2022年8月18日木曜日

〈藤原定家の時代091〉治承4(1180)9月4日~6日 頼朝、上総介広常の許に和田義盛を、千葉介常胤の許に安達盛長を派遣、参向を命じる。義盛は広常は常胤と相談して参上すると報告 頼朝追討の宣旨、発給される   

 


〈藤原定家の時代090〉治承4(1180)9月1日~3日 兼実、頼朝挙兵の報に接す「謀叛の賊義朝の子、年来配所の伊豆国にあり。しかるに近日凶悪を事とし、去るころ新司の先使を凌礫し〈時忠卿知行の国なり〉。凡そ伊豆・駿河両国を押領しおわんぬ。、、、彼の義朝の子大略謀叛を企つるか。宛も将門の如しと云々。」(「玉葉」) より続く

治承4(1180)

9月4日

・頼朝、上総・下総の豪族達に自分の許へ参集するよう書状を出す。上総介広常(関東随一の有力者)の許に和田義盛を、千葉介常胤の許に安達盛長を派遣、参向を命じる。6日、義盛が戻り広常は常胤と相談して参上すると報告。

豪族的武士団の長たる両人の去就が頼朝の命運を左右する。頼朝は、広常の弟金田頼次が三浦義明の聾であり、「上総御曹司」と称された父義朝以来の縁もあり、広常に期待をかけ、安房上陸後、直ちに広常のもとに赴く予定であったが、広常の動静定かならずとの風評もあり、まず使者派遣となる。

「安西の三郎景益御書を給うに依って、一族並びに在廰両三輩を相具し、御旅亭に参上す。・・・仍って路次より更に御駕を廻らされ、景益が宅に渡御す。和田の小太郎義盛を廣常が許に遣わさる。籐九郎盛長を以て千葉の介常胤が許に遣わす。各々参上すべきの趣と。」(「吾妻鏡」同日条)。

「晩に及び、義盛帰参す。申し談りて云く、千葉の介常胤に談るの後参上すべきの由、廣常これを申すと。」(「吾妻鏡」9月6日条)。9日、盛長は常胤帰順の報を持ち帰る。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「四日、癸丑。安西三郎景益が御書を受けたので、一族と安房国の在庁官人二、三人をともない、御宿所に参った。景益が申した。「すぐに広常のもとにお入りになるのはよろしくありません。長狭六郎のように謀略をめぐらすものは、まだ多くいます。まずは使者を出して、迎えのために参るようにお命じになるのがよいでしょう」。そこで、道中から御馬を引き返され、景益の家にお渡りになった。和田小太郎義盛を広常のところへ遣わし、藤九郎(安達)盛長を千葉介常胤のところに遣わした。いずれも、参上するように命じたのである。」。

「六日、乙卯。夜になり、義盛が帰参して申した。千葉介常胤と相談した上で参上するつもりです、と広常が申したという。」。

○上総介広常(?~1183):

父は平(千柴)常澄。桓武平氏の一支流で、平忠常の子孫。上総国の在庁宮人として代々上総介を称し、房総地域の平氏の族長で一族を統率。保元・平治の乱では源義朝に属したが、義朝敗北後は平氏に従う。その後、上総が平氏の有力家人藤原忠清の知行となり平氏と対立。この年、頼朝の挙兵には、上総の武士団2万騎を率いて参降(『吾妻鏡』治承4年9月19日条)。同年10月、富士川の戦の勝利後、西上を主張する頼朝に対し、常陸佐竹氏の征伐を主張、11月、勝利に導く。戦後は、常陸にも勢力を拡大するが、それ故に頼朝から警戒され、寿永2年(1183)末、頼朝に下馬の礼をとらなかったことから謀反を疑われ、嫡子能(良)常と共に誅殺される。しかし、翌年正月には、広常が上総国一宮に頼朝の武運を祈る願文と甲を奉納していたことがわかり、嫌疑が晴れ、一族は赦された(『吾妻鏡」寿永3年正月17日条)

○和田義盛(1147~1213):

和田義明の孫で義宗の子。頼朝の挙兵に応じて軍功をたて、この年(治承4年)初代侍所別当に任じられる。源平合戦、奥州合戦にも武功をあげ、頼朝の信任を得た。頼朝没後も北条氏と連携して幕府政治に大きな影響力を保持し続けたが、北条義時が執権となると次第に対立を深めていく。義盛が上総国司に推挙されんことを将軍実朝に願い出た際には、北条政子は、「侍受領」は許可しないというのが頼朝の定めた例であるとしてこれを拒絶(『吾妻鏡』承元3年5月12日、23日条)。さらに北条氏排斥を企てた泉親衛の乱で甥の胤長が捕縛された際、義盛は一族98人を引き連れて赦免を願い出たが、義時はそれを拒否して義盛らの面前で胤長を縛り上げた(『吾妻鏡』建保元年3月9日条)。この義時の挑発に乗せられる形で和田氏は鎌倉で反北条氏の兵を挙げ、壮絶な市街戦の末に敗れ、義盛らは由比浜で戦死。  

9月4日

・頼朝が伊豆国府を占領したとの報が福原(兵庫県神戸市)に届けられる。

9月5日

・頼朝追討の宣旨。

朝廷は源頼朝の名前を調べ出し「伊豆国流人源頼朝ならびに与力の輩」を追討すべく、官宣旨(右弁官下文)が発給された。官宣旨には、吉事は左弁官、凶事は右弁官という慣例があり、兵事は凶事にあたるので右弁官が担当した。

追討使の総大将には、右近衛権少将平維盛・薩摩守平忠度(ただのり)・三河守平知度(とものり)の三人が指名された。駿河国は平宗盛の知行国で目代橘遠茂(たちばなのとおもち)が赴任し、伊豆国には平氏家人伊東祐親が在国し、相模国には源有網追捕のために大庭景親が下向していた。源頼朝が伊豆国で挙兵しても、出口はすべて平氏与党に抑えられていた。清盛は、頼朝挙兵が大事には至らないと判断し、小松家の惣領維盛を追討使として派遣すれば十分と判断していた。副将につけた忠度は武勇の人と知られていても、忠度も知度も数十騎の軍勢を率いる庶流・庶子であった。現地で合流する家人は優勢の人々なので、小松家で十分という判断である。軍勢が福原京を進発するのは、9月22日と定められた。

官宣旨は、「東海・東山両道の武勇に堪えるの者は、同じく追討に備えしむべし」と、東海道・東山道の国衙は在庁官人や国内の豪族に対し、軍勢を集めて追討使に合流するよう命じている。維盛率いる軍勢は、福原を出発する時は小松家を中心とした平氏の軍勢が主力であるが、途中で国衙の軍勢が合流し、東に進むほど雪だるま式に膨らんでいく予定であった。

9月6日

・大庭景親から石橋山合戦の勝報が届く(『玉葉』・『平家物語』)。

翌7日、上野国の新田義重から平清盛のもとに石橋山合戦の次第を伝える書状が届く(『山槐記』)。石橋山合戦の勝利を伝えられた朝廷は、追討使派遣に緊張感を欠く対応をし始める。


つづく


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