2022年9月18日日曜日

〈藤原定家の時代122〉治承5/養和元(1181)年6月1日~15日 「近日。天下飢饉。餓死者その数を知らず。僧綱有官の輩その聞あり。」(「百錬抄」) 横田河原の合戦 義仲、越後平氏の城助職を破り、越後の国府に入る     

 


〈藤原定家の時代121〉治承5/養和元(1181)年4月24日~5月15日 佐藤能清狼藉事件に見える平家内の権力構造 重衡、従三位左近衛権中将に返り咲く 「鶴岡若宮営作の為、材木の事その沙汰有り。土肥の次郎實平・大庭の平太景能等奉行たり。」(「吾妻鏡」) より続く

治承5/養和元(1181)年

6月

・~7月頃、「近日。天下飢饉。餓死者その数を知らず。僧綱有官の輩その聞あり。」(「百錬抄」)。

6月10日

・平維盛、右近衛権中将兼蔵人頭となる。

6月11日

・越後平氏城助永(助長、2月病没)の弟助職(すけもと、資茂、助盛)率いる越後・出羽・会津の兵2万余、笠原頼直の要請を受けて義仲討伐に出発。城氏は越後の国衙(政庁)を通じて越後国内の武者に出陣を要請し、官軍として信濃国に攻め込む。越後白河荘(保元前に摂関家に寄進)の年貢を兵糧米で使う。

13日、横田河原の合戦(筑摩川畔・川中島の南端)。

城助職(資茂)先陣の笠原頼直、源義仲を迎え討つため筑摩川畔の更級郡の横田河原に布陣。義仲軍(義仲、信濃源氏の佐久党(根井氏・楯氏など)、甲斐源氏の連合軍)3千余、千曲河畔横田河原に陣を構え、木曾軍・佐久軍・甲斐武田軍の3手に別れ、奇襲戦法で城助職に圧勝。

翌14日、井上九郎光盛が仁科党を指揮、平家の赤旗で偽装し、城軍の背後へ迂回し奇襲。城助職、負傷し武器を捨て、手勢300余人で逃亡。笠原頼直、出羽に逃亡。


延慶本「平家物語」(巻6,26)では、城軍は三手に分かれて敵に向かう。

①信越国境の深坂(みさか)峠を越え、千曲川沿いに善光寺平へ南下する「千隈(ちくま、千曲)越(大将浜の小平太)」の集団

②直江津付近にあった越後国衙から信濃の熊坂(長野県上水内郡信濃町)を通って南下する近世北国街道ルートの「大手(大将城助職)」の本隊

③越後から三国峠を経て「殖田(南魚沼一帯)越(大将津張庄司宗親)」する集団

次に、「平家物語」読み本系諸本では、まず木曾が精強な騎馬集団を繰り出して城氏軍を挑発し、笠原頼直と木曾側の高山党が衝突、笠原方の富部(とべ、平)家俊と高山党の佐井弘資(ひろすけ)の詞(ことば)戦いと一騎打ち、富部が打たれ、さらに勝者の佐井を討った富部の郎党杵淵重光の壮絶な最期などが語られる。

また、義仲方の井上光盛が、平家の赤旗を立てて相手を油断させて、近づいたところで源氏の白旗を揚げ、越後の軍勢を慌てさせ多くのものを討ったとする。


逃げ帰る助職に対し、越後の在庁官人は日頃の憤懣により、助職を攻撃する構えを見せるため、助職らは越後~会津へ敗走。ここでも、平泉の藤原秀衡が助職らを討とうとする為、郎党50人で越後に戻り、本城(赤谷城)に立て篭もる。間もなく、助職らは勢いを取戻すが、越後北部に限られ、中・南部には及ばず、他の越後平氏も助職に反抗。

〈ここまでの木曽義仲〉

南信濃木曽谷で中原兼遠(かねとお)に保護されながら成長した木曽義仲は、美濃国に攻め込んだ方が味方も多く、勢力圏を築きやすい条件を持っていた。しかし、北品濃で勢威を誇った平氏家人笠原頼直(長野県中野市)や笠原氏を支援した越後平氏城氏との戦いで北へ北へと進撃し、結果として北陸道に勢力圏を築くことになった。

