2022年11月13日日曜日

〈藤原定家の時代178〉寿永3/元暦元(1184)年2月22日~29日 頼朝、「朝務の事」など4ヶ条を提出 畿内・西国における惣追捕使(守護)の設置 西国武士の御家人化が進められる 宗盛の返書が届く(条件付和平)            

 


〈藤原定家の時代177〉寿永3/元暦元(1184)年2月18日~20日 頼朝、諸国検断権を得る 義経を京都に置き、梶原景時・土肥実平・大内惟義・豊嶋有経・橘公業・大井実春を畿内近国・西国に置く 維盛の屋島出奔 より続く

寿永3/元暦元(1184)年

2月22日

・諸国司に、公田・荘園の兵粮米の徴課を停止させる旨の院宣下る(「玉葉」同日条)。

国衙領・荘園を問わない一国平均役としての兵粮米徴収は、治承年間に平氏がはじめたものであり、義仲もそれをそのまま継承した。しかし、兵粮米徴収は人民の負担であるから、義仲が滅亡し、平氏が敗れたいま、兵粮米の徴収は必要ないものとして、その停止を諸国の国司に命じた。

2月25日

・頼朝、「朝務の事」など4ヶ条を院近臣高階泰経(たかしなやすつね)を通じて奏聞。朝務への干渉。
兼実は、「人もって可となさず」とあり、頼朝にもし「賢哲之性(けんてつのさが)」(=「ずる賢さ」)があったならば、「天下の滅亡いや増すか」と危惧を記す(『玉葉』2月27日条)
①「朝務の事」;諸国の受領に徳政を施すことを求め、同時に戦乱のために人民が土地を離れてしまった東国・北国の諸国に対し、今春よりもとの土地へ人民を帰任させ、秋頃より国務を再開することを申請。

②「平家追討の事」;畿内近国の源氏や平氏を称し、弓箭に携わる輩や住民に対し、義経の下知のもとに平氏追討に赴くことを命じることを申請。また、今後の平氏との対戦は海戦となり、たやすくはないが、それを義経に命じてあること。また、義経の勲功賞については、後日頼朝の計らいで申請することも記されている。

③「諸社の事」;諸社に対し、倒壊した社殿の修理を促し、神事を懈怠(けたい)なく務めさせることを申請。

④「仏寺の間の事」;寺院の武力を禁止し、僧等の武具は、頼朝の沙汰として、追討の軍勢に与えることを申請。

大江広元の献言に拠るところ大。鎌倉殿勧農使に比企藤内朝宗が任命。種子・食料配付、耕作割当て、年貢引下げで、農業環境・条件整理。諸寺の僧の武装禁止を要求。
 
①の真意は、頼朝の支配下にある「東国北国両道の国々」では、頼朝が、謀反人追討によって離村した民衆を今春から旧里に帰住させ勧農を実施するので、受領の任命は来秋まで待っていただく、という点にある。戦乱で荒廃した地域の農業生産復興を口実に、自分の支配地域では、朝廷の権限である国守の任命を期限付きで拒否するというもの。

北陸道は、この年1月に義仲が滅亡すると、頼朝に接収され、4月頃から勧農実施のため、比企藤内朝宗(ともむね)が「鎌倉殿勧農使」として越前に入り、義仲与党所領の所在把握を行っている。
〈畿内・西国における惣追捕使の設置〉

②「平家追討の事」では、戦線が西国に移ったこの段階で、畿内近国において、義経の指揮のもとに民衆までも含む総力的な軍事動員体制の構築が申請されている。このような軍事動員を一国単位に担う存在は惣追捕使(守護)である。

惣追捕使は、1月20日の鎌倉軍の入京直後に多田行綱が摂津国の惣追捕使に補任されていた。生田の森・一の谷合戦後には、土肥実平が備前・備中・備後の3ヵ国、梶原景時が播磨・美作両国、大内惟義が伊賀国、山内経俊が伊勢国、豊島有経が紀伊国、横山時広が但馬国の惣追捕使に任じられ、現地に派遣された。彼らは各国の国衙機構を掌握して、国内武士の編成や一般民衆に対する兵士役の賦課を行い、さらに国内の荘園・国衙領から兵粮米の徴収も行った。

特に梶原景時や土肥実平が派遣された山陽道諸国は、鎌倉軍と平氏軍が日常的に接触する最前線地帯であり、播磨国内では惣追捕使の梶原景時が独自に御家人編成を進めていた。

すでに東国では、治承4年(1180)10月の富士川合戦後に、千葉常胤が下総国、上総広常が上総国、三浦義澄が相模国の守護(惣追捕使)に補任されており、生田の森・一の谷合戦後には、このように畿内・西国の諸国にも惣追捕使が設置され、総力的な軍事動員が展開するなかで西国武士の御家人化が進められていった。

「朝務の事、武衛御所存の條々を注し、泰経朝臣の許に遣わさると。・・・一、朝務の事 ・・・殊に徳政を施さるべく候。・・・一、平家追討の事 右、畿内近国、源氏平氏と号し弓箭に携わるの輩並びに住人等、早く義経が下知に任せ、引率すべきの由、仰せ下さるべく候。海路輙すからずと雖も、殊に急ぎ追討すべきの由、義経に仰せ付けらるべきなり。勲功の賞に於いては、その後頼朝遂って計り申し上ぐべく候。一、諸社の事・・・一、仏寺の間の事」(「吾妻鏡」同日条)。
2月29日

・義経による平氏追討が延期となる。
「何故か知らず」と兼実はいうが、長く続いた戦乱により畿内近国の疲弊により追討軍派遣が不可能と判断されたと推測できる。
2月29日

・平家、和平を希望する返書(平重衡郎従左衛門尉重国が返答を持参)。

3月1日、頼朝(38)の不承知により平家との和睦決裂(「玉葉」3月1日条)。

宗盛の返事は、「三ケ宝物(神器)ならびに主上(安徳)・女院(徳子)・八条殿(時子)においては、仰せのごとく入洛せしむべし、宗盛においては参入能はず。讃岐の国を賜はつて安堵すべし。お供は清宗(宗盛嫡子)を上洛せしむべし」という低姿勢の内容で、兼実はひょっとしたらこれで追討の日延べはあるか、と感想を述べている(『玉葉』2月29日条)。

また、宗盛は安徳天皇を「主上」と表現して、現任の天皇を安徳天皇とするので、後鳥羽天星の即位を認めていない。この返書は、後白河院が受け入れられる内容ではなかった(『玉葉』)。

さらに重衝が屋島に遣わした従者からの報告で、「宗盛の返事はおおよそ和親をこいねがうのが趣旨で、とどのつまり源平相並んで召仕われたいといったところか」とわかったが、院側はそれでは頼朝が承諾しないだろうからやっかいだ、と判断している(『玉葉』3月1日条)。

条件付和平
①神器・安徳・建礼門院の帰洛は承諾。供には清宗をつける。
②宗盛は上洛せず、讃岐を賜りたい。
③今後は源平並んで召し仕うべき。
一ノ谷合戦前夜の法皇達への不信を非難し、今回も策謀ではと疑いをぶつける。
時子(重衡の母、二位の尼)が宗盛に応ずるよう懇願。一同の前で泣きくずれながら、重衡を捨てるなら、まず自分を殺してからにしてくれ、と訴える。このとき知盛は、「法皇こそ、天皇のおわします八島へ御幸あるべし。さなくば平家は神器を奉じて、鬼界が島・高麗・天竺・震旦、どこまでも天皇の御供をつかまつるべきである」と、母の願いをしりぞける。(『平家物語』)


つづく


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