2020年10月24日土曜日

早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ2)「極東の詩人に強く共鳴したトランストロンメルさんは、正岡子規をかく理解した。 「死の板にいのちのチョークで書く詩人」と -。 正岡子規が病床で書き刻んだ日記『仰臥漫録』は、まさに”死の板”に刻んだいのちの記録である。また、トランストロシメルさんは、こうも書いている。 「森の深みに迷った者だけが見出す思いがけぬ空地がある」と。」   

 早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ1) 「私が広島に入市、一泊したのは八月二十一日だ。投下後二週間をわずかに一日過ぎているのである。 しかし自らを原爆のヒバクシャと認定した私は、癌の発症をヒバクシャの証明と考えたのである。 - みろ! オレはレッキとした被爆者なんだ!」

より続く

中江兆民『一年有半』

 早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」を読む(メモ2)

『続一年有半』

余命一年半と告知されてから、数か月で書いた中江兆民の『一年有半』は大ベストセラーになった。明治三十四年で十万部を超えるというのは、驚異的な売れ方で、福澤諭吉の『学問のすゝめ』以来の記録となった。しかし、余命一年半には、まだ一年以上も時間が残っていた。

それで、続いて『続一年有半』を書きあげた。それもたった十日間で書きあげているのだから、すさまじい気力というしかない。なにしろ、手術を受けて気管に管を入れているので、固形物の食事がとれず、豆腐を押し込むように食道に入れる。なんとも激しい病みを伴う食事なのである。

なんと、この二冊目も二十万部という明治の大ベストセラーとなる。しかし、その直後に兆民は東京・小石川の自宅で呼吸を止めた。

つまり、”一年有半”という告知たったのに、わずか八か月の生命たったのである。

二冊目の『続一年有半』は、たった十日間の、いわば”絶命の絶叫”というべきものであった。

つけられたサブタイトルがまことに凄い。

- 「一名無神無霊魂」。

すなわち、

「霊魂とは何物か、身体こそが本体である。身体が死すれば、精魂は即時になくなるのである」

と絶叫しているのだ。

・・・・・

・・・・・さらに、宣言は続く。

「不滅なのは精神でなく、身体すなわち物、物質こそが不滅なのだ」

そして、神なるものも存在しないと、ニイチェのツァラトゥストラの如く、

- 神は死んだ。

と、山上から絶叫するのである。・・・

(略)


伊藤博文らの”欧米使節団始末記”と中江兆民の勝負とは

(略)

イギリスへと上陸してみると、イギリスは産業革命が成功していて、世界一の工業国であった。それこそ煙突からの煙が目にしみて、これでは近代国家へ歩き出したばかりの日本のモデルには、とうていならないと、フランスへわたった。

実は同じとき、同じコースでフランスへ留学したのが中江兆民であった。

使節団は、折からパリ・コミューンで騒乱しているフランスに、参考になるものなしと、次のドイツ (プロイセン) に向ったのだが、兆民は、民衆が蜂起しているパリ・コミューンの渦の中で高揚し、ジャン=ジャック・ルソーの 『民約論』に出会うのだ。

使節団の伊藤博文たちは、ドイツで出迎えてくれた鉄血宰相ビスマルクの熱弁に感動し、日本のモデルをドイツに求めることにした。

(略)

一方、中江兆民は帰国して「仏蘭西学舎」を東京につくり、塾生二千人を集めて、熱くルソーの「民約論」を説く。人民による、人民のための社会をつくり、人民が国の主人となれと叫んでやまない。

兆民は、人民に相談もなくつくられた憲法など、タカが知れていると思っている。

(略)

憲法発布の式典は宮中正殿の大広間で行われ、天皇が前文を読み上げた。

(略)

そして憲法全文がはじめて出席者に手渡されたのである。新聞は号外を出し、ここではじめて国民はその内容を知ったのだ。

中江兆民は一読し、あざ笑ってそれを投げ捨てた。ここから兆民は言論の苦しい闘いをはじめるのだが、癌発症の十二年前だった

(略)


中江兆民、憲法を投げ捨てた

(略)

兆民さんは、大日本帝国憲法を読んで、あざ笑って投げ捨てたと書いたが、実は死ぬ数年前にはっきりと”国のかたち”を示してくれているのである。

この”国のかたち”は、日本人が誰も考えつかなかったものである。

まず、武力を持たないのだ!

そして彫刻を刻むように、美しい日本の風土をつくっていくのだ!

たとえば、外国から侵犯を受けたらどうするか - ここからが凄いのだ。

抵抗などしないで、平然と殺されようではないか、というのだ!

