治承5/養和元(1181)年
10月3日
・平維盛、源義仲追討の援軍へ出発。
「維盛昨日近江の国に下向す。これ猶北陸道を襲うべきの手と。頼盛卿、紀伊の国に下向すべしと。」(「玉葉」同4日条)。
「而るに手々に相分ち、各々行き向かわば、京中の武士僅かに四五百人か。頗る恐る所無きに非ずと。」(「玉葉」同10日条)。
10月4日
・この日、兼実のもとに平家諸将の配置や攻撃方面の情報が伝わってくる。
曰く、来る11日には知盛・清経(重盛三男)が越前に向かう、重衡は東海道・東山道に赴く、維盛は昨日近江に下向した、頼盛は紀伊に下向する、等々(「玉葉」)。
しかし、10日には、翌日予定の進発は13日に延期、知盛の北陸道下向は取り止め、知度・清房(清盛八男)を向かわせる。さらに重衡・資盛らを「野宇美(のうみ)峠(能美越、琵琶湖東岸を北上し栃ノ木峠を越える近世の北国街道)」で北陸に向かわせる。維盛・清経らが東海道・東山道を兼ね、頼盛の息2人が熊野を襲う。宗盛・教盛・頼盛・経盛は洛中を警固する。しかし、全部併せて5千~6千騎を諸方に派遣するので、京中の武士はわずか400~500人という。「すこぶる(少々)恐るる所無きに非ず」と兼実も不安を隠せない(「玉葉」)。
追討使の進発は、13日になると16日に、さらに24日とどんどん先送りされ、24日にもまた「無勢によつてまた延引」した(「玉葉」)。
10月9日
・重源、東大寺再建のために後白河法皇に奉加を仰ぐ。
10月11日
・後白河法皇主催で、柿の葉を描いた紙に般若心経を書写し俵に入れて東海西海に流す供養。平資盛の夢想によるもの(「百練抄」)。
10月11日
・「伝聞、熊野の行命法眼(南法眼と称す。熊野の輩の中、ただ一人官軍に志有る者なり)、上洛せんと欲するの間、散々伐ち落されをはんぬ。僅かに身命を存すと雖も、子息郎従一人残らず伐ち取られをはんぬ。その身山中に交わると雖も、安否猶不定と。これ志賀在廰の者の所為と。今に於いては、熊野方一切異途無く一統しをはんぬと。」(「玉葉」同日条)。
10月12日
・「常陸の国橘郷を以て、鹿島社に奉寄せしむ。これ武家護持の神たるに依って、殊に御信仰有りと。」(「吾妻鏡」同日条)。
10月14日
・後白河法皇、来月18日に宝篋印陀羅尼(ほうきよういんだらに)の経文を内に納める八万四千基塔を供養せんとして、右大臣兼実に分担分として寸法五寸(約15cm)の塔500基を造進すべしと命じる(「玉葉」)。これは2週間前に宗盛が示した提案を後白河が受け入れたもの。
八万四千基塔は、インドのアショカ王が84000人の妃を殺した罪を償うため、84000の塔を造ったという伝説に基づくもの。7世紀中国で広まり、平安末期に日本に伝わっていた。
当時の八万四千基塔新港の中心は怨霊調伏、罪障消滅にあり、その造進と供養は国内に平穏を取り戻すこと、戦乱で亡くなった人々の供養が目的であった。
宗盛の意図は、平家のみならず敵対勢力の亡魂も慰める態度で、天下に和平の意志を示し、その道を開くところにあった。頼朝の提案への返球、苦境打開の方策であった。
10月28日
・円勝寺執行法眼任祐が賊のため一条町辺り(一条・新町あたり)で殺害される(「百練抄」)。
10月29日
・平資盛(内大臣重盛2男)、右近中将に任命。寿永2年(1183)1月22日蔵人頭に補任。同年7月3日従三位叙任。都落ちにより同年8月6日解官。
11月2日
・火災で避難していた皇嘉門院聖子、ようやく新造された御所に入る。29日、病に倒れる。
11月5日
・平惟盛軍を迎撃するため遠江に軍を派遣する計画。軍勢は「足利冠者義兼・源九郎義経・土肥二郎実平・土屋三郎宗遠・和田小太郎義盛等」とされる(義経は義兼の下に位置付けられる)。この出陣は情勢変化のため延期(「吾妻鏡」)。
11月6日
・前の天台座主覚快法親王(48、鳥羽上皇と美濃局の子、七宮)、没。
11月10日
