2022年9月25日日曜日

〈藤原定家の時代129〉治承5/養和元(1181)年 〈養和元年末の諸勢力の勢力分布〉 〈深刻な問題は養和の飢饉〉 〈膠着した内乱〉

 


〈藤原定家の時代128〉治承5/養和元(1181)年10月1日~12月27日 平家の追討軍派遣進展せず 俊成・定家父子、後白河院に参ず 飢饉による食糧難・治安悪化深刻 より続く

治承5/養和元(1181)年

〈養和元年末の諸勢力の勢力分布〉

平氏は、尾張・美濃・近江・若狭を東側の境界線として維持。

三河国は甲斐源氏との緩衝地帯。

九州の菊池・緒方・臼杵らの挙兵が大規模におきたが、太宰府を束ねる原田種直以下の大蔵一族が平氏の支持勢力として、反乱を九州内部の騒乱に封じ込めている。

四国では伊予国の河野氏が反乱をおこしたが、他の地域に拡大していくほどの影響力を持っていない。"

〈深刻な問題は養和の飢饉〉

干魃は治承4年~寿永元年の3年に及び、その影響を受けた飢饉は寿永2年の収穫まで続く。

前年(治承4年)、京都では5月30日~8月2日の通り雨が4日あっただけで、6月13日には淀川の河水が乾上がり、船や筏も動けなくなった(「玉葉」)。

7月18日にも、河に水がなくなり、土民たちが河口を堰き止め田に水を入れるので、船の往反が困難になる(「山槐記」)。

7月25日には祈雨のため大和国丹生川上や山城国の貴船など13社に幣帛(はいはく)が捧げられた。そのためか、翌々日27日には雨が降ったがすぐに止んだ(「山槐記」)。

「山槐記」8月6日条には「雨下る、去んぬる六月より天、旱す、今日、初めて下る。但し、天下みな損亡し了んぬと云々」とある。

この年(治承5年/養和元年)、飢饉はいよいよ本格化。

「吉記」4月5日条は、「二条烏丸を過(こえ)んと欲するの処、餓死者八人首を並ぶと云々。よりてこれを過ず、近日死骸ほとんど道路に満つると云うべきか」とあり、「百練抄」6月条も「近日、天下飢饉、餓死者その数を知らず。僧綱有官の輩にその聞えあり」とする。


鴨長明『方丈記』によれば、寿永4年・養和元年の二年つづきの凶作は、「春夏のひでり」のみならず「秋の大風洪水」などの災害が打ち続いたためという。『方丈記』は、仁和寺の隆暁法印が餓死した人々を仏に結縁させようと額に阿弥陀仏の「阿」の字を書いていったところあまりに数が多いので、寿永元年4月~5月の2ヵ月数えたところ、4万2,300人余になったという。地方で生活の術を失った人々が最後に逃げ込むのは大都市であるが、京都もまた戦乱と干魃によって年貢輸送が減少しており、届いた年貢も公家や権門寺院は蓄えて放出しなかった。さらに、追討使が兵粮として消費していった。

平氏率いる追討使は、兵粮が尽きて困窮していた。養和の飢饉が、平氏の軍事行動を規制する大きな要因となっていた。一方、養和の飢饉を起こした温暖な気象は、東日本に豊作をもたらす条件となるため、鎌倉を動かない源頼朝や平泉を動かない藤原秀衡に有利に作用した。源頼朝は鎌倉に武家政権の基盤を創り、奥州藤原氏は強大な軍事力を背景に源頼朝に本領を奪われた佐竹氏を支援していた。

兵粮米徴発は西国統治を混乱させる要因となった。

この間題には、後に平氏追討のために西国に軍勢を進めた木曽義仲や源頼朝の代官源範頼も苦しむことになる。平氏が勢力圏として確保している西国は、誰が軍政を敷いても統治の行き詰まる治めがたい土地になっていた。

豊作の東日本を治める源頼朝と藤原秀衡、飢饉の影響を受けていない北陸を治める木曽義仲、飢饉で疲弊している西国を治める平氏、この四者の中で一番分が悪いのは、平氏であった。養和元年秋の平氏にとって、かろうじて確保している年貢の安定した供給源は、若狭湾を通じた海運で物流が維持されている山陰道であった。

「また、養和のころとか、久しくなりて覚えず、二年があひだ、世中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春・夏ひでり、或は秋、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きで、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるいとなみありて、秋刈り冬収むるぞめきはなし。

これによりて、国々の民、或は地を棄てて境を出で、或は家を忘れて山に住む。・・・・・たまたま換ふるものは金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、愁へ悲しむ声耳に満てり。

前の年、かくの如く辛うじて暮れぬ。明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさえ疫癘(えきれい)うちそひて、まさゝまに、あとかたなし。・・・・・築地(ついじ)のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も不知。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界にみち満ちて、変りゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。いはむや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。」(『方丈記』)

内乱が勃発した治承4年は、夏の激しい干魃と秋の大型台風に見舞われたことで農作物が損亡し、翌治承5年(養和元年)に大飢饉が展開した。翌養和2年(1182)になっても飢饉は続き、『方丈記』に記されているように、疫病の流行をともなってさらに被害が拡大した。

〈膠着した内乱〉

頼朝は、藤原秀衡・木曽義仲・甲斐源氏と境を接したので、これ以上の勢力拡大を行う余地がなくなっていた。頼朝は、治承4年の佐竹合戦以来、常陸国北部の支配権をめぐって佐竹氏を支援する藤原秀衡との緊張が続いているため、鎌倉を離れるわけにはいかなかった。自らが築いた勢力圏を既得権として確立するため、後白河院との密使のやりとりを続け、朝廷から公的な権限として承認を受ける必要があった。

義仲は、父義賢(よしかた)が大蔵合戦(1155)で頼朝の兄義平(よしひら)に討たれた因縁から、頼朝に対する不信感を払拭できない。義仲は、依田城(長野県上田市)を坂東に対する抑えの城とし、善光寺平(長野県長野市)の拠点から動かなかった。上野国には多胡氏・那波(なわ)氏・南山党、北武蔵には庄(しよう)氏といった与党がいるので、彼らが頼朝から圧迫を受けた時には坂東に軍勢を動かせる場所にいる必要があった。

頼朝は、平氏と親しい上野の新田義重に帰順を促し、上野国に動力を伸ばそうとした。北武蔵から上野国にかけての地域は、両勢力が混在する緊張地帯であった。頼朝との間にある緊張関係を解消しない限り、義仲は北陸道に主力の軍勢を移すことはできなかった。

平氏は、治承4年・義和元年と続いた合戦で多くの死傷者を出していたので、家人を休ませて戦力の回復をはかる必要があった。また、養和の飢饉によって疲弊する西国の経済復興に力を入れる必要もあった。飢饉は、地方の経済を疲弊させ、京都に輸送する年貢の減少という形で朝廷の財政に影響を与える。軍事に関していえば、軍勢を編成しようとすれば兵粮や飼葉(かいば)の不足という深刻な問題と直面する。

飢饉によって軍勢を動かせなかった一年は、長期戦となった内乱で多くの傷病者を出していた平氏には、負傷や病気で戦陣を離れた人々が回復するための休養期間となった。


つづく


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