2020年11月13日金曜日

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ6)「浅井忠、不折、それから漱石、みな欧州へ行ってしまった。叔父加藤拓川にも政府から欧州勤務の話がきているようだ。自分だけが六尺の病床に釘付けされて日夜苦しんでいる。子規は速い空の下にある友人たちを思って悲しんだ。」  

 関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ5)「律の教員時代は前半と後半に分けられる。前半は明治四十年頃から大正四、五年までである。恩給がつく勤続十年に満たずに一度辞めたのは、自分の技倆の未熟さを恥じたためだともいわれる。四十なかばで、京都の聞こえた志摩野という裁縫塾に入り直し、一年間腕を磨いた。帰京して再び共立の教師となった。それから五十歳となる大正十年に退職するまでが後半である。」

より続く

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ6)

「僕ハモーダメニナツテシマッタ」


(略)

中村不折からパリ到着を知らせるハガキが届いたのは、明治三十四年十月二日であった。

不折は六月二十九日に出発、八月十五日頃パリに到着した。ハガキは八月二十日頃に投函したのである。

(略)

子規が浅井忠に紹介されて不折と会ったのは明治二十七年三月、神田淡路町の新聞「小日本」編集部の楼上であったが、子規は当時、洋画に対して懐疑的であった。編集者としての子規がもとめていたのは、すぐれた「画工」だったからである。しかし不折が持参した見本を見て、洋画家への認識をあらためた。それから半年ほど、不折と東京市内の展覧会を見て歩いた。上野で雪舟の屏風を見たとき、素人目にはつまらぬ絵を、不折が「結構布置(けつこうぶち)」と何度もいうのに子規は驚き、かつ悟るところがあった。

不折に教えられ得られた眼力が身動きならぬ病人をどれほど慰め得たか、と子規はしみじみ回想した。

中村不折は刻苦の人である。一日中飲まず食わずで勉強することさいさいで、人に仕事を頼まれればことごとく引受け、また期日を誤ることがなかったので、書肆は大いに重宝がった。そうやって貯めた金で明治三十二年には、子規庵から程遠からぬ場所に住居と画室を建てた。さらにその後二年を経ず、独力でフランス留学を果たしたのである。

・・・・・不折は背が低くて顔は鬼のようである。髯はぼうぼうだ。生来耳が悪いから声が大きい。それでいて熱血の論客で、程のよい話し方というものを知らない。子規はその面影を脳裏に浮かべつつ、意気軒昂はよいが、弱者後輩をむやみに軽蔑するな、耳が遠くて人の話を誤解しがちであると承知せよ、他者の対話にわりこむな、と不折宛の手紙に書いた。そして、西洋では広く見物し、うまいものを食べて太って帰れ、あまりあくせく勉強すると上手になりすぎるぞ、と付け加えた。

浅井忠、不折、それから漱石、みな欧州へ行ってしまった。叔父加藤拓川にも政府から欧州勤務の話がきているようだ。自分だけが六尺の病床に釘付けされて日夜苦しんでいる。子規は速い空の下にある友人たちを思って悲しんだ。


十月五日からは、子規の精神は変調をきたしたかと思える状態に陥った。

「午後ふと精神激昂。夜に入りて俄に烈しく乱叫乱罵する程に、頭いよいよ苦しく、狂せんとして狂する能はず、独りもがきて益(ますます)苦む」(『仰臥漫録』)

こういうときは隣家の陸羯南にきてもらうより手はない。羯南が、そうかそうか、よしよし、といいながら額に手を置いてくれれば、やがて静まるのである。

十月六日は日曜日であった。

「朝雨戸をあけしむるより又激昂す。叫びもがき泣き、いよいよ異状を呈す」

十月七日は腸骨下の傷みが烈しい。背中下方にあいた穴も痛むが、それ以外にもあらたな穴があいたことを子規は体感した。結核菌が食い荒した体内で、生きながらに腐敗が進んでいるのである。

十月九日、往診の医師から、自分では見られぬ背中と尻の状態を聞いた。やはりあらたな排膿口が大きくひらいていた。医者は驚きを隠さず、子規もまた驚いた。

十月十三日は昼まで大雨であった。午後には雨はあがったが、八重と律が外出してひとりとなったとき、深刻な自殺衝動に襲われて刳(くり)小刀と千枚通しを『仰臥漫録』にスケッチし、「古白日来」の四文字をしるしたのはこの日である。

精神やや復した十月十五日、中江兆民『一年有半』と自分の墓について書いた。

中江兆民は、明治三十三年十一月からとまらぬ咳に苦しむようになっていた。明治三十四年に入ると咳に加えて喉にひどい痛みを覚えたので、四月に診察を受けた。喉頭癌であった。あとどれくらい生きられるかという兆民の問いに、医者は「一年半くらい」と答えた。書名『一年有半』の由来である。

「一年半、(・・・)若し短(たん)と曰(い)はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり」「鴫呼所謂一年半も無なり、五十年百年も無なり、即ち我儕(わがせい)は是れ、虚無海上一虚舟」(『一年有半』)