・藤原俊成、子の定家と供に後白河に仕える。この日、出家後初めて参上。
「十一月十日。天晴。今晩、入道殿初メテ院ニ参ゼシメ給フ。竜顔咫尺数刻卜云々。常ニ参ズベキ由、仰セ事アリト云々。」(「明月記」)。
11月19日
・藤原定家(20)、焼失の後、初めて五条新第に移る。
11月21日
・8月18日出発した義仲討伐の平氏軍(通盛)、戦果なく帰洛。後は、一部の軍が敦賀に越年、若狭に経正が留まるだけ(「吾妻鏡」同日条)。
11月23日
・藤原定家(20)、鳥羽殿での美福門院忌日仏事に参仕。
11月25日
・建礼門院(平徳子)院号宣下。
12月4日
・平経盛(つねもり、清盛弟、58)、参議に補任。教盛(清盛弟)、権中納言となる。平維盛、従三位・非参議となる。
平経盛;忠盛の三男
天治(てんじ)元(1124)年生、国守などを経て、安元3(1177)年正三位、養和元(1181)年12月に参議。参議は大・中納言に次ぐ重職で、四位以上の者から任ぜられ、公卿の一員である。清盛の三人の弟(経盛、教盛、頼盛)のなかでは位階官職もっとも劣り、清盛の評価もあまり高くない。母の実家の力不足も作用している。
経盛は歌人だった父の素質を受け継ぎ、守覚法親王(しゅかくほっしんのう、後白河第二皇子)の仁和寺歌会や二条天皇の内裏歌会に参じたほか、多くの歌合に参加し自亭でも催している。近衛天皇・二条天皇二代の后として著名な藤原多子に20余年仕えた。歌の家として名高い六条(藤原)重家や自選歌集『頼輔集(よりすけしゅう)』で知られる藤原頼輔らと親しく、重家は経盛が所持する『万葉集』を借覧書写している。この風雅さが関係してか、平家一門中では宮廷の守護を担当する役割を負っていたらしい。
12月4日
・崇徳院中宮嘉門院藤原聖子(60)没。
死去の2日前(12月2日)、兼実は皇嘉門院別当でもあった平信範に対し、女院没後の雑事を沙汰するよう前もって指示。皇嘉門院の葬送や没後の仏事は兼実を中心にしておこなわれた。皇嘉門院の経営は事実上、兼実や良通に引き継がれることになっていた。
12月13日
・藤原定家(20)、後白河院・八条院の新造御所(七条殿)移徒に供奉
12月27日
・醍醐寺座主(ざす)実海(じつかい)が、権寺主(ごんのじしゆ)慶延(けいえん)に、元日朝拝(ちようはい、元旦に僧侶たちから年賀を受ける儀式)を実施しなかった先例はないか、と尋ねる。「この御尋は今年は謀反兵乱によりて、諸庄々の所出(しよしつ、差し出しもの)、みなもって運上せざりすのゆゑ、無拝の例もし有らば、その例によらしめんがため」であった。結果、万やむを得ざりし事例が二例あるが、その外は無拝の例はないとのことなので、元日入寺次第を略式ながら定めたとある。
醍醐時は寺院運営に当たり見込まれる年貢収入を予め年間の支出別に配分していたが、翌年(養和2年)になると、その予算が全く執行できなくなる。
1月大仁王会(だいじんのうえ)の参会者への食事は三綱(さんごう、僧侶・寺務を管理する上座、寺主、都維那(ついな)の三種の役僧)・権官(ごんかん、三綱の権官)はみな欠け、他寺の僧を招かなかった。同15日の大湯屋の粥が欠け、2月1日一番の僧への供物が欠け、飯は供僧三綱らだけに配分し、他は配分がなかった。これは往古いまだかつてなかったこと。3月20日の大湯屋では、醍醐寺院家の無量光院の下部(しもべ)が飢饉によって湯を沸かせず、湯そのものが欠如した。
同年(年号が変わって寿永元年)10月25日、座主実海が没した。座主在任中は、天下飢饉に直面し、寺務3年の間、「房人(僧房に住む人)寺用(財政)の相折(そうせち、割り当て分)を食せず、大略絶里(ぜつり、人跡の絶えた里)のごとし」といわれ、世俗の信者の中で富家と評判のある人にくまなく使いを派遣して、強制的に借米をするという窮状だった。
つづく
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