2020年10月13日火曜日

「サナクトモ時々起ラウトスル自殺熱ハムラゝゝト起ツテ来夕、、、、、死ハ恐ロシクハナイノデアルガ苦ガ恐ロシイノダ病苦デサへ堪へキレヌニ此上死ニソコナツテハト思フノガ恐ロシイ、、、、」(明治34年10月13日付け正岡子規『仰臥漫録』)  

正岡子規は没する前年(明治34年1903)10月13日、母と妹が所用で不在中に自殺を考える(子規没は明治35年9月19日享年34)。

この日付け子規『仰臥漫録』によると、、、

子規一人になった時、左向きに寝て前の硯箱を見ると、6センチほどの鋭い小刀と6センチほどの千枚通しの錐が見えた。

「二寸許リノ鈍イ小刀卜二寸許リノ千枚通シノ錐トハシカモ筆ノ上ニアラハレテ居ルサナクトモ時々起ラウトスル自殺熱ハムラゝゝト起ツテ来夕」

しかし、死にきれなかった時の苦しみが恐ろしくて決心しかねている間に、予想より早く母が戻って来た。

「此鈍刀ヤ錐デハマサカニ死ネヌ 次ノ間へ行ケバ剃刀ガアルコトハ分ツテ居ル ソノ剃刀サヘアレバ咽喉ヲ掻ク位ハワケハナイガ悲シイコトニハ今ハ匍匐(はらば)フコトモ出来ヌ 已ムナクンバ此小刀デモノド笛ヲ切断出来ヌコトハアルマイ 錐デ心臓ニ穴ヲアケテモ死ヌルニ違ヒナイガ長ク苦シンデハ困ルカラ穴ヲ三ツカ四ツカアケタラ直ニ死スルデアラウカト色々ニ考へテ見ルガ実ハ恐ロシサガ勝ツノデソレト決心スルコトモ出来ヌ

死ハ恐ロシクハナイノデアルガ苦ガ恐ロシイノダ病苦デサへ堪へキレヌニ此上死ニソコナツテハト思フノガ恐ロシイ ソレバカリデナイ 矢張刃物ヲ見ルト底ノ方カラ恐ロシガ湧イテ出ルヤウナ心持モスル 今日モ此小刀ヲ見タトキニムラムラムラトシテ恐ロシクナツタカラジツト見テヰルトトモカクモ此小刀ヲ手ニ持ツテ見ヨウト迄思フタ ヨツポト(ママ)手デ取ラウトシタガイヤゝゝコゝダト思フテジツトコラエタ心ノ中ハ取ラウト取ルマイトノ二ツガ戦ツテ居ル 考へテ居ル内ニシヤクリアゲテ泣キ出シタ

其内母ハ帰ツテ来ラレタ 大変早カツタノハ車屋迄往カレタキリナノデアラウ」

「逆上スルカラ目ガアケラレヌ 目ガアケラレヌカラ新聞ガ読メヌ 新聞ガ読メヌカラ只考ヘル 只考へルカラ死ノ近キヲ知ル 死ノ近キヲ知ルカラソレ迄ニ楽ミヲシテ見タクナル 楽ミヲシテ見タクナルカラ突飛ナ御馳走モ食フテ見タクナル 突飛ナ御馳走モ食フテ見タクナルカラ雑用(ざふよ)ガホシクナル 雑用ガホシクナルカラ書物デモ売ラウカトイフコトニナル・・・・・イヤイヤ書物ハ売りタクナイ サウナルト困ル 困ルトイヨゝゝ逆上スル」

『仰臥漫録』は2冊に分綴してあり、1冊目の最後は10月13日の「古白曰来」の文字と小刀及び千枚通しの絵で終わり、2冊目の表紙の次にも10月13日の続きの記述がある。

「再ひしやくり上て泣候処へ四方太参りほとゝきすの話金の話などいろいろ不平をもらし候ところ夜に入りては心地はれはれと致申候」

「心に引っかかっていた「金の話」を、母に出させた電報で呼び寄せた坂本四方太に相談して、ようやく子規は「心地はれはれと」なる。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

