2022年8月28日日曜日

〈藤原定家の時代101〉治承4(1180)年10月18日~20日 頼朝・武田信義合流 富士川の合戦(水鳥の羽音に驚いて追討軍は潰走したと言われているが、、、)の実相 

 


〈藤原定家の時代100〉治承4(1180)年10月13日~17日 義仲、上野(群馬県)進出、亡父義賢の家臣を味方に加える 甲斐源氏(武田信義・一条忠頼・安田義定ら)、平家方橘遠茂軍を破る 頼朝進発 維盛の追討使軍、駿河高橋宿に到着  この頃、兵糧不足のため数百騎が源氏軍に投降・離散 より続く

治承4(1180)年

10月18日

・大庭景親、逃亡。頼朝、駿河黄瀬川で武田信義以下甲斐源氏と合流(実際は10月20日か?)。富士川の東岸源頼朝軍20数万騎、西岸平氏軍2千余騎。

「大庭の三郎景親平家の陣に加わんが為、一千騎を伴い発向せんと欲するの処、前の武衛二十万騎の精兵を引率し、足柄を越え給うの間、景親前途を失い、河村山に逃げ去ると。今日、伊豆山専当、衆徒の状を捧げ馳参す。・・・晩に及び黄瀬河に着御す。来二十四日を以て箭合わせの期に定めらる。爰に甲斐・信乃の源氏並びに北條殿二万騎を相率い、兼日の芳約に任せ、この所に参会せらる。武衛謁し給う。」(「吾妻鏡」同日条)。

頼朝、黄瀬川にて論功行賞、北条時政・義時父子は馬、直垂を賜う

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十八日、丁酉。大庭三郎景親が平家の陣に加わるために、一千騎の兵を連れて出発しようとしたところ、前武衛(頼朝)が二十万騎の精兵を率いて足柄を越えられたので、景親は先に進めなくなり、河村山(現、足柄上郡山北町付近か)に逃亡したという。・・・(頼朝は)晩になって黄瀬河にお着きになった。来る二十四日をもって、合戦の日と定められた。そうしたところ甲斐源氏・信濃源氏・北条殿(時政)が二万騎の軍勢を率い、あらかじめの約束によってこの場所で合流された。頼朝が彼らにご面会になると、各々まず篤光の夢想によって菅冠者たちを討って田園を諏訪の上下社に寄進したという事を、口々に申し上げた。寄進した事は、兼ねてからの御意志に叶うものあったので、(頼朝は)この事に感謝された。次いで駿河目代(橘遠茂)と合戦した事にっいて、目代の郎等で生け捕りにした徒党十八人を召して、御覧になった。また同じ駿河目代との合戦中に、加藤太光員が目代遠茂を討ち取り、遠茂の郎等一人を生け捕った事、加藤次景廉が遠茂の郎等二人を討ち取り、一人を生け捕った事を申し上げた。また工藤庄司景光は波志太山で(俣野)景久と合戦し、忠節を尽くした事を言上した。(頼朝は)皆に恩賞を与えると仰せられた。この時、景親に味方して源氏に矢を射かけた者たちは、後悔して肝をつぶしたという。それから荻野五郎俊重・曽我太郎祐信らは手を束ねて従属を示したという。夜になり、(土肥)実平・(土屋)宗遠等が頼朝に盃酒を献上した。北条殿父子(時政・義時)以下の伊豆・相模の人々は、それぞれ御馬と御直垂等を賜った。。その後、実平を御使として、松田御亭〔故中宮大夫進(源朝長)の旧宅である〕を修理するように、中村庄司宗平に仰せられたという。」。

○俊重(?~1180治承4)。

現、厚木市上荻野・中荻野・下荻野付近を本拠とするか。流人時代の頼朝に仕えていたというが、石橋山の戦では大庭景親に従って頼朝と戦う。

○祐信。

相模国曽我庄の住人。曽我兄弟の養父。石橋山では頼朝と戦うが、荻野俊重とは異なり、許され本領安堵される。

○宗平。

相模国余綾郡中村庄(波多野庄の南)の住人。義朝の郎従として「天養記」に名が見える。

10月19日

・富士川合戦の実際は、、、

夜、手越宿(静岡市駿河区)まで追討使の軍勢と行動を共にしてきた者が宿所に火を放ち、この火事に驚いて飛び立った数万羽の水鳥の羽音が、襲来した敵の軍勢の足音に聞こえたので、追討使はここで壊走したという。追討使が総崩れになって西に敗走する光景をみた東海道諸国の人々は、平氏の時代が終わったことを知る。

