2023年3月25日土曜日

〈藤原定家の時代310〉建久7(1196)年7月7日~12月 中宮任子(兼実の娘)、宮中から退下させられる 〈建久7年の政変〉兼実、関白・氏長者を罷免 弟慈円も天台座を追われ一族が排斥 前摂政近藤基通が関白・氏長者となり、源通親が朝廷の実権を握る  頼朝はこれを黙認 西園寺公経蔵人頭             

 


〈藤原定家の時代309〉建久7(1196)年5月5日~6月26日 若狭の御家人確定 定家、兼実より「予州ノ小所一所ヲ給ハル」 「去ル夜ヨリ天変頻リニ示ス。天下ニ大事アルベキノ由、司天頻リニ奏ス。御祈リ隙ナシト云々。衆口嗷々。閭巻浮説、狂乱奇怪ナリ。」 兼実・良経・定家揃って体調不良 平知盛の子知忠、一条能保襲撃を企てて殺害される より続く

建久7(1196)年

7月7日

・仏師定慶、興福寺の維摩居士像を造立、これを供養する。

7月21日

・藤原定家(35)、良経第にて三首和歌会。題は「昨日の明月」「今日の微雨」「明日の逢う恋」

七月二十一日。申ノ刻許リニ大臣殿ニ参ズ。又三首歌アリ。亥ノ刻許リニ退出ス。昨日ノ明月。今日ノ微雨。明日逢フ恋。

現存する『明月記』の記事は、平家滅亡時の中断のあと、建久年間に入ると連続するようになるが、建久7年(1196)7月21日条でまた中断する。4ヵ月後に起こる事件(「建久(七年)の政変」)前後の記事を欠くのは、定家が書かなかったのではなく、のちに、関心を持つ人によって抜き取られた結果であろう。

9月13日

・藤原定家(35)、良経第和歌会にて五首。

同18日、良経第にて韻歌百二十八首

11月4日

・蔵人藤原長兼、兼実の許に参じ、天皇の奏聞するよう命じられるが、その際、女房を通じず自分で行う様指示される。

この頃、後鳥羽院の周辺には女房が囲み、奏聞の取次、院の命令・指示の伝達を行う。卿局を筆頭に越中・弁内侍などの女房が取次ぐ体制。

11月23日

・定家、中宮任子八条殿行啓に供奉(「三長記」)

11月24日

・源通親、兼実の娘の中宮任子を宮中から退下させる。

「廿四日、中宮、内裏ヨリ八条院ニ御退出アラセラル」(『明月記』)

11月25日

・建久7年の政変

源通親、頼朝や大江広元ら鎌倉幕府要人との和解し、この日、九条兼実(48)不在のまま朝議を開催。九条兼実、関白・氏長者を罷免。弟慈円も天台座を追われ一族が排斥。前摂政近藤基通が関白・氏長者となり、源通親が朝廷の実権を握る。

頼朝は通親・丹後局に娘・大姫の入内を約束させており、入内成功のために、九条兼実失脚劇を黙認。

通親は入内問題を利用して幕府と兼実との離間を図る。 『愚管抄』によれば、上卿(しようけい、当日の政務担当公卿)であった源通観は兼実の流罪まで行おうとし、後鳥羽天皇から理由がないと押し止められたという。

兼実の子良経は内大臣・左大将に任じられたまま籠居の身となる。

定家は昇殿を取り消され、不遇の時代をむかえることになる。しかしその時期にも、定家は和歌に公事にと精進を続けた。

源通親(1149~1202、源博陸とも呼ばれる):

天皇乳母であった高倉範子(はんし)を妻とし、また養女在子(ざいし、範子先夫法師能円との間に生まれた子)を天皇の後宮に納れて第1皇子為仁親王(土御門天皇)誕生をみる。宮廷における勢力は他を圧し、兼実一派を宮廷から追放、建久9(1198)年1月11日為仁親王の践祚、後鳥羽上皇の院政を開始に成功。実質的権力は通親が掌握。正治元(1199)年頼朝没後、親幕府派公卿を排し、院を盛り立てる。通親没後、後鳥羽上皇自身による院政がようやく始まる。