まだインドで、ガンジーが無抵抗主義で独立を手にするずっと前の話である。

パリ・コミューンの騒乱のなかに身をおいて、彼には、つましく美しく生きる人間を殺せはしないという信念があったのだろう。

(略)


遊びをせんとや生まれけむ

中江兆民の余命は、宣告された一年半より短い八か月であった。臨終は明治三十四年の十二月十三日、東京の小石川の自宅でだった。

そのころ、同じ東京の空の下、正岡子規さんは上野の山を越えた上根岸の小さな家で、不治の病に冒され、病床六尺の天地でうめきながら、『仰臥漫録』という日記を丹念に毎日書きとめていた。

そこにはちゃんと、中江兆民の 『一年有半』 のことも書いてある。

十月十五日 (……)

民居士の『一年有半』という書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候 居士は喉咽に穴一ツあき候由(よし)われらは腹背中臀(はらせなかしり)ともいわず蜂の巣の如く穴あき申候」

兆民にむかって、穴一つで騒ぎ立てるなと言わんばかりに書いている。さらに、

「一年有半の期限も大概は似より候ことと存じ候」

と、余命も同じ位だとした上で、兆民の書物に痛烈な批判の刃を突きつけて、

「しかしながら居士はまだ美という事少しも分らず(…‥)」

と断じている。

この”美が分らない”ということは、どういうことか。

つまり、兆民居士は、理ばかりで人生を組み立てていくので、死についての”あきらめ”をつけることはできても、”人生の楽しみ”を得ることはないと、子規は言っているのだ。

まさに - 平安の昔に背かれた”遊びをせんとや生まれけむ”(『梁塵秘抄』)の思いである。

子規さんは、理屈をこえた楽しみは、まことに日々の日常の中で感じよ、と日記に書いている。

「焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処(ところ)何の理窟か候べき」 - と。

この”日常の楽しさ””日常の美しさ”こそ、子規さんがかかげて止まない俳句改革、俳句実践の目指す世界にちがいないのである。

そして、子規さんはさらに痛烈な批判を展開してみせている。

「十月廿五日 曇

(略)

『一年有半』は浅薄なことを書き並べたり、死に瀕したる人の著なればとて新聞にてほめちぎりしため忽ち際物(きわもの)として流行し六版七版に及ぶ

近頃『二六新報』へ自殺せんとする由(よし)投書せし人あり」

その人が忽ち世の評判となり、金三百円ほどを得、煙草店まで出してもらったというエピソードを紹介し、これこそ『一年有半』と好一対のものとして、

「いづれも生命を売物にしたるは卑し」

と断じ、俳句四句を添えているのた。

「病牀の財布も秋の錦かな

栗飯や病人ながら大食(おおくら)ひ

かぶりつく熟柿や髭を汚しけり

驚くや夕顔落ちし夜半の音」

ことに最後の一句、不治の病に”とらわれ人”のねむれぬ夜の長さ、思いの深さを - 理でなく感性で、嘆かず、むしろ美しきに転化してみせていると見るのは私だけだろうか。


詩集『悲しみのゴンドラ』

(略)

『仰臥漫録』は、子規さんが生きている間は公表されることのなかった病床日記だが、岩波書店が日本文化の書として刊行すると、昭和に至って、岩波文庫の中で二位につける大ベストセラーになっている。

それは、虚飾を去った人間の記録として、石川啄木『ローマ字日記』と並んで、読むものに強く深い感動を与えたからに他ならない。 ー  これからいよいよ、それがどういう記録、日記であるかを紹介していくが、その前にもう一人、その影響の深さを実証する素晴らしい人を紹介したいのである。

その人は、二〇二年の暮にノーベル文学賞を受賞した、スウェーデンが誇る詩人トーマス・トランストロンメルさんだ。

(略)

幸い、その代表作の『悲しみのゴンドラ』が邦訳されて出版されていた。早速、本をひらいてみると、なんとそこに「俳句詩」が載っているではないか。

外国に渡った俳句は、五七五のリズムを持った詩型ではないが、スリーライン・ポエム (三行詩)という詩型に形をととのえて、世界中の、まず子どもたちの間で広まっていった。・・・

(略)


いのちのチョーク

・・・

なぜ北欧の詩人が、日本の明治の俳人に心を寄せていったのか。それは致命的な病気を通してのことであったようだ。

トランストロンメルさんは、脳卒中で言葉と右半身の動きを失ったのである。詩人が言葉を失うという致命的な打撃の中で、極東の国に、病床六尺の中、恐るべき気力で詩作に励み、詩の革新に挑んだ詩人を知ったのだ。

極東の詩人に強く共鳴したトランストロンメルさんは、正岡子規をかく理解した。

「死の板にいのちのチョークで書く詩人」と -。

正岡子規が病床で書き刻んだ日記『仰臥漫録』は、まさに”死の板”に刻んだいのちの記録である。また、トランストロシメルさんは、こうも書いている。

「森の深みに迷った者だけが見出す思いがけぬ空地がある」と。

言葉を失い、半身不随となった彼は、詩人として深く長い混迷の中に落ちる。そのとき、”思いがけぬ空地”、つまり正岡子規の『仰臥漫録』に出会ったのだろう。

(中略)


つづく



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