2022年8月27日土曜日

〈藤原定家の時代100〉治承4(1180)年10月13日~17日 義仲、上野(群馬県)進出、亡父義賢の家臣を味方に加える 甲斐源氏(武田信義・一条忠頼・安田義定ら)、平家方橘遠茂軍を破る 頼朝進発 維盛の追討使軍、駿河高橋宿に到着  この頃、兵糧不足のため数百騎が源氏軍に投降・離散            

 


〈藤原定家の時代099〉治承4(1180)10月6日~12日 頼朝、鎌倉入り 鶴岡八幡宮(現在の元八幡宮)遥拝。故父義朝の亀谷の旧跡(現在の寿福寺)に臨む 政子、鎌倉入り より続く

治承4(1180)年

10月13日

・木曾義仲、亡父義賢ゆかりの上野(群馬県)に進出、住民に藤姓足利俊綱は恐れるに足らずと下知(「吾妻鏡」)。上野多胡荘で亡父義賢の家臣を味方に加える。後、東国での頼朝との衝突を避けるため北陸道に進出。

義仲の父義賢はかつて上野多胡荘に住し、武蔵進出を狙う義朝と対立。義賢の妻の父は桓武平氏秩父氏流れの重隆で、これと結び勢力拡大狙う。久寿2年(1155)、義朝の長子義平と義賢は合戦、義賢・重隆は敗死亡。

上野国では、宇治合戦で活躍した平氏の与党足利忠綱(秀郷流藤原氏)が国府を守って勢力を振るっていた。それに対して河内源氏の新田義重が寺尾城(高崎市)に軍勢を集めていた。上野国は、源義朝・頼朝父子の勢力が及ばない土地であり、頼朝が挙兵参加を働きかけても上野国の人々は静観を決め込んでいた。

この状況下で、大蔵合戦(1155年)で非業の死をとげた帯刀先生義賢の子、木曽義仲が軍勢を率いて進出してきた。多胡氏をはじめとした義重の郎党や、足利忠綱の勢威を苦々しく思っている人々は義仲のもとに馳せ参じた。

義仲が上野国で配下に加えた多胡氏、那波氏は共に京都まで攻め上り、義仲最期の日まで側を離れようとしなかった。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十三日、壬辰。木曽冠者義仲が亡父義賢主のあとに倣い、信濃国を出て上野国に入った。すると住人が次第に従うようになってきたので、(足利)俊綱からの妨げがあっても恐れることはない、と命じたという。」。

10月13日

・平維盛率いる東国追討軍、駿河手越駅に到着。

10月13日

・甲斐源氏、石和を出発、大石駅~若彦路~駿河入り。

14日、富士山麓の鉢田(はちた、愛鷹あしたか)で合戦。

甲斐源氏(武田信義・一条忠頼・板垣兼信・武田信光・逸見光長・安田義定・小笠原長清、工藤景光・行光・市川行房)、富士山西麓朝霧高原付近で平家方橘遠茂軍を破る。駿河目代長田入道父子、梟首。橘遠茂、捕縛。甲斐源氏、駿河東部占領。大庭景親軍、追討使軍と合流成らず河村山へ逃亡、捕縛。上総広常に預けられる。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「(十二日)、また、甲斐源氏と北条殿父子(時政・義時)が駿河国に赴き、今日の暮れに大石駅に宿泊したという。戊の刻に、駿河目代(橘遠茂)が長田入道の計略で富士野を廻って襲来するとの知らせがあった。その途中で迎えうち、合戦すべきだと群議で決定した。武田太郎信義・(一条)次郎忠頼・(板垣)三郎兼頼(兼信)・(武田)兵衛尉有義・安田三郎義定・逸見冠者光長・河内五郎義長・伊沢五郎信光らが、富士北麓の若彦路を越えた。加藤太光員・同(加藤)藤次景廉は、石橋山の合戦後に甲斐国の方へ逃れていたが、そこで今、それらの人と共に駿河に到ったという。」。

「十四日、癸巳。午の刻に武田・安田の人々が神野と春田路を経て、鉢田の辺りに到った。駿河目代(橘遠茂)は大軍を率いて甲州に向かっていたところ、不意にこの場所で武田・安田軍に遭遇した。この一帯は山峰が連なり、道を大きな岩がさえぎっているので、前に進みがたく、後ろにも退きがたい。しかし(伊沢)信光は(加藤)景廉らと共に先頭を進み、兵法を尽くし奮って攻め戦ったので、遠茂軍はしばらく防御の構えをしていたが、ついに長田入道子息二人の首が取られ、遠茂は生け捕られた。従軍して命を落とし傷を蒙った者は数知れず、後ろの方に随っていた者たちは矢を発する事も出来ず、悉く逃亡した。酉の刻に、首を富士野の伊堤の辺りに晒したという。」。

