2022年12月2日金曜日

〈藤原定家の時代197〉元暦2/文治元(1185)年3月2日~23日 「壇ノ浦」前夜、義経は熊野別当湛増・在庁官人船所五郎正利の支援を味方にして、三浦義澄の水軍と合流し、長門国壇ノ浦の奥津まで進む   

 


〈藤原定家の時代196〉元暦2/文治元(1185)年2月19日 屋島の戦場を離脱した小松家の丹後侍従忠房(ただふさ)のその後 より続く

元暦2/文治元(1185)年

3月2日

「今日、内蔵寮領山城の国精進の御薗の事、給人景清の妨げを止め、刑部の丞信親領掌せしむべきの旨、武衛直に下知せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月4日

・頼朝、朝廷に対し、「武士の上洛候事は、朝敵を追討せしめんがために侯なり。朝敵候はずんば、武士また上洛せしむべからず。武士また上洛せしめずんば、狼籍を致すべからず侯か」(「吾妻鏡」同日条)と述べる。義経留守中の武士の略奪に備えるため。

「畿内近国の狼唳を鎮めんが為、典膳大夫久経・近藤七国平を以て、御使として差し遣わされすでにをはんぬ。而るに猶在洛の武士狼藉を現すの由聞き及ばしめ給うに依って、叡疑の恐れを散ぜんが為、その子細を言上せらると。武士の上洛候事は、朝敵を追討せしめんが為に候なり。朝敵候せざれば、武士また上洛せしめざれば、狼藉を致すべからず候か。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

3月7日

・頼朝、東大寺修造料として、米1万石・砂金1千両・上絹1千疋等を寄進(「吾妻鏡」同日条)。

3月8日

・義経、南都興福寺の聖弘得業に平氏討伐の合戦の無為を祈るよう頼む(「吾妻鏡」)。

3月8日

・義経の飛脚が鎌倉に到着、屋島の戦況が鎌倉に伝わる(「吾妻鏡」同日条)。

3月9日

・範頼の書状、鎌倉に到着。豊後に渡ったが兵糧が得られないこと、熊野水軍の総帥熊野別当湛増が義経のもとに加わり、讃岐に渡り、さらに九州に入る噂があるが、義経が四国を沙汰し、範頼が九州を沙汰すると記す。「面目」を気にする範頼。

仔細に報告を入れ、指示を求めてくる範頼。一方、義経は、、、

「参河の守西海より状を献られて云く、平家の在所近々たるに就いて、相構えて豊後の国に着くの処、民庶悉く逃亡するの間、兵粮その術無きに依って、和田の太郎兄弟・大多和の次郎・工藤一臈以下侍数輩、推して帰参せんと欲するの間、枉げてこれを抑留し、相伴い渡海しをはんぬ。猶御旨を加えらるべきか。次いで熊野の別当湛増、廷尉の引級に依って追討使を承り、去る比讃岐の国に渡る。今また九国に入るべきの由その聞こえ有り。四国の事は義経これを奉る。九州の事は範頼奉るの処、更にまた然る如きの輩に抽んぜらる。啻に身の面目を失うのみならず、すでに他の勇士無きに似たり。人の思う所尤も恥と為すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月11日

・頼朝、9日着の範頼の書状に返書を遣わす。

湛増の義経軍への参加を頼朝は否定しているが、この頃に湛増は義経軍に加わったらしい。はじめ平氏に属していた湛増が源氏に寝返るに際しては、『平家物語』によれば、湛増の拠点である紀伊・田辺の新熊野神社(別名闘鶏神社)で、平氏の赤旗を象徴する赤鶏と、源氏の白旗を象徴する自鶏を闘わせ、白鶏がすべて勝ったので、源氏への味方を決めたという。しかし、これは虚構のようで、義経と湛増の親交は、一ノ谷合戦前後からあったらしい。なお、湛増は、頼朝の叔母婿という。

北条義時(23)、頼朝から大功ある御家人11人とともに感懃の書状を受ける。

「参州の御返報を遣わさる。湛増渡海の事、その実無きの由これを載せらる。また関東より差し遣わさる所の御家人等、皆悉く憐愍せらるべし。就中、千葉の介常胤老骨を顧みず、旅泊に堪忍するの條殊に神妙なり。傍輩に抜んで賞翫せらるべきものか。凡そ常胤が大功に於いては、生涯更に報謝を尽くすべからざるの由と。また北條の小四郎殿並びに小山の小四郎朝政・同五郎宗政・齋院次官親能・葛西の三郎清重・加藤次景廉・工藤一臈祐経・宇佐美の三郎祐茂・天野の籐内遠景・新田の四郎忠常・比企の籐内朝宗・同籐四郎能員、以上十二人の中に、慇懃の御書を遣わさる。各々西海に在って殊に大功を抽んずるが故なり。同心して豊後の国に渡らしむ。神妙の趣御感在る所なり。伊豆・駿河等の国の御家人、同じくこの旨を承り存ずべきの由と。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月12日

