2021年4月20日火曜日

尹東柱の生涯(17)「1943年初夏(5月か6月) 同志社大学の学友と平等院~宇治川に送別ピクニック。天ヶ瀬吊り橋で記念写真。この時点で尹東柱は帰国を決めていた。参加者から乞われて、川原で朝鮮民謡「アリラン」を母国語で歌う。」    

尹東柱の生涯(16)「1942年7月、彼の生前最後の帰郷。このとき弟妹たちに「朝鮮語の印刷物がこれから消えていくから、何でも楽譜のようなものでも買い集めるよう」頼んだという。この頼みは結局、弟妹たちに彼が与えた遺言となった。」

より続く

1942年10月

「朝鮮語学会事件」。尹東柱の延専時代の恩師・崔鉉培をはじめとして李允宰、李熙昇などハングル学者たちが多数拘束される事件(のちに李允宰、韓澄が拷問によって獄死)

10月1日

尹東柱、京都の同志社大学英語英文学科に転入学(編入試験は8月か9月にあったと推定できる)

住所は、「左京区田中高原町二七 武田アパート」。宋夢奎の下宿は「左京区北白川東平井町六〇番地 清水栄一方」で、2人の住まいの間は僅か徒歩で5分ほどの距離だったという。

武田アパートは1936年に建てられたという。京大や同志社の学生ら70人を住まわせる大きなアパートで、れんが造りの門構えと中央の庭に特色があった。庭に小鳥を飼い、花壇をつくり、その庭を木造二階建てがとり囲む「モダンなアパート」だったという。戦争が激しくなってから、このアパートは武田氏の手をはなれ、ある会社の寮になった。そして1944年か45年に出火して全焼したという。敷地跡はいま京都芸術短期大学〔現在は京都造形芸術大学〕になっている。

11月下旬

白野聖彦(のちイェール大学教授張聖彦チャンソンオン)に対し、朝鮮語学界事件について論難。(於武田アパートY)

以下、尹東柱を主語とする単独の記録をYに、宋夢奎単独の記録をSに、尹東柱が宋夢奎と一緒だった記録をYSとする(判決文からの行動記録)。

12月初旬

白野聖彦に対し、個人主義思想を排撃。(於銀閣寺付近街路Y)

12月初旬

宋夢奎、同宿の高熙旭(三高)に新しい独立運動について語る。(於宋夢奎下宿S)

この後、宋夢奎は病気療養として4ヵ月ほど帰省、朝鮮事情をさぐる。

12月31日

尹東柱の父のいとこにあたる尹永春ユンヨンチュンは、1942年の大晦日に京都の尹東柱を訪ね、1943年の正月を一緒にすごしたが、そのおり、尹東柱からフランス近現代詩への関心を聞かされている。フランシス・ジャムやジャン・コクトーといったフランス詩人について、尹東柱は熱っぽく語ったという。

その年(一九四二年)の冬、大晦日に帰省の途上わたしは京都に立ち寄った。(東柱とともに)夜遅く街に出て行き、夜店で売っているおでんやゆでた豚肉、豆腐、焼き鳥をたらふく食べた。その晩、家にもどって世がふけるまで詩について語りつづけた。読書に熱中するあまり、顔が青白くなっていることをわたしはとても憂慮した。六畳の畳部屋で寒さも忘れて夜半二時まで読み、書き、構想し・・・、これがほぼその日その日の日課であるらしい。彼の言葉を総合してみると、フランスの詩を好むという話と、フランシス・ジャムの詩は香り高くてよく、神経質なジャン・コクトーの詩はいとわしくもあるがそのしなやかな味わいがいっそ魅力があってよく、ナイドゥの詩は祖国愛に燃える情熱がすばらしいと言いながら、ときには興にのって膝を叩いたりもした。

翌日の元旦、わたしたちは琵琶湖へ散策に発った。京都の高い峰をケーブルカーにすわってゆるやかに越え琵琶湖に着いた。あまりに見事な風景にわたしが続けざまに感嘆詞を発しても、東柱はこれに対してべつに反応がなかった。詩一篇をつくるのに全神経を集中させていることがわたしには即座にわかった。