子規の日常生活や病状については、前年(明治33年)に書かれた「明治卅三年十月十五日記事」に詳しい。

《正岡子規『明治卅三年十月十五日記事』》

正岡子規『明治卅三年十月十五日記事』〔『ホトトギス』第四巻第二号 明治33年11月20日〕を読む(1) 「御馳走(ごちそう)は、あたたかきやはらかき飯、堅魚(かつお)の刺肉(さしみ)、薩摩芋の味噌汁の三種なり。皆好物なるが上に配合殊(こと)に善ければうまき事おびただし。飯二碗半、汁二椀、刺肉喰ひ尽す。」

正岡子規『明治卅三年十月十五日記事』〔『ホトトギス』第四巻第二号 明治33年11月20日〕を読む(2) 「...発泡の跡、膿口など白く赤くして、すさまじさいはんやうもなく、二目とは見られぬ様に、顔色をかへて驚きしかば、妹は傍より、「かさね」のやうだ、とひやかし、...」

正岡子規『明治卅三年十月十五日記事』〔『ホトトギス』第四巻第二号 明治33年11月20日〕を読む(3) 「ふと今日は十月十五日にして『ホトトギス』募集の一日記事を書くべき日なる事を思ひ出づ。.....余も何か書かんと思ひ居し故今日は何事かありしと考ふるに何も書くべき事なし。実に平凡極る日なり。」

正岡子規『明治卅三年十月十五日記事』〔『ホトトギス』第四巻第二号 明治33年11月20日〕を読む(4終) 「「溲瓶を呼ぶ」という五文字には、そうした女性たちに介護されている男性としての子規の、恥ずかしさと申し訳なさをはじめとする様々な複合した感情の寄り集まりのうえに、二人の女性介護者への気遣いもあらわれている。」(小森陽一『子規と漱石』)

そして、この年(明治34年)9月2日、子規は病床手記『仰臥漫録』を書き始め、死去の半日前まで途中中断があるものの書き続けられた。これは子規生前には発表されず、家人、門弟にも見せようとしなかった。

「又頃日「仰臥漫録」なる冊子枕頭に在り。これは九月二日以降の日記にして仰臥のまゝ一行二行づゝ位筆を取り何くれとなく認むるもの、写生の色彩画あれば、俳句あり、御馳走の記事あり、「墨汁一滴」の更に短きが如きものにて甚だ面白く覚え候。行く行くは本誌に掲載の栄を得べく候」(9月20日発刊「ホトトギス」(4巻12号)の「虚子記」)

『仰臥漫録』を読み進めると、「明治卅三年十月十五日記事」でもそうであったが、子規の食い意地と食いっぷりに驚く。

「子規の大食ぶりは異常なほどであった。

明治三十四年九月二日の朝食に子規は、はぜの佃煮と梅干で粥四椀を食べた。

昼食には鰹の刺身と南瓜と佃煮で、やはり粥四椀。昼食時に葡萄酒一杯を飲むのは例のごとくだが、それも刺身も、子規だけにあてがわれたのである。昼食後に梨を二つ。

午後二時すぎのおやつには、牛乳一合をココアをまぜて飲みつつ、煎餅、菓子パンなど十個ばかりを口にした。

「此頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす」

と子規は書くが、無理もなかろう。

その日の夕食は、なまり節と茄子一皿で奈良茶飯を四椀食べた。夕食後に梨を一つ。

食後いつも痛む左の下腹部が、ことのほか痛んだのも大食ゆえか。結核菌は肺と骨ばかりではない、消化器も侵しているから、もはや栄養分を吸収できないのである。歯茎がはげしく痛む。指で押せば膿が出る。これにも結核菌が関係しているはずだ。下腹部の病みは一度はおさまった。しかし午後八時頃ぶり返したので、鎮痛剤を服用する。

母と妹は、子規の枕元でずっと裁縫仕事をしている。鎮痛剤の効いた子規は、ふたりと松山の昔話などに興ずる。話題はやはり食べ物屋のこと、とくに鰌(どじよう)施餓鬼(せがき)の夜、路傍に出た鰌汁の話などである。

