正岡忠三郎。残念ながら律との折り合いは良くなかったようで、大学は京都大学、就職は阪急電車を選んだ。退職後、これぞ決定版という子規全集を編集するが、この時の編集委員の一人に大岡昇平がいる。大岡昇平と正岡忠三郎は若い頃からの友人である。

なお、司馬遼太郎『ひとびとの跫音』は、正岡忠三郎とその周辺の人々を描いた作品。

関川夏央『子規、最後の八年』にも律を描いた部分があるので、早坂さん作品(メモ)のあとに掲載予定。但し、その前に松永昌三『中江兆民評伝』の「一年有半」の章のメモを掲載する予定。




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