2022年11月14日月曜日

〈藤原定家の時代179〉寿永3/元暦元(1184)年3月1日~29日 頼朝、平家没官領・謀反人跡の惣領権を掌握 頼朝、摂政に九条兼実を奏請 頼朝正四位下 頼朝と重衡が対面    

 


〈藤原定家の時代178〉寿永3/元暦元(1184)年2月22日~29日 頼朝、「朝務の事」など4ヶ条を提出 畿内・西国における惣追捕使(守護)の設置 西国武士の御家人化が進められる 宗盛の返書が届く(条件付和平) より続く

寿永3/元暦元(1184)年

3月1日

・この頃、後白河、院御所新造を計画。さすがに摂政基通もこれに反対して諌言、兼実も、この諌止は、「尤も上計也」と同意を示す(『玉葉』3月1日条)。

3月1日

・頼朝、鎮西の住人らに本領安堵を条件に平家追討の下文を送る(「吾妻鏡」)。

「下す 鎮西九国の住人等 早く鎌倉殿の御家人として、且つは本の如く安堵し、且つは各々[彼の国の官兵等]を引率し、平家の賊徒を追討すべき事・・・下す 土佐の国大名国信・国元・助光入道等の所 早く源家有志の輩同心合力し、平家を追討すべき事・・・」(「吾妻鏡」同日条)。 

3月2日

・義経、土肥実平が西海に赴くため、平重衡を自邸六条室町第に迎える(「吾妻鏡」同日条)。

3月6日

・「蒲の冠者(範頼)御気色を蒙る事免許す。日来頻りにこれを愁い申すに依ってなり。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月7日

・後白河、「平家没官領注文」を鎌倉に送り、没収した平家の所領500余ヶ所を頼朝に与える(「愚管抄」)。この平家没官領は、鎌倉殿の直轄領荘園群である「関東御領」の基盤の一つとなる。

頼朝、義仲のあとを受けて、平家没官領・謀反人跡の惣領権を掌握。これと並行し、東国における領主層の所領所職(「根本私領」「本領」)の安堵権を徐々に確立。

3月10日

・頼朝の要請により、重衡が鎌倉へ送られる(「玉葉」)。梶原景時が護送。それに先立ち重衝は、黒谷の法然坊に会って十戒を授けられる(『平家物語』巻10、「戒文の事」)

27日、重衡、伊豆国府(三島市六反田)に到着(「吾妻鏡」)。頼朝が狩のために伊豆に来ており、その日に北条(静岡県田方郡韮山町寺家)に護送。

3月13日

「尾張の国住人原大夫高春召しに依って参上す。これ故上総の介廣常が外甥なり。また薩摩の守平忠度の外舅たり。平氏の恩顧を為すと雖も、廣常が好に就いて、平相国に背き、去る治承四年関東に馳参する以来、偏に忠を存ずるの処、去年廣常誅戮の後、恐怖を成し辺土に半面す。而るに今廣常罪無くして死を賜う。潛かに御後悔有るの間、彼の親戚等多く以て免許す。就中高春その功有るに依って、本知行所領元の如くこれを領掌せしめ、奉公を抽ずべきの旨仰せ含めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月18日

・頼朝、伊豆へ鹿狩り。

「下河邊庄司行平・同四郎政義・新田の四郎忠常・愛甲の三郎季隆・戸崎右馬の允国延等」が射手。

20日、北条着。

「今日、大内の冠者惟義伊賀の国守護たるべきの由」命じる(「吾妻鏡」)。
3月23日

・頼朝、摂政に九条兼実(36)を奏請(「玉葉」)。

大江広元の鎌倉での活動の初見

この日、右大臣九条兼実は、家司の藤原光長より、中原広季(広元の父)が、「頼朝が後白河に宛てた奏状の内容に、兼実を摂政・藤原氏長者に推挙する旨が含まれていることを広元が伝えてきた」という知らせてきたことを伝えられた。兼実は求めに応じて、広元の手で執筆され後白河の近臣高階泰経に付された奏状の正文に眼を通した。

「光長告げ送りて云わく、「広季只今入り来りて云わく、『頼朝、条々の事を院に奏す。その中に下官(兼実)摂政藤氏長者(とうしちようじや)たるべきの由、挙げしめおわんぬるの由、広元の許広季の男なりより告げ送る所なり』と云々。「即ち『その正文御覧を経(ふ)べき』の由、広季申さしむと云々。(中略)件の状一見を加え返し遣わしおわんぬ。件の脚力(きやくりき)去る十九日到来す。頼朝、院に奏するの状、即ち広元執筆し、泰経(やすつね)卿に付すと云々。」(「玉葉」同日条)

兼実にとって、広元はかつての自らの行政スタッフの一人にすぎない人物であった。だが、頼朝の幕府草創後の広元は、頼朝との連携の橋渡しを務める重要な人物となっており、その後の兼実の政治活動に極めて大きな影響を与えることとなる。
3月25日

・藤原資親以下備中国在庁官人は鎌倉幕府の進出を認め、惣追捕使土肥実平を迎え入れた。これによって、頼朝の勢力圏は備中国まで及んだことになる。

「土肥の次郎實平御使として、備中の国に於いて釐務を行う。仍って在廰散位藤原資親已下数輩、本職に還補す。これ平家の為度を失う者なり。」(「吾妻鏡」同日条)。"

3月27日

・頼朝、義仲追討の賞により正四位下に叙せられる

3月27日

・重衡、伊豆国府に到着。梶原景時は北条にいる頼朝に連絡、28日に面謁の意向。

3月28日

・中原清業(平頼盛の郎等)、帰京。右大臣九条兼実に関する頼朝の意向を法皇に奏上(摂政基通の罷免、兼実を任命)。頼盛は、鎌倉の代弁者としての重要な役割を課せられる。
3月28日

・頼朝と重衡、伊豆の北条館において対面。少しもはばからない堂々たる態度で人びとを感嘆させる。重衡は、この日狩野介藤原宗茂に預けられる。

重衡「今、運命の縮まるにより、凶人として参入の上は、左右する能はず。弓馬に携はるの者、敵の為に虜せらるるは、あながち耻辱に非ず。早く斬罪に処せらる可し」と言う(「吾妻鏡」同日条)。

3月29日

「或る人云く、入道関白並びに摂政の許より、各々使者を頼朝の許に送る。或いは貨物を送り、或いは陳状有りと。下官ただ仏神に奉仕するのみ。」(「玉葉」同日条)。


つづく

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