夜十時半に蚊帳をつって寝につこうとしたが今度は呼吸がにわかに苦しい。

「心臓鼓動強く眠られず、煩悶を極む」

眠ったのは明方であった。」(関川夏央『子規、最後の八年』 (講談社文庫))

最大の看護者である妹の律への不満もでてくる。

9月20日付けの『仰臥漫録』。

「律は理窟づめの女なり。同感同情の無き木石(ぼくせき)の如き女なり。義務的に病人を介抱することはすれども、同情的に病人を慰むることなし」

「(律は)病人の命ずることは何にてもすれども、婉曲に課したることなどは少しも分らず。例へは「団子が食ひたいな」と病人は連呼すれども、彼(律)はそれを聞きながら何とも感ぜぬなり。(・・・・・)故に若し食ひたいと思ふときは「団子買ふて来い」と直接に命令せざるべからず。直接に命令すれば彼は決してこの命令に違背することなかるべし。」

「彼の同情なきは誰に対しても同じことなれども、只カナリヤに対してのみは真の同情あるが如し。彼はカナリヤの籠の前にならば一時間にても二時間にても只何もせずに眺めて居るなり。併し病人の側には少しにても永く留まるを厭ふなり。時々同情といふことを説いて聞かすれども、同情の無い者に同情の分る筈もなければ何の役にも立たず。」

9月24日の秋分の日。朝、大原家の大叔母が餅菓子持参で子規を見舞う。

「・・・・・信州から氷餅(ひもち)を送ってきた。陸家からは自家製の牡丹餅(ぼたもち)をもらった。お返しに菓子屋にあつらえた牡丹餅をやった。
「牡丹餅をやりて牡丹餅をもらふ。彼岸のやりとりは馬鹿なことなり」
この日の三食の献立。

朝飯 ぬく飯三わん 佃煮 なら漬 牛乳(ココア入) 餅菓子一つ 塩せんべい二枚
午飯 粥三わん かじきのさしみ 芋 なら漬 梨一つ お萩一、二ケ
間食 餅菓子一つ 牛乳五勺(ココア入) 牡丹餅一つ 菓子パン 塩せんべい 渋茶一杯
夕 体温卅七度七分 寒暖計七十七度 生鮭照焼 粥三わん ふじ豆 なら漬 葡萄一ふさ

このうち、佃煮、なら漬、餅菓子、牡丹餅、葡萄はもらいものである。ほかに食前に葡萄酒を一杯飲み、クレオソートを毎日六粒ずつ服用している。
この日の献立をざっと計算してみると、合計三八〇〇キロカロリーの熱量がある。現代の成人男子で一日二五〇〇キロカロリー、六十四歳軽労働なら一八〇〇キロカロリーで十分とされるから、寝返りさえ満足に打てぬ重病人としては破格である。
魚の刺身などは十五銭から二十銭した。現代では二千円か。これらは子規だけの特別食である。長塚節が人を介して届けてきた鴨三羽、左千夫が持参した本所与平の鮨、虚子が持たせてよこした小エビの佃煮、ウニ、神田淡路町風月堂の洋菓子、大阪から送ってきた松茸や大和柿、みな子規だけのものだ。左千夫、鼠骨、虚子ら高弟が相伴することばあるが、五十六歳の母と三十一歳の妹は、ときに野菜煮などは食するものの、「平生台所の隅で香の物ばかり食ふて」いたのである。」(関川夏央、前掲書)

で、9月26日の『仰臥漫録』では、またも、、、

「家人、屋外にあるを大声にて呼べど応へず。ために癇癪起り、やけ腹になりて牛乳餅菓子などを貪り、腹はりて苦し。家人、屋外にありて低声に話しをる其声は病牀(びやうしやう)に聞ゆるに、病牀にて大声に呼ぶ其声が屋外に聞えぬ理(ことはり)なし。それが聞えぬは不注意の故なりとて家人を叱る。」