10月19日

・天野遠景、伊豆鯉名泊で平家軍に合流のため出港準備中の伊東祐親を捕虜とし、黄瀬川の三浦義澄に預ける。小笠原長清、源頼朝黄瀬川の陣に到着。

「伊東の次郎祐親法師、小松羽林に属かんが為、船を伊豆の国鯉名の泊に浮べ、海上を廻らんと擬すの間、天野の籐内遠景窺かにこれを得て、生虜らしむ。今日相具し黄瀬河の御旅亭に参る。而るに祐親法師が聟三浦の次郎義澄、御前に参上しこれを申し預かる。罪名落居の程、義澄に召し預けるの由仰せらる。・・・その後加々美の次郎長清参着す。去る八月上旬出京す。路次に於いて発病するの間、一両月美濃の国神地の辺に休息す。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十九日、戊戌。伊東次郎祐親法師は小松羽林(惟盛)の味方につくために、伊豆国鯉名泊(現、静岡県賀茂郡南伊豆町湊・手石付近か)に舟を浮かべ、海上を航行しようとしたところ、天野藤内遠景がこれを見付けて生け捕りにし、今日黄瀬河の御宿所に祐親を連れて参上した。しかし祐親法師の聟である三浦次郎義澄が御前に参上し、祐親の身柄を預けて欲しいと申し上げたので、罪名が決まるまで、義澄に召し預けるように仰せられた。以前、祐親法師は武衛を殺害しようとしたが、祐親の二男である九郎祐泰が告げてきたため、この難を逃れられた。その功を称えて褒賞を与えようと呼び出されたところ、祐泰は「父は既に御怨敵として囚人となっています。その子である私がどうして恩賞を受ける事が出来ましょうか。速やかに暇を賜りたく存じます。」と申し、平氏に味方するために上洛したという。世の人々はこの話を美談と評した。その後、加々美次郎長清が到着した。「去る八月上旬に京を出て、道中で発病したため、一、二カ月美濃国神地の辺りで休んでいました。先月になって養生しながら甲斐国に到着したところ、一族が皆参上すると聞き、鞭を揚げて釆ました。兄の秋山太郎(光朝)は、今なお在京しています。」と申し上げた。(長清は)この間、兄弟そろって(平)知盛卿に仕えて京都にいた。・・・」。

○祐泰(伊東九郎祐清の誤り)。

祐清(?~寿永2)。祐親の子。本条及び建久4年6月1日条によれば、この後、祐清は平家軍に加わり北陸道の合戦で討死したという。一方、寿永元年2月15日条では、父の自害を聞き頼朝に殺されることを願ったとある。なお祐清の兄河津三郎祐泰は安元2年に工藤柘経のために横死。

○長清(1162応保2~1242仁治3)。

父は甲斐源氏の遠光。母は和田義盛の娘。小笠原二郎。青蓮院門跡領の甲斐国加賀美庄の住人。幕府重臣となり、のちに阿波国守護となる。

10月20日

・「吾妻鏡」では、この日、甲斐源氏軍と追討使が対峙している際に、水鳥の羽音に驚いた追討使が退却したとある。

この戦いは頼朝軍が戦場に間に合わなかったので、実際には武田氏ら甲斐源氏と追討軍の戦いになった。富士川戦前に現地の平家方勢力は、甲斐と駿河で二度までも甲斐源氏の安田義定とその兄武田信義らによって壊滅させられており、遠征軍は事前にあてにしていた兵力を損じ、戦闘意欲を失っていた。対陣中に味方がいきなり数百の単位で敵に投降するという事態も発生した

平家軍が水鳥に驚いて逃げたというのは確実な史料に見えるから(『山槐記』11月6日条)、史実と考えてよい。が、どうやらそれは、忠度らの部隊が京都にもたらした情報で、自らの敗走を弁解するため、主力がふがいなく潰走したことを強調する必要があったからと考えられており、寄合所帯ゆえの誇張された内情暴露と考えるべきである。

維盛自身は「あへて引退すべきの心なしと云々、しかるに忠清次第の理(ことわり)を立て、再三教訓し、士卒の輩、多くもつて之に同ず、よりて黙止(もくし)する能はず」(『玉葉』治承4年11月5日条)と伝えられており、敗軍のなかで健気にも戦意を失わなかったらしい。

「武衛駿河の国賀島に到らしめ給う。また左少将惟盛・薩摩の守忠度・参河の守知度等、富士河の西岸に陣す。而るに半更に及び、武田の太郎信義兵略を廻らし、潛かに件の陣の後面を襲うの処、富士沼に集う所の水鳥等群立ち、その羽音偏に軍勢の粧いを成す。これに依って平氏等驚騒す。爰に次将上総の介忠清等相談して云く、東国の士卒、悉く前の武衛に属く。吾等なまじいに洛陽を出て、中途に於いてはすでに圍みを遁れ難し。速やかに帰洛せしめ、謀りを外に構うべしと。羽林已下その詞に任せ、天曙を待たず、俄に以て帰洛しをはんぬ。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「二十日、己亥。武衛が駿河国賀島にご到着になった。また左少将(平)惟盛・薩摩守(平)忠度・三河守(平)知度らが、富士川の西岸に陣を張った。そこで夜半の頃に、武田太郎信義が計略を企て、密かに陣の背後を襲おうとしたところ、富士沼に集まっていた水鳥の一群が飛び立った。その羽音はまったく軍勢の音のように思われ、平氏は驚きあわてた。ここで平氏方の次将上総介忠清らが言った。「東国の士卒はみな頼朝に味方しています。私たちほうかつに京都を出発して、すでに包囲を逃れ難くなっています。急いで京都に戻り、他に作戦を考えるべきです」。羽林(維盛)以下の平氏軍はその言葉に従い、夜が明けるのを待たずに、すぐさま京都に帰ってしまった。その時飯田五郎家義・同子息太郎達が富士川を渡り、平氏の従軍を追いかけたので、伊勢国住人伊藤武者次郎が引き返してきて合戦になり、飯田太郎がすぐに討ち取られたが、家義は伊藤を討ったという。印東次郎常義は鮫島で誅されたという。」。

