2023年1月16日月曜日

〈藤原定家の時代242〉文治2(1186)年5月13日~6月16日 静、頼朝娘の大姫のために舞う 「或る人云く、九郎鞍馬に在ると。」(「玉葉」) 頼盛(55)病没 源有綱(義経聟)、北条時定に敗れ自殺          


〈藤原定家の時代241〉文治2(1186)年4月22日~5月12日 「北條殿関東に帰らるるの後、洛中の狼藉勝計うべからず。去る月二十九日夜、上下七箇所群盗乱入すと。」(「吾妻鏡」) 源行家、捕われ斬首  より続く

文治2(1186)年

5月13日

・4月20日に頼朝が指示した行家・義経の探索についての返答の院宣が鎌倉に到着。洛中の捜索は行うが、武士による比叡山捜索は慎重にすべきことが記されていた。同時に、時政が京都を去って以後、洛中の狼籍が増加し、4月29日夜には7ヵ所で強盗があったことが報告された。

5月14日

・梶原景茂(かげしげ、景時の息子)・工藤祐経ら頼朝側近が酒を持参しが静の宿所に押しかける。諸人酒宴。静、梶原景茂の酔狂を拒む。静は、義経は「鎌倉殿御連枝」で「吾は彼妾」であり、身分が違うと断る。

「左衛門の尉祐経・梶原の三郎景茂・千葉の平次常秀・八田の太郎朝重・籐判官代邦通等、面々下若等を相具し静の旅宿に向かう。酒を玩び宴を催し、郢曲の妙を尽くす。静母磯の禅師また芸を施すと。景茂数盃を傾け聊か一酔す。この間艶言を静に通す。静頗る落涙して云く、豫州は鎌倉殿の御連枝、吾は彼の妾なり。御家人の身として、爭か普通の男女と存ずるや。豫州牢籠せざれば、和主に対面すること猶有るべからざる事なり。況や今の儀に於いてをやと。(「吾妻鏡」同日条)。

5月18日

「前の摂政御家領の事、去る月の比、委細の勅答を下さる ・・・忽ち家領を分取らるるの條、前の摂政の為、尤も以て不便なり。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

5月20日

・興福寺僧大進君(行家兄弟)を召進。

「件の者公家より召さるるの儀に非ず。平六兼仗時貞私の使者を以てこれを召すと。仍って余使者を以て能保朝臣の許に仰せ遣わし曰く、御寺の事、偏に長者の最なり。もし犯人有らば、長者に触れ氏院より御寺に下知し、召し進すべきなり。武士直に郎従を以て譴責するの條、太だ狼藉と謂うべし。此の如き事尤も禁遏せらるべきなり。」(「玉葉」同日条)。

5月27日

・静、鎌倉の勝長寿院で、「邪気ノ御対治」のために参籠する頼朝娘の大姫のために舞う。

「大姫君南御堂に参籠せしめ給う。今日より二七箇日たるべしと。これ常に御邪気の御気色有り。御対治の為なり。」(「吾妻鏡」同17日条)。

「夜に入り、静女大姫君の仰せに依って南御堂に参り、芸を施し禄を給う。これ日来当寺に御参籠有り。明日二七日に満ち、退出し給うべきに依って、この儀に及ぶと。」(「吾妻鏡」同27日条)。

5月27日

・藤原定家(25)、最勝講に参仕、堂童子を勤める(「玉葉」)

6月1日

「今年国力凋弊し、人民殆ど東作の業に泥む。二品憐愍せしめ給うの余り、三浦の介・中村庄司等に仰せ、相模国中の宗たる百姓等にショウ牙(人別一斗と)を給う。」(「吾妻鏡」同日条)。

6月1日

・義経が鞍馬に潜伏しているとの風聞。4日、住僧円豪より連絡。追捕の武士が派遣されるが、逃亡した後。

「或る人云く、九郎鞍馬に在ると。」(「玉葉」同日条)。

「申の刻、蔵人弁親経人を以て伝え申して云く、九郎義行(義経)鞍馬に在るの由、能保朝臣申す所なり。彼の山の寺僧圓豪、西塔院主法印實詮の許(一昨日の事と)に告げ送る。實詮能保に告ぐ。能保院に申す。而るに左右無く武士を遣わさば、一寺の摩滅なり。彼の寺の別当(入道関白息の禅師)に仰せ搦め進せしむべきか。」(「玉葉」同2日条)。