10月15日の『仰臥漫録』には、死後の葬式などについて記されている。
一、葬式の広告無用。
二、何派の葬式をするとも、柩の前で弔辞、伝記の類を読みあげ無用。
三、戒名というもの無用。
四、「自然石の石碑はいやな事に候」。
五、柩の前で通夜無用。
六、「通夜するとも代りあひて可致」。
七、「柩の前に空涙は無用に候。」。
八、「談笑平生の如くあるべく」。

10月27日、子規は、虚子から借金して、繰り上げの誕生日祝いと称して、料理屋から会席膳2人分を取り寄せ母と妹に対して看護の労苦を労う。子規は、「平生台所ノ隅デ香ノ物バカリ食フテ居ル母ヤ妹」のことを慮っている。

「明日ハ余ノ誕生日ニアタル(旧暦九月十七日)ヲ今日ニ繰リ上ゲ昼飯ニ岡野ノ料理二人前ヲ取り寄セ家内三人ニテ食フ。コレハ例ノ財布ノ中ヨリ出タル者ニテイサゝカ平生看護ノ労ニ酬イントスルナリ。蓋シ亦余ノ誕生日ノ祝ヒヲサメナルベシ。」

「・・・・・病床ニアリテサシミ許リ食フテ居ル余ニハ其料理ガ珍ラシクモアリウマクモアル。平生台所ノ隅デ香ノ物バカリ食フテ居ル母ヤ妹ニハ更ニ珍ラシクモアリ更ニウマクモアルノダ。」

翌日の誕生日(旧暦9月17日)の『仰臥漫録』では、

「前日の「御馳走ノ残り」を「午飯」に食べたことが記され、夕食も「誕生日」を祝う「小豆飯」で、「左千夫鼠骨卜共ニ」満足して食べたとある。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

そして、その翌日(10月29日)、「十月二十九日 曇」で『仰臥漫録』は中断する。

11月6日、子規は結果的には最期となる漱石宛ての手紙を書く。
「モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ」と書く。
漱石は12月16日頃クラバム・コモンの下宿でこの手紙を受け取る。のちに漱石は『吾輩は猫である』「中篇」の「自序」においてこれを全文引用する。

「僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテイルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往(いつ)タヨウナ気ニナツテ愉快デタマラヌ。モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)。
画ハガキモ慥ニ受取夕。倫敦ノ焼芋ノ昧ハドンナカ聞キタイ。
不折ハ今巴理ニ居テコーランノ処へ通フテ居ルサウヂヤ。君ニ逢フタラ鰹節一本贈ルナドゝイフテ居タガモーソンナ者ハ食フテシマツテアルマイ。
虚子ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤツタ。
錬卿死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマツタ。
僕ハ迚(とて)モ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。万一出来タシテモソノ時ハ話モ出来ナクナツテルデアロー。実ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。
明治卅四年十一月六日燈火ニ書ス
                                           東京 子規拝
倫敦ニテ
漱石 兄」

「錬卿」;俳人竹村鍛、1865年生まれ、河東碧梧桐の兄で子規の幼少期からの友人、3月1日死去。
「非風」;は1870年松山に生まれた子規の俳句仲間で10月28日死去。

「近況報告ではありながら、新たに生まれた一つの命と、失われていった二つの命を対比し、「僕ハ迚モ君ニ両会スルコトハ出来ヌ」という覚悟を、子規は漱石に手渡している。そして「生キテヰルノガ苦シイ」と、看病をしてくれている周囲の者には、決して口に出せない本音を書き綴ってもいる。
そのうえで、「古白曰来」という「四字」が「僕ノ日記ニ」「特書シテアル」と、漱石に『仰臥漫録』の読者になることを、子規は強く要請しているのだ。なぜなら、この「古白曰来」という「四字」に言及した直後に、「苦シイ」ことを理由に「手紙」を「書」くことを子規は止めてしまうからだ。「書キタイコトハ多イ」にもかかわらず、「書キタイコトハ」すでに「日記ニ」「特書シテアル」と言わんばかりに。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))






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