元暦2/文治元(1185)年
2月19日
〈屋島の戦場を離脱した小松家の丹後侍従忠房(ただふさ)のその後〉
平忠房(「丹後侍従」、重盛の子、母は兄清経・有盛・師盛と同じ従三位典侍藤原経子(藤原家成4女、高倉天皇の乳母))、この日19日、屋島より紀伊水道を渡り紀伊湯浅湾に上陸、豪族湯浅権守宗重に庇護を求め、迎え容れられる。
忠房が湯浅家に身を寄せているのを知り、藤原忠光・藤原景清(悪七兵衛)ら平家家人が結集、これに宗重郎党も加わり500余が湯浅家の岩村城に拠る。
宗重と対立する熊野別当湛増は、頼朝命令を受けて3ヶ月に8度岩村城を攻撃、失敗。のち、湛増は岩村城を兵糧攻め、城内に脱落者が出始める。
一方、頼朝は文覚上人を通して宗重に帰服を求める。宗重は文覚の勧めに従うこととし、丹後侍従忠房にも自首を勧める。
忠房はこれに従い、義経(或いは時政)に自首。12月8日、忠房、関東に下向。16日斬首(「吉記」)。
忠房は頼朝に騙されて自首し処刑され、宗重は頼朝の信頼を得て、湯浅家興隆の基礎を固める。
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湯浅家の氏姓は藤原朝臣である。藤原師重が紀伊守として赴任し、土着して武士化し、師重の子の宗良(むねなが、宗永)の時代には、有力在地武士の一人になっていた。
湯浅家は、宗良ないし宗重の代に平家の家人となっていた。湯浅の地は、熊野路の要衝である上に良好な泊を前に控えていた。
平治の乱(1159)に際しては、宗重は30騎を率いて清盛に加勢し勲功をたてた。
宗重は、平家の有力な家人の一人であったが、一方で文覚上人とも親しく、治承・寿永の内乱期には、文覚を介して頼朝にも誼(よしみ)を通じ、中立的立場をとって自家の保全を図っていた。
元暦元年(1184)正月、義経が入洛すると、義経をとりまく関東の御家人には、平家の有力な家人である湯浅入道・宗重を追討すべきであると主張する者が少くなかった。しかし、元暦元年2月、頼朝が義経に宛てた書状では、頼朝は、湯浅入道宗重を追討することを抑え、更に追伸の形で、
「近々もゆあさの入道をば、人いかに申すとも、うたせ給ふべからず、いとをしくしたまふべく候也。」
と戒めている。
一方、紀伊国内では、熊野別当湛増と湯浅宗重との対立があった。
平忠房が宗重を頼りにして湯浅に到来すると、宗重は更めて平家の重恩を想い、暖かく忠房を迎え容れた。『平家物語』諸本によれば、上総五郎兵衛こと藤原忠光、悪七兵衛藤原景清のような平家の落人たちや、近隣諸国に潜んでいた平家の家人たちが続々と忠房の周りに結集し、これに宗重の家子郎党も加わり、忽ち500余の軍勢が揃い、湯浅家の岩村城に拠った。
熊野別当湛増は、頼朝命を承け軍勢を岩村城に向けて3ヵ月間に八度の合戦に及ぶものの、その都度大きな損害を蒙って敗退した。
次に湛増らは、頼朝の新たな指示に従って城を厳重に取囲み、兵粮攻めを始めた。もともと準備なしに集まった軍勢であったため、兵粮攻めが続くと城中からは脱落者が続出した。
一方、頼朝は、文覚上人を通じて宗重に帰服を勧めた。宗重は、1~2年は堪えることが出来ても、結局は降ることになると考え、文覚の勧めに従うこととし、忠房にも降伏を勧めた。もともと忠房は、宗重を頼って来たので、彼は止むを得ず宗重の勧めに従い、都に出て鎌倉の代官の義経の許に自首した。
『吉記』では、忠房は同年12月8日、鎌倉下向のため都を出発している。義経の許に自首したのではなく、新たな代官北条時政の許に自首し、時政の手で関東送りとなったと推測できる。
『平家物語』諸本によると、頼朝は鎌倉に到着した忠房に対面し、重盛の恩を述べた後、「都にお上り下さい。都の近辺でお住まいになれるよう取計らいます」と言って安心させ、ついで追いかけるよう武士を遺し、近江国の勢田で忠房を斬った。長門本によると、人びとは「どうして騙し討ちにしたのだろうかと不審におもったという。
『吉記』によると、忠房は12月8日、関東に下向し、12月16日に首を刎ねられているので、近江ではなく鎌倉で斬られた推測できる。
『吉記』の筆者・経房と平忠房は縁が深かったので、忠房に関する記載は信憑性が高いと思われる。
忠房としては、頼みとした宗重が文覚上人の説得によって腰砕けとなった以上、これ以外とる道はなかった。宗重は、平家への義理を果たす一方、危急の際に巧みに身をかわして頼朝の信頼を獲得し、湯浅家の興隆の基礎を固めることが出来た。
つづく
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