建久7(1196)年
5月5日
・藤原定家(35)、左近衛府真手結に奉仕
5月8日
・藤原定家(35)、数日来病気
5月14日
・藤原定家(35)、脚に小瘡が出来る。基能という医師を招き薬をつける。
5月15日
「今日仲頼解官の由宣下をはんぬ。また蔵人邦季追爵をはんぬ。その替わりに、前の大将熱田宮司等の党を吹挙す。中條蔵人と称し、去年前駆せしめ参内せらるる所のものと。」(「明月記」)。
5月21日
・藤原定家(35)、外祖父親忠の仏事に布施を送る。
5月22日
・藤原定家(35)、不食、脚気の為、服薬。
6月
・若狭の御家人、初めて正式に確定。
頼朝、若狭に雑色足立新三郎清経を派遣、「先々源平両家祗候輩」の名簿注進を求める。
6月、在庁中原氏・柿下(柿本)氏は連署して大番催促に応ずべき国の住人33人の苗字・官途・仮名・実名を鎌倉に注進。最有力の在庁稲庭権守中原時定を中心に、郷司・下司・公文などの職を保持する荘・郷・保・名の地名を苗字とした中原氏・惟宗氏・小槻氏・藤原氏・柿本氏などが、「時」「頼」「家」「清」「兼」などを通字とした実名を名乗りつつ、姻戚関係で網の目のように結ばれる若狭の住人の独自な秩序は、東国「王権」(幕府)により一旦は公認されたかにみえる。実際には、若狭の守護は未確定であり、また、没官領の地頭に補任されている遠敷郡津々見保の津々見忠季、大飯郡本郷の美作朝親、遠敷郡宮河・松永保の宮内大輔重頼らは名簿には載せられていない。あくまで国の住人の名簿であり、東国人の入り込む余地はない。
この年8月、若狭の中心人物稲庭時定が関東に召し下され、頼朝の勘気に触れたとして全所領を没収。時定には、「渇命所」として遠敷郡西津荘が返されるが、この時、時定の一族稲庭時通・時方・和久里時継・時直(苗字未詳)など中原氏一門の在庁たちが所領を没収され、若狭の国人の秩序は、幕府の干渉により大きく変動。
9月1日、頼朝、津々見忠季に時定の「所知所帯」を沙汰すべきと命じ、遠敷・三方両郡の時定跡の所領25ヶ所を与える。忠季は国御家人を統轄する若狭守護となり、若狭という国名を苗字とする。
稲庭時定没落とともに所領を失った稲庭時通は、遠敷郡西津荘の古津を苗字として古津三郎時通を名乗り、子(と推測される)の古津新太郎時経や大飯郡岡安名の領主岡安右馬大夫時文と共に、税所となった若狭忠季のもとで税所代となる。東国からの地頭の代官となり、その立場を保つ道が国人の一つの選択であり、稲庭時定の子時国も大飯郡青郷地頭の代官となる。
6月3日
・東大寺の僧重源の申請により、摂津魚住・大輪田の両泊修築を命じる
6月10日
・藤原定家(35)、兼実より出仕の催しあるも病を理由に応ぜず。同日、藤原親綱の一回忌法会に参列し、兼実の勘発を受ける
6月13日
・藤原定家(35)、九条御堂にて東大寺四天王像の本様をみる
6月16日
・藤原定家(35)、兼実の伴をするための衣装がなくて困ることを兼実に訴えると、「小所一所」の給与が言い渡され、もし他に尋常の地が生まれたら、それに替えるともいわれる。
(「衣裳がなく、今夜の布衣も借物だというのは、これは何も貧乏できるものがなかったというのではなく、三日前から「家ニ忽チ五体不具ノ穢(エ)アルノ由ヲ聞く」という次第で帰宅をしていなかったからである。」(堀田『定家明月記私抄』))