○兼頼(兼信)。

武田信義の子。現、山甲府市板垣郷に居住して板垣三郎と称す。頼朝とは疎遠で、のち隠岐に流罪。

○有義(?~1200正治二)。

武田信義3男。平家に仕えて左兵衛尉の官を得る。一条忠頼没後に武田の惣領となるが、梶原景時の謀反に連坐し滅ぶ。

○光長(1128大治3~?)。

清光の子。武田信義とは双子の兄弟という。父祖以来の逸見荘を相続うるが、惣領の座は信義が占める。

○義長。

清光の子という。駿河国に近い甲斐国郡南部に勢力をもつ。

○信光(1162応保2~1248宝治2)。

武田信義5子。石和五郎と称する。兄の有義の没後に武田宗家をつぐ。承久の乱などで活躍、安芸国守護となり、伊豆守に任じた。

10月15日

・頼朝の居所として、山内にあった正暦年間(990~995)に建てられたという知家事兼道(ちけじかねみち)の旧宅が大倉郷に移築され、鶴岡八幡宮は小林郷の北山(現在の所在地である鎌倉市雪ノ下)に遷された。この日(15日)、頼朝は、移築された鎌倉亭に入り、翌16日、鶴岡八幡宮で長日勤行(ごんぎょう)を始める。

10月16日

・頼朝、平氏方追討軍(維盛軍)討伐の為20万の軍勢を率い進発。

この頃、甲斐源氏→駿河。木曽義仲→信濃から上野へ進出。東海道一帯に支配を広げ、同時に他源氏勢力を抑える為には頼朝自身の手で平氏追討を行わなければならず。

「武衛の御願として、鶴岡若宮に於いて長日勤行を始めらる。・・・また今日駿河の国に進発せしめ給う。平氏の大将軍小松少将惟盛朝臣、数万騎を率い、去る十三日、駿河の国手越の駅に到着するの由、その告げ有るに依ってなり。今夜相模の国府六所宮に至り給う。その処に於いて、当国早河庄を箱根権現に奉寄せらる。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十六日、・・・また、今日(頼朝は)駿河国に向けてご出発になった。平氏の大将軍小松少将惟盛朝臣が数万騎の軍勢を率い、去る十三日に駿河国手越駅に到着した、と報告があったためである。今夜、相模国府六所宮にお着きになり、そこで、相模国早河庄を箱根権現に寄進した。」。

10月16日

・追討使軍、駿河高橋宿(静岡市清水区高橋)到着。この時点で、東国の平氏与党はすでに壊滅状態にあった。

10月17日

・頼朝、相模国波多野圧を本領とする波多野義常を討つべく下河辺行平を派遣。この知らせを聞いた波多野義常は、戦わずに松田郷(神奈川県松田町)で自害。頼朝は東海道を通る際に障害となる平氏与党を排除した後、足柄峠を越えて駿河国に入った。

「波多野右馬の允義常を誅せんが為、軍士を遣わさるの処、義常この事を聞き、彼の討手下河邊庄司行平等未到の以前、松田郷に於いて自殺す。子息有常は、景義の許に在り。この殃いを遁る。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十七日、丙申。波多野右馬允義常を誅伐するために軍士を遣わされたところ、義常はこの事を聞き、討手である下河辺庄司行平らが到着する前に、松田郷(現、足柄上郡松田町付近)で自害した。義常の子息である(波多野)有常は(大庭)景義のもとにいて、この災いから逃れた。義常の姨母は中宮大夫進(源)朝長の母〔その子は典膳大夫(中原)久経〕である。そのため父の義通は妹の関係で初めは左典厩(義朝)に仕えたが不和になり、去る保元三年春の頃に突然京都を去って、波多野郷に住んでいたという。」。

○有常。

波多野義常の子。父義常の自刃の後、母方の伯父大庭景義に召し預けの身となる。後に許され、父の遺領松田郷を領有して松田氏の祖となる。しかし本領波多野庄は父の弟、義景の手に渡る。

○朝長(1144天養元~59平治元)。

義朝の次男で頼朝の兄。「尊卑分脈」によると母は修理大夫範兼もしくは大膳大夫則兼の女と記されるが、ここでは波多野義通の妹という。平治の乱に敗れて後、父義朝とともに東国をめざすが、美濃国青墓宿で自害。

○久経。

義朝に文筆を以て仕え、頼朝政権の吏僚となる。源朝長の異父兄弟で、後に近藤国平と共に「鎌倉殿御使」として上洛、また九州に赴き治安維持にあたる。

10月17日

・武田信義(長男兵衛尉有義は平宗盛に仕える)、使者2人を追討使に派遣、浮島原(沼津市)で目参したい旨、申し入れ。伊藤忠清は使者を斬殺。

この頃、兵糧不足のため数百騎が源氏軍に投降・離散。


つづく




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