「官軍の勢を計るのところ、彼是相並びて四千余騎、・・・各休息するの間、官兵の方の数百騎、忽ち以て降落し敵軍の城に向かい了ぬ。拘留するに力なし。残るところの勢わずか一二千騎に及ばず。武田方四万余と云々。敵対するに及ぶべからざるにより、竊に以て引き退く。是れ則ち忠清の謀略なり。維盛において敢えて引き退くべきの心なしと云々。而るに忠清、次第の理を立てて再三教訓す。士卒の輩も多く以てこれに同じ。仍て黙止することあたわず」(「玉葉」)。

「山槐記」11月6日条に虚言甚だ多い「閭巷(リョコウ)の説」として、雷のような鳥の羽音に平家軍が退却した話を記し、合戦半月後には、巷の噂として水鳥の話が流布していたことが窺える。

「吉記」11月2日条では、頼朝軍巨万の風説に加え、手越宿失火に驚いて平家軍が退却したと記す。

富士川(「平家物語」巻5):

9月20日、頼朝追討軍、福原発。大将軍小松権亮少将維盛(23)、副将軍薩摩守忠度。計3万余。10月16日、駿河清見が関、着。維盛は足柄を越えて関東で戦おうとはやるが、侍大将上総守忠清は富士川の前で味方の揃うのを待つよう進言。長井の斎藤別当実盛は関東武者の強さを語り、平家の兵は震え上がる。23日夜、富士川の水鳥が一斉に飛び立つ音に驚いた平氏は逃げる。翌24日午前6時頃、源氏20万は富士川の岸で鬨の声をあげる。

「その夜の夜半ばかり、富士の沼にいくらもむれゐたりける水鳥どもが、なににかおどろきたりけん、たゞ一どにばっと立ちける羽音の、大風いかづちなどの様にきこえければ、平家の兵共、『すはや源氏の大ぜいのよするは。斎藤別当が申つる様に、定て搦手もまはるらん。とりこめられてはかなうまじ。こゝをばひいて尾張河洲俣をふせけや』とて、とる物もとりあへず、我さきにとぞ落ゆきける」(「平家物語」)

□斎藤別当実盛が語る関東武者の強さ(平家滅亡の預言者として「平家物語」に登場する)

平氏軍の一員であった斎藤実盛は、大将軍平維盛の諮問にたいし、つぎのように語ったという(『平家物語』巻第五 「富士川」)。

すなわち、維盛から実盛ほどの「つよ弓の精兵(せいひよう)」はどれくらい東国にいるかと尋ねらたのにたいして、実盛はまず矢の長さについて、自分のものは十三束(そく、束は一握りの拳の長さで、矢の長さの単位。通常は十二束=約八三センチメートル)しかないが、「大矢」を引く東国武士のあいだでは、十五束以下の者はおらず、しかもそれは五、六人張りの強矢があたりまえで、このような精兵が射る矢は鎧の二、三両をたやすく射とおす威力がある、と東国武士の並はずれた射芸の技量について語っている。

親も討たれよ、子も討たれよ

さらに実盛は、東国で「大名」とよばれる武士は、勢の少ない者でも五百騎に満たない者はなく、馬に乗っては落ちることを知らず、どんな悪所を馳せても馬を倒すようなことはない、と東国武士の勢力の大きさと高度な馬術を強調する。

そのうえで、「親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越え乗り越えたたかう候」と、東国武士は親や子が死んでもそれを乗り越えながら戦うのにたいして、西国武士は親が死ねば供養の法事をまずおこない、子が死ねば嘆き悲しんで戦うことをやめてしまうと述べ、また、兵糧米がなくなれば西国武士は収穫の秋まで合戦を延期し、暑い夏や寒い冬は合戦を避けようとするが、東国武士はけっしてそのようなことをしない、と両者の違いを大げさに語るのである。

平氏の武士たちは「これきいて、みなふるいわななきあえり」と物語はつづくのであるが、本書でも後述するように、この富士川合戦において、平氏軍が水鳥の羽音に驚いて戦わずして逃走してしまったことは歴史的事実であり、平氏軍のなかに東国の反乱軍とはじめて戦う不安や恐怖が存在したことは確かであろう。ここで斎藤実盛が語っているような噂(デマ)が平氏軍のなかに広まっていたとしても、なんら不思議ではない。

しかし、じつさいには富士川合戦に参加していなかった武蔵国長井荘の武士斎藤実盛を登場させ(「吾妻鏡」治承四年十二月二十二日条)、彼の口をとおしてこれを「真実」として語らせているところに、『平家物語』の虚構性が存在するのである。

(川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』)


つづく



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