木曽谷で挙兵した木曽義仲は、麻績・会田の戦いに勝利し、信濃国府を占領して北信濃にいる村山頼直や、亡父義賢に仕えた上野・北武蔵の豪族を傘下に収めた。治承4年9月7日の市原合戦に勝利して笠原頼直を越後国に敗走させたことで、笠原氏を庇護した越後平氏の城氏と向かい合うことになった。

〈城氏について〉

城氏は、承平天慶の乱で平将門と戦った平貞盛の甥で天元3年(980)に出羽介として秋田城に入って城務を執った平兼忠の例から名字を取り、兼忠の甥で一族の祖となる出羽介平繁成から城を通称としている。越後国奥山庄を拠点として北越後に勢力を張った豪族。城資水(じょうすけなが)が、市原合戦に敗れて越後国に退いてきた平氏家人笠原頼直を庇護し、木曽義仲追討を朝廷に申請したことが、城氏を内乱に結びつける最初の動きとなる。祖父永基が、源義親追捕を申請して押領使に補任され、勢力を拡大した先例に倣った動きと見られる。しかし、資水は急死し、弟の助職が跡を継いで追討を実施した。

この合戦は、越後国の知行国主藤原光隆が朝廷に提出した報告の要旨を、右大臣九条兼実が日記『玉葉』に記したことで公式の情報が今日に伝わっている。

「兼光相語りて云く、越後の国の勇士(城の太郎助永弟助職、国人白川御館と号すと)、信濃の国を追討(故禅門・前の幕下等の命に依ってなり)せんと欲し、六月十三四両日、国中に入ると雖も、敢えて相防ぐの者無し。殆ど降を請うの輩多し。僅かに城等に引き籠もる者に於いては、攻め落とすに煩い無し。仍って各々勝ちに乗るの思いを成し、猶散在の城等を襲い攻めんと欲するの間、信乃の源氏等、三手(キソ党一手・サコ党一手、甲斐の国武田の党一手)に分ち、俄に時を作り攻め襲うの間、険阻に疲れるの旅軍等、一矢を射るに及ばず、散々敗乱しをはんぬ。大将軍助職、両三所疵を被る。甲冑を脱ぎ弓箭を棄て、僅かに三百余人(元の勢万余騎)を相率い、本国に逃げ脱がれをはんぬ。残る九千余人、或いは伐ち取られ、或いは険阻より落ち、終命す。或いは山林に交り跡を暗ます。凡そ再び戦うべきの力無しと。然る間、本国の在廰官人已下、宿意を遂げんが為助元を凌礫せんと欲するの間、藍津の城に引き籠らんと欲するの処、秀平郎従を遣わし押領せんと欲す。仍って佐渡の国に逃げ去りをはんぬ。その時相伴う所纔かに四五十人と。この事、前の治部卿光隆卿(越後の国を知行の人なり)、今日慥な説と称し院に於いて相語る所なりと。」(「玉葉」7月1日条)。

この合戦の勝利により、北陸の武者は木曽義仲を武家の棟梁として認めるようになった。義仲は、信濃・上野の二カ国に越前、能登、加賀、越中、越後の五カ国を加えた七カ国を実効支配する大勢力に急成長した。

15日、義仲、越後の国府(新潟県上越市) に入り、北陸を固める為に四天王を各地に派遣。今井兼平は新潟県糸魚川市・新潟県中魚沼郡津南町・福井県丹生郡清水町に「今井城」、樋口兼光は福井県鯖江市に「樋口城」「松山城」、根井小弥太行親は福井県今庄町に「燧が城」を築く。義仲・頼朝関係悪化により、防禦を固める。

木曾四天王と巴御前:

木曽四天王は樋口次郎兼光・今井四郎兼平兄弟、根井行親・楯六郎(6男)父子。また、中原兼遠の娘で、樋口次郎兼光・今井四郎兼平の妹の巴御前は、兄の今井四郎兼平と共に最後まで義仲に随従する。「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあい、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。」(「平家物語」)。

横田河原合戦(「平家物語」巻6):

信濃源氏井上九朗光盛の計略で、3千騎を7手に分け赤旗を上げて押し寄せる。城四郎が味方と安心したところへ、7手を1つにして源氏の白旗を上げ、越後軍が慌てたところを攻め落とす。平家は、こういった敗戦も気にせず華やかに暮らしている。


つづく


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