(尹永春「明東村から福岡まで」『ナラサラン』23集、ウェソル会、1976年、110 - 111頁)

1943年2月初旬

松原輝忠に対し、朝鮮での朝鮮語科目廃止を論難。(於武田アパートY)

2月中旬

松原輝忠に、学生の就職状況から内鮮間差別を論難。(於武田アパートY)

3月1日

朝鮮で兵役法の改定が発表され、それまで志願兵制に限定されていた朝鮮人に対し、内地日本人同様の徴兵制による兵役義務が謀せられることになった。(8月1日施行)

帰省中にこの公布に接した宋夢奎が、京都に戻るなり、徴兵制の問題を中心に論じたのは当然であった。宋夢奎はまた、植民地の人間にまで徴兵制を敷かなくてほならなくなった切迫した状況を冷静に分析、日本の敗戦は遠くないと認識するにいたった。

無論、日本敗戦の暁には朝鮮は独立の悲願を果たすことになる。こうして1943年の春以降、宋夢奎を中心とする彼らの集まりでは、徴兵制の問題と独立に向けた論議がにわかに盛んになってゆく。

ただ、宋夢奎が朝鮮人を対象とする徴兵制への単なる批判を超えて、将棋の駒をひとつ進めるように、徴兵制を逆手にとった武装蜂起論へと進んだことで(これはこれで宋夢奎の卓越した英明さを示すものだが)、警察としては「危険区域」に入ったと判断し、検挙に踏みきったものと思われる。具体的に武装蜂起の計画を進めたわけではなくとも、日本当局の目に、その論は衝撃的な危険思想として映ったのだった。

こうした議論が展開されて行くなかで、尹東柱も帰国を決めた。

3月末か4月

宋夢奎と上京、立教大学の白仁俊と会合。早稲田大学の安秉煜(のち哲学博士)も参加。(於東京の白仁俊下宿YS)

一緒に泊まりこんで、4日間、連日、朝鮮の現状や将来について語り合った。文学の話もし、ベートーヴェンなど古典音楽のレコードも聴いた。

4月中旬

宋夢奎から、朝鮮満州の状況を聴取、徴兵制を論ず。(於宋夢奎下宿YS)

4月下旬

白仁俊が東京から京都を訪ね、宋夢奎を交えて会合。朝鮮の徴兵制を批判、武装闘争への契機ととらえる。(於八瀬遊園地YS)

5月初旬

白野聖彦に、朝鮮古典芸術の卓越と独立の要を論ず。(於武田アパートY)

初夏(5月か6月)

同志社大学の学友と平等院~宇治川に送別ピクニック。天ヶ瀬吊り橋で記念写真。この時点で尹東柱は帰国を決めていた。参加者から乞われて、川原で朝鮮民謡「アリラン」を母国語で歌う。

5月下旬

松原輝忠に戦争と朝鮮独立を論じ、日本敗戦を期す。(於武田アパートY)

6月下旬

宋夢奎、高熙旭に大東亜戦争終結と朝鮮独立を論ず。(於宋夢奎下宿S)

6月下旬

宋夢奎から、チャンドラ・ボースのような独立運動家の待望論を聞く。宋夢奎は朝鮮独立達成への決起を激励。(於武田アパートYS)

6月下旬

白野聖彦に対し、三品彰英著『朝鮮史概説』を貸与。(於武田アパートY)

7月初/中旬

上野教授宅でスパイ呼ばわりされ、「そんなつもりじゃない」と反論。(Y)

英語英文学科主任教官上野直蔵氏(戦後、同志社大学総長)の自宅での茶会。談話中の何がしかのきっかけで「大東亜共栄圏」や「聖戦完遂」といった国粋主義的な時局のムードに触れたことにより、いつもは抑えてきた民族感情が一気に噴き出し、「自分はそんな気持ちでこの学校に来ているのではない」という言葉を口にした(推測)。

また、学生たちがひとりずつ挨拶に立ち、そのとき、朝鮮からの留学生(平沼東柱)が「諸君には死を賭して守る祖国がある。だが私には守るべき祖国がない」というような趣旨の発言をして、一瞬、座がしらけたようになったが、上野教授がぴしゃりと彼を制したという、証言もある。


つづく



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