2022年9月17日土曜日

〈藤原定家の時代121〉治承5/養和元(1181)年4月24日~5月15日 佐藤能清狼藉事件に見える平家内の権力構造 重衡、従三位左近衛権中将に返り咲く 「鶴岡若宮営作の為、材木の事その沙汰有り。土肥の次郎實平・大庭の平太景能等奉行たり。」(「吾妻鏡」)    

 


〈藤原定家の時代120〉治承5/養和元(1181)年3月17日~4月21日 定家(20)『初学百首』 北条義時(19)、頼朝の寝所祇候衆(「江間四郎」の初出) 肥後の菊池隆直追討院宣 より続く

治承5/養和元(1181)年

4月24日

・紀伊国田仲(たなか)荘(和歌山県紀の川市)の預所(あずかりどころ、下級の荘園領主)佐藤能清(よしきよ、西行の甥)による隣荘高野山領荒川荘への介入事件

荒川荘では以前より川向かいの田仲荘からの乱暴が続いており、高野山側ではその停止を宗盛に訴え、能清に狼藉を停止するよう命が下った。ところがこの年4月24日付の荒川荘百姓らの訴えによると、同月18日、能清の弟と能清の郎従長明(ながあきた、姓不明)らが荒川荘に打ち入り、放火・殺害・作麦の刈り取りなどを行なった。長明は田仲荘内に大きな軍事施設を設け、そこに「日々夜々、自国他国を論ぜず、頭殿(こうのとの)の御家人等が群集」しているという。そのうえ能清らは、「頭殿」や「権亮殿」の仰せがあったので、25日午前中に荒川荘を焼き払い百姓・住人らを殺害するぞ、と触れ回って住人らを洞喝した。また翌日付宗盛宛の高野山の寺僧の書状でも、同じ事態が「あまつきへ頭亮殿 持明院(じみょういん)少将殿の御下知と号して、近国の御家人を駆り具し(動員して)、荒川庄より始めて御山(高野山)に至るまで焼き払はしむべきの由、申し送り候ふによりて」、寺僧らがパニックに陥った、と表現されている(『平安遺文』補397号)。こうした事態に百姓らは、領主高野山に、宗盛に働きかけて能清の狼籍をやめさせて欲しいと訴え、それをうけた高野山の僧は2,000人の寺僧集団を代表して、宗盛に狼籍の停止を懇請した(『平安遺文』3982号)。

ここに見える「頭殿(頭亮殿)」「権亮殿」は重衡と維盛、「持明院少将殿」は資盛を指す。ころは墨俣から凱旋してあまり日数がたっていないし、高野山では閏2月に亡くなった清盛の菩提を弔う五十箇日の仏事が行なわれたばかりであり、以前に納められた重盛の遺骨にたいする念仏読経も怠りなく、平家が高野山を滅ぼすなどあろうはずはない。高野山側は、能清は平家御家人らの集結を重衡・維盛らの下知によるものだと唱えているが、能清個人の策略でそう称しているにすぎず、襲撃は正規の軍令によるものではないとみた。

①能清が、荒川荘への襲撃命令は「頭殿の仰せならびに権亮殿の仰せ」だといっているが、某僧の書状では、重衡の相棒は「持明院少将殿(資盛)」になっている。富士川戦に惨敗し清盛の怒りを買って、維盛の立場が揺らぎ、資盛が維盛にとって代わる勢いにあった状況を反映しているのかもしれない。

②荒川荘襲撃を命じた「頭亮殿 持明院少将殿の御下知」について、寺僧が「彼の二所の殿中」で披露されたものではないだろう、といっている。ここから、軍令は重衡・維盛(資盛)それぞれの殿中(邸宅内、つまり侍所)において披露されるのが正規の形であったことが知られる。

③能清の私的な御家人動員は、「大和国には帯刀先生(たちはきのせんじょう)奉行し、和泉国・河内国は家人等に仰せつけ」た、とある。帯刀先生とは東宮の護衛にあたる武官の長であり、事件発生時にそう呼ばれる資格があり、かつ可能性があるのは、言仁親王(安徳天皇)の帯刀長(たちはきのおさ)であった平兼衝(かねひら)である。兼衛は伊勢平氏の傍流、信兼の長子で、大和国では御家人の動員は平兼衝の手を通して行なわれたらしい。ただし、兼衡が平時にも大和の平家御家人の内裏警固役(大番役)への動員の任にあたっていたかどうかまでは断定できない。"


5月

・平重衡、従三位に叙され、いったん辞していた左近衛権中将に返り咲く。

三位中将が二人同時にある時は、先任の者を本三位中将、新参の者を新三位中将と区別して呼ぶ。寿永2年7月、甥の資盛が従三位右近衛権中将となると、重衡は本三位中将と呼ばれる

維盛と重衡の官歴がよく似ている

重衡が中宮亮になると維盛は中宮権亮、重衡が東宮亮になると同じく東宮権亮に転じた。この月、重衡が従三位の左近衛権中将になって蔵人頭を辞すと、翌月維盛がその後任になり右近衛権中将に任じる。この年末維盛は従三位になり蔵人頭を辞し、権亮中将と呼ばれるようになる。

個人が中宮亮・東宮亮・蔵人頭という経歴を継続してたどること自体が珍しいうえに、特定の二人がペアでそのようなキャリアを経験するのは極めて稀である。二人が中宮職-東宮職と継続して就任したのは、平家(清盛)が二人を、安徳天皇の側近く仕える腹心として、世間にも認知させようとしたためと推量される。維盛をあえてそういう形で起用したのは、小松内大臣家と一門主流の間の疎隔を危倶する高倉天皇の配慮で、背後には清盛の意向も働いていたのではないか。

5月8日

・「園城寺の律静房日胤の弟子僧日恵(師公と号す)鎌倉に参着す。彼の日胤は千葉の介常胤が子息、前の武衛の御祈祷師なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月13日

・「鶴岡若宮営作の為、材木の事その沙汰有り。土肥の次郎實平・大庭の平太景能等奉行たり。当宮は去年仮に建立の号有りと雖も、楚忽の間、先ず松柱・萱軒を用いらるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月15日

・藤原定家(20)、法住寺での後白河院の供花会に参仕


つづく


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