「今夜御参内ト云々。装束ヲ籠メ置クノ間、衣裳ナク御共ニ参ゼザル由、内々ニ申シ了ンヌ。今夜ノ布衣、猶借物ノ由申シ了ンヌ。・・・予州ノ小所一所ヲ給ハル。但シソノ闕(ケツ)アラバ、尋常ノ所ニ替フベキ由仰セラル。畏悦シ退出ス」
6月19日
六月十九日。天晴。今夜斎院、密々七条坊門大納言ノ局ノ旧宅ニ渡リオハシマス。其ノ所ナキニ依リ、戸部然ルベキ由申サント云々。 - 去ル夜ヨリ天変頻リニ示ス。天下ニ大事アルベキノ由、司天頻リニ奏ス。御祈リ隙ナシト云々。衆口嗷々。閭巻浮説、狂乱奇怪ナリ。(「明月記」)
式子は、兼実が大炊殿にまだ居坐っているので行き所がなく、藤原経房の手配で、七条坊門大納言の局の旧宅に移る。この頃、天変頻り、天文方は、天下に大事ありと奏する。
6月21日
・良経、風邪をひく。22日もまた不例。23日には小康。24日にまた発熱。定家もまた小瘡が出来て痛む。時成朝臣を呼んで診せる。
6月23日
・藤原定家(35)、股に小瘡(ちいさなできもの)を患う
6月24日
・兼実も足を痛める。
6月25日
・平知盛の子知忠、京都守護一条(藤原)能保襲撃を企てて殺害される
〈平知忠の叛乱未遂〉
知忠は、権中納言・知盛の第二子、母は正妻の治部卿局。『平家物語』長門本によれば、知忠は治承3年、3歳で従五位下に叙された。寿永2年7月の都落ちの際、知盛は自分の乳母の夫の紀伊次郎兵衛(兵衛尉・橘為範)に知忠を預けた。為範は、知忠を伴い、そこかしこに潜伏し、姿を晦していた。建久5、6年頃、橘為範は知忠と共に伊賀国のある山寺に隠れていた。しかし知忠も青年に成長して目立つようになり、伊賀国の守護や地頭たちに嫌疑の眼を向けられそうな気配があったので、為範は知忠を伴って都に向い、『法性寺の一橋の辺に忍び』いたという。
延慶本によると、彼等は管絃の遊びをすると称して隠れ家に集合し、夜は管絃を吹奏し、暁になって帰るのであった。そこで付近の人びとが怪しみ、二位入道一条能保に密告した。
密告を受けた能保は、検非違使左衛門少尉・藤原基清とその子の兵衛尉・基綱に追捕を命じた。基清・基綱父子は、50余騎の軍勢を率いて一橋の隠れ家を急襲した。そこには屈強な侍が12人籠っていたが、結局、矢もカも尽きてしまって、つぎつぎに自害した。
為範は、自害した知忠を膝にのせ、自らも割腹して果てていた。また為範の子の兵衛太郎と兵衛次郎は刺し違えて伏していた。僅かに息をしていた為範の舎人たちが言うには、初め味方は20余人いたが、皆落ち延びた。『生(いき)上手』の上総悪七兵衛(藤原景清)も脱出したとのことであった。
基清は、自害した人びとの首級をもち帰り能保の実検に供した。知忠の断定は誰もできなかったので、今は乳母として守貞親王に仕えている知忠の母の治部卿局を招致し首を実検させた。局は、「七歳の時に捨て置いて西国に向かった後は、知忠の消息は不明で、逢ったこともないので、これが知忠の首かどうかはっきり分からない。どこか故中納言知盛を思い出させるような様子があるので、多分、知忠であろう」と言う。延慶本の記載も、これとほぼ同様で、恐らく治部卿局は、知忠の消息はある程度知っていたと思われる。
「今日一條辺に兵士等追捕の事有り。故知盛卿が子冠者、その党類を聚め、明暁一條を襲わんと欲す。その事を兼ねて聞き、仍って今日皆悉く追捕せらると。」(「明月記」)。
6月26日
・兼実は、足痛のため灸治。定家もまた、連日、暑気の腫物に悩む。
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