〈藤原定家の時代089〉治承4(1180)9月 定家(19)「紅旗征戎、非吾事」(「明月記」) この年(「明月記」起筆の年)1月~8月の定家(19歳)の動静 より続く
治承4(1180)
9月1日
・頼朝、安房の安西景益に参向を促す。
「武衛上総の介廣常が許に渡御有るべきの由仰せ合わさる。北條殿以下、各々然るべきの由を申す。爰に安房の国の住人安西の三郎景益と云うは、御幼稚の当初、殊に昵近し奉る者なり。」(「吾妻鏡」同9月1日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「一日、庚成。武衛は上総介広常のもとにお渡りになろうと仰った。北条殿(時政)をはじめ、皆それがよいと申し上げた。安房国住人の安西三郎景益は、(頼朝が)御幼少の頃に特にお側近くでお仕えしていた者である。そこではじめに御書を送られた。その内容は、「令旨は厳重なものなので、(安房国の)在庁官人らを誘って参上せよ。また、安房国で京都から下ってきた輩は、ことごとく搦め進めよ。」というものであった。」
○景益。
安西三郎。安房国の住人、頼朝の幼少時に仕えており、頼朝が安房に逃れると、誘いを受けて直ちに味方に参じる。
9月2日
・北条政子、頼朝の安否を知る。
「御台所伊豆山より秋戸郷に遷り給う。武衛の安否を知り奉らず。独り悲涙に漂い給うの処、今日申の刻、土肥の彌太郎遠平御使いとして、眞名鶴崎より参着す。日来の子細を申すと雖も、御乗船後の事を知ろし食されず。悲喜計会すと。」(「吾妻鏡」同9月1日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「辛亥。御台所が伊豆山から秋戸郷へとお移りになった。武衛の安否をご存知なく、一人悲しみの涙にくれていらしたところ、今日の申の刻に、土肥弥太郎遠平が御使者として真名鶴崎より到着した。この間の状況を申し上げたが、船にお乗りになってから後のことは知り得ないので、悲しみと喜びとが入りまじっていたという。」
9月2日
・頼朝の伊豆での反乱、福原に届く。
早馬(「平家物語」巻3):
2日、「大庭の三郎景親東国より早馬をたて、新都につき、太政入道殿に申けるは、伊豆国流人前右兵衛佐頼朝、一院の院宣・高倉宮令旨ありと申て、忽にむほんを企て、・・・土肥・土屋・岡崎等與力して三百余騎の兵をひきいつつ、石橋といふ所にたて籠りて候を、同国の住人大庭三郎景親、武蔵相模に平家に心ざし思ひ参らする者どもを招きて、三千余騎にて、去二十三日石橋へよせてせめ候しかば、兵衛佐無勢なるによりて、さんざんにうち散らされて、椙山といふ所に引籠もる。・・・」。
その後、畠山五百余騎の味方を得て、源氏方の三浦大介義明と由井、小坪の浦で戦い、一度は敗北したが、勢を挽回した畠山軍、三浦の衣笠の居城を攻め、義明は討たれた。三浦一党は海上を安房、上総へのがれた、と。
9月3日
・兼実、頼朝挙兵の報に接す。
4日、藤原忠親(「山槐記」)がこれを知る。
「伝え聞く、熊野権の別当湛増謀叛す。その弟湛覺の城、及び所領の人家数千宇を焼き払う。鹿瀬以南併せて掠領しをはんぬ。行明同意すと。この事去る月中旬比の事と。又伝え聞く、謀叛の賊義朝の子、年来配所の伊豆国にあり。しかるに近日凶悪を事とし、去るころ新司の先使を凌礫し〈時忠卿知行の国なり〉。凡そ伊豆・駿河両国を押領しおわんぬ。又為義の息、一両年熊野の辺りに来たり住む。しかるに去る五月の乱逆の刻み、板東方に趣き了りて与力す。彼の義朝の子大略謀叛を企つるか。宛も将門の如しと云々。」(「玉葉」同日条)。
この時点では、頼朝は単に「謀叛の賊義朝の子」である。
9月3日
・頼朝、小山朝政・下河邊行平・豊島清元・葛西清重ら武蔵を中心とした関東の有力武士に参向を促す。
「仍って御書を小山の四郎朝政・下河邊庄司行平・豊島権の守清元・葛西の三郎清重等に遣わさる。これ各々有志の輩を相語らい、参向すべきの由なり。就中、清重は源家に於いて忠節を抽んずる者なり。而るにその居所江戸・河越等の中間に在り。進退定めて難治か。早く海路を経て参会すべきの旨、慇懃の仰せ有りと。」(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「三日、壬子。景親が源家譜代の御家人でありながら、今回はあちこちで弓を引き申したのは、単に平氏の命令を守っているのではなく、別のことを企てているようにも見える。ただし、景親ら凶徒の一味に加わっている者たちは、武蔵、相模の住人ばかりで、そのうち三浦・中村は今は御供にある。それならば、景親の謀略は大したことはあるまいと、評議があった。そこで、御書を小山四郎朝政、下河辺庄司行平、豊島権守清元、葛西二郎清重らに送られた。それぞれ志のある者を誘って参上するようにという内容であった。