明治三十四年五月に喉の切開手術を受けたあとは寝たきりとなり、豆腐しか喉を通らなくなった。枕を抱いたうつぶせの姿勢で兆民は原稿を書きつぎ、九月に『一年有半』を、ついで十月に『続一年有半』を刊行した。どちらもベストセラーとなったが、子規はまだこの段階では読んでいなかった。新聞広告と新聞の書評で知ったのみであった。

子規は書いた。

「(兆民)居士は咽喉に穴一つあき候由。吾等は腹背中臀ともいはず、蜂の巣の如く穴あき申候。一年有半の期限も、大概は似より候ことと存候。乍併(しかしながら)居士は、まだ美といふ事少しも分らず、それだけ吾等に劣り可申候」

『一年有半』は六、七万部も売れた。子規はそれに羨望したものか、今度はいちおう読んでから、「罵倒する程の書物」ではなく「真面目になってほめる程のものでもない」、「評は一言で尽きる。平凡浅薄」としるした原稿「命のあまり」を、十一月二十日付の「日本」に掲げた。

だが、子規にも死は切実なものとなりつつある。『仰臥漫録』十月十五日の項には、兆民批判とならべて自分の葬式についてしるしている。

葬式の広告は無用、何派の葬式でもいいが柩の前の弔辞無用、戒名無用、と書いたあと、こうつづけた。

「自然石の石碑はいやな事に候」

「柩の前に空涙(そらなみだ)は無用に候。談笑平生の如くあるべく候」

十月十九日。子規はふと昔をかえりみた。

十六、七歳の頃は太政大臣になるつもりでいた。予備門入学後は哲学者たろうと思ったが、文学も男子一生の仕事と考えをかえ、元来好んでいた文学に志を移した - これは米山保三郎の影響であろう。

そののちも理論上は太政大臣を軽視するも、感情の上ではやはり無上の栄職となんとなく思いなしていた。だが昨年来、大臣も村長も公のためにつくすという点では軽重なきと悟るに至った - これは長塚節の態度から学んだのであろう。

もし自分が健康であり、文学で米代を得ることができない身の上であったなら、幼稚園の先生などをしてみたい。造林業もおもしろかろうと思う。

幼稚園の先生とはどこから出た考えかわからない。あるいは陸家の子供たちを見てのことか。造林業の方は、短歌の弟子蕨真(けつしん)の兄の影響ではないか。

しかし病は進む。子規の体はもはや穴だらけである。歯茎からの膿もとまらぬから、始終綿をちぎっては口に含んでいる。もはや左側の歯ではものが噛めない。

そんな状態でも子規は食べつづける。十月二十八日は旧暦九月十七日、子規の誕生日である。その日子規は満三十四歳となる。それを一日早め、十月二十七日の日曜日に祝うことにして仕出しの料理を二人前とった。代金は虚子から借りた「贅沢費」の財布から払った。これまでに借りた十一円はすでに底をつこうとしている。あと二十円借りる話はついた。だが借りても返すあてのないことは双方承知である。

十月二十八日、繃帯取換えの際の傷みは堪えがたく「号泣又号泣、困難を窮む」。

十月二十九日、虚子がきて『仰臥漫録』を「ホトトギス」に連載できぬか、といったとき、子規は不快を感じた。自分の死への道程を『一年有半』のごとく万人の娯楽とするつもりか、と思ったのである。

子規はその日、十月二十九日の日付と「曇」とのみ書いて『仰臥漫録』を中断す

る。自分にも「一年有半」の時間はあるだろうと見ていた子規だが、満三十五歳の誕生日を迎える願いはついにかないそうもない。

「生命を売物にしたるは卑し」

そう子規が何度か噛みついた中江兆民は、明治三十四年十月の『続一年有半』刊行直後から症状を急速に悪化させ、十二月十三日に死んだ。五十四歳であった。四月に医者から一年半と宣告された兆民の余命はわずか八カ月であった。死の枕元に侍した幸徳秋水の慟哭ぶりは、周囲に奇異の念を抱かせるほどであった。

十二月十七日に行われた葬式は、一切の宗教的儀式を排すべしという彼の遺言に従い 「告別式」と命名された。日本における「告別式」 のはじめであるが、時代を下るうちそれは葬式のたんなるいいかえと化した。

十一月六日の夜、子規はロンドンの漱石にひさびさ手紙を書いた。

「僕ハモーダメニナツテシマツタ。毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ」

それはこんな一文ではじまっていた。もう原稿は書けぬ、手紙も書けぬ、しかし今夜は特別に手紙を書く、と子規はしるした。そしてつづけた。


イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白力ツタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋へ往タヤウナ気ニナツテ愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ。


苦痛のあまり文飾している余裕がない。文章は短く簡潔である。それだからこそ、むしろ劇的緊張感をはらむ。無意識のうちに子規が現代日本語の書き言葉を完成させてしまったといえるその手紙を、漱石はクラバム・コモンの下宿で明治三十四年十二月十六日頃手にした。


つづく

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「サナクトモ時々起ラウトスル自殺熱ハムラゝゝト起ツテ来夕、、、、、死ハ恐ロシクハナイノデアルガ苦ガ恐ロシイノダ病苦デサへ堪へキレヌニ此上死ニソコナツテハト思フノガ恐ロシイ、、、、」(明治34年10月13日付け正岡子規『仰臥漫録』)








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