「能保朝臣申して云く、鞍馬寺別当告げに依って、官兵入るべきの由、本寺に於いて義行跡を留むべからず。この上の事、今に於いては宣旨を諸国に下さるべし。兼ねてまた土左君と云う僧(彼の寺の住侶)義行の知音なり。本寺に付き彼の僧を召し出さるべしと。」(「玉葉」同4日条)。

6月2日

・平頼盛(55)、病没。

6月3日

・兼実、大外記清原頼業を召して外記局雑事の復興を命じる。

6月6日

・義経は鞍馬にいるという情報が京都に入り(『玉葉』6月1日条)、鞍馬に軍兵を入れるか、別当に義経を捜索させるか、義経の知音である土佐君という僧を召し出させるか、すでに義経は逃亡しているであろうから、諸国に宣旨を下すか等々の様々な意見が後白河・兼実・能保の間で交わされた結果、この日、すでに行家は誅せられているので、改めて義経を捕らえるべき宣旨が諸国に下された(『玉葉』6月2日・4日~6日各条)。

また、同日、一条河崎観音堂辺で義経の母(常盤)と妹が捕らえられ、義経が石蔵(いわくら、岩倉)にいると白状したので武士を遣わしたが、すでに逃げ去った後であった(『玉葉』6月6日条・『吾妻鏡』6月13日条)

「未の刻定経来たり。義行を討つべきの宣旨の事、院に申すの処、早く宣下すべきの由仰せ有りと。その宣旨の状これを見せしむ。・・・人伝えて云く、義行を搦めんが為武士東西に馳走すと。能保に尋ね遣わすの処、申して云く、大内惟能の在所を聞き得るの由申すと。然れども未だ実説を知らず。伝聞、先ず母並びに妹等を搦め取り、在所を問うの処、石蔵に在るの由を称す。武士を遣わすの処、義行逐電しをはんぬ。房主僧を捕り得をはんぬと。その後の事未だ聞かず。入道関白申されて云く、昨日仰せを蒙る鞍馬寺住僧の事すでに召し取りをはんぬ。何処に遣わすべきやと。能保の許に遣わすべきの由仰せをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。

6月7日

・義経が伊勢を徘徊し、神宮に詣で、南都にいるとの風聞が鎌倉に伝わる。伊勢祭主大中臣能隆が内通し、義経のために祈祷(「吾妻鏡」同日条)。

6月9日

「去る四月の比、政道の事殊に興行を致すべきの趣、議卿に付き奏聞せしめ給いをはんぬ。勅答の條々、職事の目録を執り、師中納言これを進せらる。今日到来する所なり。 一、諸社諸寺修造の事・・・一、記録所の事・・・重ねて急ぎ沙汰有るべきの由申されをはんぬ。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

6月11日

「親光朝臣書状を以て申し送りて云く、去る月二十八日対馬の守に還任しをはんぬ。これ則ち御挙状に依って、遂に朝恩に加う所なりと。また熊野別当上総の国畔蒜庄を知行するなり。而るに地頭職は、二品彼の人に避け付けしめ給いをはんぬ。その地下に於いては、上総の介・和田の太郎義盛引き募るの処、各々本所使の下知に背き、年貢等を弁ぜざるの間、訴え申すの上、すでに京都に言上せしめんと欲するの旨、二品の御聴に達す。殊に聞こし食し驚き、今日主計の允行政の奉行として、一事以上、使の下知に随い沙汰せらるべきの趣、件の両人に触れ仰せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

6月12日

・京都の北条時定、義経が大和宇陀郡辺りにありとの告げを得る(「玉葉」同日条)。

6月16日

・北条時定、大和宇陀郡に向う。源有綱(義経の婿、源頼政の孫の仲綱の子)と戦う。破れた有綱は深山に入り自殺。

「左馬の頭能保の飛脚参着す。去る十六日、平六兼仗時定、大和の国宇多郡に於いて、伊豆右衛門の尉源有綱(義経聟)と合戦す。然れども有綱敗北し、深山に入り自殺す。郎従三人傷死しをはんぬ。残党五人を搦め取り、右金吾の首を相具し、同二十日京師に伝うと。これ伊豆の守仲綱が男なり。」(「吾妻鏡」同28日条)。

6月16日

「二品並びに御台所比企の尼の家に渡御す。この所樹陰納涼の地たり。その上花園有興の由申せしむるに依ってなり。御遊宴終日と。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく


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