とりわけ「清重は、源氏に対して忠節をはげんでいる者であるが、その居所は江戸と河越の中間にあるので、動きが取りにくいであろう。早く海路を経てやってくるように。」という丁重な仰せがあったという。また、「綿衣を進上するように。」と、豊島右馬允朝経の妻に仰せられたという。朝経が在京して留守をしているからである。今日、平北郡から広常の居所へ出発された。しばらくして辺りが暗くなってきたので、途中の民家に宿泊されたところ、当国の住人である長狭六郎常伴は、志を平家方に寄せていたので、今夜御宿所を襲おうとしていた。しかし三浦次郎義澄がこの国や郡の案内人として付近に詳しく、密かに常伴の用意を聞き知って、これを迎え撃った。しばらく両者は戦っていたが、常伴はついに敗れたという。」
○小山朝政(1158保元3~1238暦仁元):
小山政光の男。母は宇都宮宗綱の女(寒河尼)。小四郎と称す。石橋山の敗戦からの復活を目指す頼朝に合流、以後有力御家人として成長。正治元年(1199)播磨国守護。幕府草創期に各地でめざましく活躍。3代将軍実朝が御家人達に頼朝からの書状などの提出を求めた際、多くが数通しか示せない中で、朝政ら3名は「数十通を献ぜし」める(「吾妻鏡」元久元年5月19日条)。また承久の乱の際には、「上洛に及ばず、各鎌倉に留まり、且は祈祷を廻らし、且は勢を催し遣はす」(「吾妻鏡」承久3年5月23日条)とされた宿老に数えられている。その後程なく出家。「小山文書」に残された寛喜2年(1230)2月20日の小山朝政譲状案によれば、所領を譲与した嫡男朝長が早世した為、朝長の子長村を嫡男として相伝した所領・所職は、下野・武蔵・陸奥・尾張・播磨5ヶ国に及ぶ。
○下河辺行平(生没年未詳):
鎌倉初期の御家人。源頼政の郎党の下河辺行義の子。秀郷流藤原氏で、八条院領下総国下河辺荘の荘司。この年(治承4年)5月、頼政挙兵を頼朝に告げる。頼政の敗死後、頼朝に従って信任を受け、平氏追討・奥州攻めで武勲をあげる。平氏追討では、範頼に従って鎮西を攻める。この時は兵糧不足に苦しむが、行平は自らの甲胃を手放して小船を手に入れ戦おうとする。弓の名手で、頼朝命により頼家の弓の師範となる。また、武家の故実にも通じている。建久6年(1195)11月、頼朝より源氏の門族に准じる待遇を与えられる。
下河辺行義の子には六男に下河辺行秀がいる。出家して智走房と称し、天福元年(1233)3月、熊野那智浦より補陀落渡海(小舟で海に出る捨身行)を行う。その際、出家よりこれまでの事情を記した書簡を北条泰時へ送る。元々御家人で、建久4年(1193)4月、源頼朝の下野国那須野の巻狩で大鹿を射ることを命じられたものの外し、それを恥じて狩場で出家をして逐電。その後、熊野に入って法華経の読誦請をし、今回の補陀落渡海に及ぶ。
○清元。
豊島康家の男。○清重。豊島清元の男。葛西三郎。○朝経。豊島清元の男。
○葛西清重(1162~1238):
豊島清元の2男。母は下河辺行義の女。頼朝挙兵に際し、その召に応じて参陣、頼朝より武蔵国丸子荘を賜る。同年11月10日夜、頼朝は清重宅に止宿した際、清重は、「妻女をして御膳を備へしむ、但し其実を申さず、御結構に入れんが為、他所より青女を招く」と述べる(「吾妻鏡」治承4年11月10日条)。養和元年(1181)、頼朝の寝所を警固する弓箭に達者な者の1人に選ばれ、寿永元年(1182)には、北条政子の安産祈祷の為に、武蔵国六所宮への使者となる。寿永3年、平家追討のため範頼に従い西海道に赴き、翌年、豊後国に渡る。文治5年(1189)、奥州合戦に際し、大手軍の頼朝麾下で従軍し、加藤景廉と共に武蔵・上野の「党者等」を率いる(「吾妻鏡」文治5年7月17日条)。阿津賀志山合戦では、三浦義村らと共に僅か7騎で先陣を争い、畠山重忠陣を追い越す。これらの軍功が認められ、同年9月、陸奥国内の御家人の奉行と平泉郡内の検非違使所の管領を命じられる。また、伊沢・磐井・牡鹿郡以下数ヶ所を拝領。清重は奥州残留が命ぜられ、建久元年(1190)、奥州藤原氏の残党大河兼任と戦い、これを破り、のち「奥州総奉行」と称される。同年頼朝上洛に際し、御宿奉行を命ぜられ、右兵衛尉に任ぜられる。正治元年(1200)、梶原景時弾劾状に署判し、元久2年(1205)の畠山重忠の乱では、北条義時軍の先陣を勤める。建保7年(1219)3代将軍実朝暗殺に伴い、出家入道したと考えられ、承久の乱に際しては宿老の1人として鎌倉に残る。貞応3年(1224)には、新執権泰時への協力を求められる。嘉禎4年(1238)9月14日没(77)。
○朝政(1158保元3~1238暦仁元)。
小山政光の男。小山(小)四郎を称す。
○清元。豊島康家の男。
○清重。豊島清元の男。葛西三郎。○朝経。豊島清元の男。
つづく
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