・頼朝、兵船32艘に兵粮を積み、伊豆鯉名・妻郎津から、藤原俊兼(筑後権守)を奉行として西海に派遣。

「平氏を征罰せんが為、兵船三十二艘、日来伊豆の国鯉名の奥並びに妻良の津に浮かべ、兵粮米を納めらる。仍って早く纜を解くべきの由仰せ下さる。俊兼これを奉行す。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月13日

「対馬の守親光は武衛の御外戚なり。在住の間、平氏の為襲わるるの由その聞こえ有るに依って、迎え取るべきの旨、今日参河の守の許に仰せ遣わさる。・・・下す 西海・山陽道諸国の御家人 早く事の煩い無く、対馬の前司の上道を勘過せしむべき事 ・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

3月16日

・屋島西方の塩飽島にあった平氏軍が、義経軍の追撃を受けて100艘ばかりで安芸国厳島に退却したという。

「平家讃岐国シハク庄に在り。しかして九郎襲ひ攻むるの間、合戦に及ばず引退き、安芸厳島に着き了んぬと云々。その時僅に百艘許りと云々」(『玉葉』同日条)。

また、翌日には、備前児島や伊予の五の島に出没し、九州の軍勢300余艘が加わったという(3月16・17日条)。どちらも伝聞であるが、平氏は瀬戸内海を転々としていたらしい。

3月14日

・義経、壇ノ浦に向かうが、雨のため延引。

3月14日

・頼朝、鬼窪行親を使者として派遣し、追討に遠慮(神器の無事な返還の注意)を廻らすよう、範頼に命ず(「吾妻鏡」)。

3月20日

・義経、周防大島津(おおしまのつ、周南市もしくは大島郡周防大島町)に兵船集合。周防守備は三浦義澄。

3月21日

・義経、壇ノ浦に向うが、雨が激しく延期。周防の在庁官人(船奉行)船所五郎正利、義経に船60を献じ、源氏に荷担。義経は正利を鎌倉殿の御家人とする。

「廷尉平氏を攻めんが為、壇浦に発向せんと欲するの処、雨に依って延引す。爰に周防の国在廰船所の五郎正利、当国の舟船奉行たるに依って、数十艘を献ずるの間、義経朝臣書を正利に與う。鎌倉殿の御家人たるべきの由と。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月22日

周防守備の三浦義澄、長府櫛崎城近くの漁師・海賊の一団の串崎船(船足早い)12艘を連れて壇ノ浦海域の調査報告に来る。義経(27)、三浦義澄を先頭に壇ノ浦へ向かうため大島津を出発、関門海峡東端の長門国壇ノ浦の奥津(おいつ、満珠島あたりか?)まで進む。伊予水軍河野通信と平氏を裏切った熊野水軍別当湛増らが味方する。

一方、平氏もこれを聞き、彦島を出航し、赤間関(早鞆瀬戸)を過ぎ、対岸の田ノ浦(北九州市門司区)に向かう。

源氏軍船:梶原景時の水軍140余艘、伊予の50余艘、熊野水軍200余艘、周防船所正利60余艘、三浦義澄12艘、河野通信30艘、計540余艘

「廷尉数十艘の兵船を促し、壇浦を差し纜を解くと。昨日より乗船を聚め計を廻らすと。三浦の介義澄この事を聞き、当国大島の津に参会す。廷尉曰く、汝すでに門司関を見る者なり。今は案内者と謂うべし。然れば先登すべしてえり。義澄命を受け、壇浦奥津の辺(平家の陣を去ること三十余町なり)に進み到る。時に平家これを聞き、船に棹さし彦島を出る。赤間関を過ぎ田の浦に在りと。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月23日

・義経、瀬戸内や熊野の水軍を率いて壇ノ浦奥津に到着。三浦義澄の献策を受けた義経は、平氏本陣の彦島まで1里(4㎞)の満珠・千珠の小島に自軍を集結。夜、先陣を廻って義経と景時の決定的対立。

3月23日

・彦島の平知盛(無傷)と屋島から逃れた安徳天皇を奉じた平宗盛ら一族、赤間ヶ関沖で合流。強力な水軍(山鹿党・菊池党・松浦党)を擁し、下関一帯の制海権は未だ平氏が掌握。


つづく



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