兼実の失脚は頼朝の誤算。これにより、頼朝は京都に対する発言の窓口を失う。

「前の摂政(基通)に関白氏の長者を宣下せられ、また上卿通親・弁親国・職事朝経と聞こえけり。」(「愚管抄」)。

「廿五日、関白兼実を罷メ、前摂政基通ヲ関白、氏長者ト為ス」(『明月記』)

11月26日

・兼実の弟慈円も天台座主を辞し、後任には承仁法親王(後白河院第八皇子)が就任。

「かかりければ九條殿の弟(慈圓)山の座主にてありける。何も皆辞してければ、その所に梶井の宮承任は座主になされたりける。慈圓僧正座主辞したる事をば、頼朝も大にうらみをこせり。」(「愚管抄」)。

「今日座主上表し給うと。天台座主・法務権僧正皆辞退す。また御持僧内御祈願巻数を進せらる。御本尊に返し進せらると。御連枝の中殊に憑み奉りしめ給う。仍って辞し申せしめ給うなり。」(「三長記」)。

「廿六日、慈円、天台座主、法務、権僧正、及ビ護持僧を辞シテ籠居ス、尋(ツイ)デ、承仁法親王ヲ護持僧ト為シ、又天台座主に補ス」(『明月記』)

11月28日

・九条殿に参る人は関東(鎌倉幕府)によって処罰されるとの風聞が流れたという(『三長記』同日条)。基通側の流した流言。

明月記は、建久7年は6月一杯で、7月は21日だけしかなく、あとは欠けている。8年も8月16日と12月5日しかなく、この間の事情は記されていない。

だが、このクーデタは、定家自身にとっても深刻なものであった。建久7年には186首あった定家の歌作が、翌年には僅か2首しかない。9年は、仁和寺宮50首の他には2首しかなく、正治元年には11首である。

12月

・頼朝の妹婿の一条能保の子の高能を参議に、能保の婿西園寺公経(きんつね)を蔵人頭に任命。通親は、兼実一門を追放する一方、親幕派を軽んじるのではないというゼスチュアを示す。西園寺公経、中央政界に地歩を築き始める。

西園寺氏:

九條右大臣藤原師輔(もろすけ、908~60)の第10子公季(きみすえ、956~1029)の後。藤原氏宗家は、公季の兄兼家(かねいえ、929~90)の子孫が世襲、兼家の子道長(966~1027)が氏長者となり摂関家としての地位を確立、公季は太政大臣に進むが、その子孫は大納言に止まり。4世の孫公実(きみざね、1053~1107)が白河・堀河・鳥羽3帝の外戚となりるに至り世に現われる。公実に実行(さねゆき、1080~1162)・通季(みちすえ、1090~1128)・実能(さねよし、1096~1157)の3子があり、三條・大宮・徳大寺と称せられた。2男通季が父の遺志により嫡家と定められる(通季の母光子が堀河天皇の乳母)が、通季は早世し権中納言に止まる。実行・実能は大臣に進む。西園寺氏はこの通季の後裔で、通季の孫実宗(さねむね、1145~1213)が内大臣に進み、その子公経(きみつね、1171~1244)は傑出した政治的手腕を振い顕栄を極める。西園寺氏の興隆は公経一代において築き上げられる

公経:

承安元(1171)年生。父は実宗、母は持明院基家の女・平頼盛の外孫女。治承3(1179)年(9)叙爵、官途につく。平氏政権没落~鎌倉幕府成立の状況下、公経は武家との協調路線を支持。一條能保の女を娶り源氏との所縁関係を密にする。建久2年、公経の妻の姉妹の能保の女が、摂政九條兼実の嫡子良経(1169~1206)に嫁し、公経は九條摂家とも縁故関係が結ばれる。

①公経の外祖母は、頼朝が恩人とする平頼盛の女。

②一條家との縁組により、頼家・実朝と義理の従兄弟、政子・義時とは義理の叔母・叔父、泰時とは義理の従兄弟。

③九篠家とは、承元2(1208)年長女倫子を義弟良経の嫡子道家に嫁がせ、更に縁故関係を密にする。翌々年外孫である道家の嫡子教実が誕生。


つづく


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