2023年4月6日木曜日

〈藤原定家の時代322〉建久10/正治元(1199)年8月1日~8月19日 定家、瘧発病 頼家、愛妾を奪おうとした頼家に怒った足立景盛を成敗しようとする 政子、頼家を諫言する   


 〈藤原定家の時代321〉建久10/正治元(1199)年7月2日~7月29日 京都に瘧流行 定家の家族も「近日天下一同、病悩ト云々」(子供3人が瘧を患う) より続く

建久10/正治元(1199)年

8月1日

・亮子、又発(おこ)るという。種々の御祈りをはじめられる。

8月2日

・定家(38)、八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕。

8月3日

・この日、為家病悩、腹取りを呼びよせる。腹取りとは、按摩のたぐいか。如来房尼という。

8月4日

・定家(38)、昇子内親王の日吉経供養に参仕。

8月8日

・この日付け『明月記』に、奉幣使として伊勢発遣を9日後に控えた新大納言源通資(源通親の弟)が、「今夜より広元 玄番頭 宅に坐す」という記事が見える。大江広元の官途はこの時「玄蕃頭」ではなく「兵庫頭」であるが、官途の表記に関しては定家の思い違いと考えれば、この記事からは、大江広元の京都での宿所が二条にあり、源通親の縁者が広元の宿所に入っているという広元と通親の関係の親密さが読み取れることになる。

8月10日

・定家(38)、早旦、馬一匹を家司忠弘を以て、勅使大納言に贈る。女院の執事である。但し異様の痩馬なりと。しかし、日来、日吉に往反した、遠路過失なき逸物であるという。

8月11日

・良経家作文歌会。定家(38)、俄に密々絶句を講ぜられ、和歌の事もあり。威信・知範同席。

8月12日

・定家(38)、宜秋門院より、巻物一巻を給う。同日返上。

8月14日

・定家(38)、式子邸の帰り、車中より心神不快、手足痛み、前後不覚。夜半ばかりいささか安堵。瘧(おこり、マラリア)病かと思われる。

8月15日

・「鶴岡八幡宮の放生会、中将家(頼家)御参宮無し。」(「吾妻鏡」同日条)。

翌16日、例年通り鶴岡八幡宮馬場での流鏑馬神事。

8月18日

・安達景盛が参河国から帰参。

8月18日

・定家、朝から垣山の湯に浴す。四度ばかり入浴の後、浴槽の中で発(おこ)る。温気火の如く、悶絶周章、終夜辛苦。

19日、いささか落着いたが、無気力、飲食に堪えず。

8月19日

・北条政子、甘縄の安達盛長の家を訪ねる。頼家の不祥事に対し、頼家に諫言する。

20日、安達景盛に、頼家に対して野心なき旨の起請文を書かせる。これを頼家に伝え、再度訓す。

〈ことの経緯〉

7月10日伊勢国より室重広の狼籍が報告され、頼家はその鎮圧を安達景盛に命ずるが、景盛は、日頃より景盛の妾への頼家の邪心を感じており、これを拒否。しかし、父盛長が三河国守護職を保持している関係で、不本意ながら下向する。その間、案の定、頼家は景盛の愛妾は強引に自分のものとする。1ヶカ月後、鎌倉に戻った景盛は事の成り行きに怒る。にも拘らず、頼家が景盛に成敗を加えようとしているとの風評が立つ。政子は、頼家の軽はずみな行為が御家人たちの怨嵯を醸し出すことを危倶し、頼家を諫言

「庚子 晴 晩に及び参河の国の飛脚参り申して云く、室の平四郎重廣若干の強竊盗人等を率いて、当国の駅に於いて、武威を振るい謀計を廻すの間、路次往反の庶民、これが為に煩費有り。治罰を加えられざれば、国中静謐し難しと。」(「吾妻鏡」7月10日条)。 

「丙午 晴 安達の弥九郎景盛使節として参川の国に進発す。重廣が横法を糺断せんが為なり。景盛日来頻りに以て使節を固辞す。これ若しくは去る春の比、京都より招き下す所の好女、片時の別離を愁うが故かと。而るに参河の国すでに父の奉行国たるの上は、遁避に所無きの旨その沙汰有り。遂に以て首途すと。」(「吾妻鏡」7月16日条)。 

「庚戌 申の刻以後雷鳴甚雨、深更に及び月明 暁鐘の期に至って、中将家中野の五郎能成を遣わし、猥りに景盛が妾女を召す。小笠原の彌太郎が宅を点じこれを居え置かる。御寵愛殊に以て甚だしと。これ日来重色の御志禁じ難きに依って、御書を通せらる。御使いの往復数度に及ぶと雖も、敢えて以て諾し申さざるの間此の如しと。」(「吾妻鏡」7月20日条)。 

「丙辰 甚雨、雷一声。晩に及び晴に属く。 夜に入り件の好女(景盛が妾)を召し、北向御所(石壺、北方に在るなり)に於いて、自今以後この所に候ずべしと。これ御寵愛甚だしき故なり。また小笠原の彌太郎長経・比企の三郎・和田の三郎朝盛・中野の五郎能成・細野の四郎、以上五人の外、当所に参るべからざるの由定めらると。」(「吾妻鏡」7月26日条)。 

「戊寅 陰 安達の九郎景盛参河の国より帰参す。申して云く、数日彼の国に逗留せしめ、遠慮を廻し、郎従等を分遣し、方々に於いて重廣横行の所々を捜し求むと雖も、兼ねて以て逐電するの間、その行方を知らざるに依って帰参すと。」(「吾妻鏡」8月18日条)。 

「己卯 晴 讒侫の族有り。妾女の事に依って、景盛怨恨を貽すの由これを訴え申す。仍って小笠原の彌太郎・和田の三郎・比企の三郎・中野の五郎・細野已下の軍士等を石御壺に召し聚め、景盛を誅すべきの由沙汰有り。晩に及んで小笠原旗を揚げ、籐九郎入道蓮西が甘縄の宅に赴く。この時に至り、鎌倉中の壮士等鉾を争い競集す。これに依って尼御台所俄に以て盛長が宅に渡御す。行光を以て御使いと為し、羽林に申されて云く、幕下薨御の後幾程を歴ず。姫君また早世し、悲歎一に非ざるの処、今闘戦を好まる。これ乱世の源なり。就中景盛はその寄せ有って、先人殊に憐愍せしめ給う。罪科を聞かしめ給わば、我早く尋ね成敗すべし。事を問わず誅戮を加えられば、定めて後悔を招かしめ給うか。もし猶追討せられべくんば、我先ずその箭に中たるべしと。然る間渋りながら軍兵の発向を止められをはんぬ。凡そ鎌倉中の騒動なり。万人恐怖せざると云うこと莫し。廣元朝臣云く、此の如き事先規無きに非ず。鳥羽院の御寵祇園女御は源の仲宗が妻なり。而るに仙洞に召すの後、仲宗を隠岐の国に配流せらると。」(「吾妻鏡」8月19日条)。 

□現代語訳

「幕下が亡くなって幾程もなく姫を失い悲嘆にくれているなか、戦闘を好むのは如何なる所存か。そのようなことは、乱世の原因ともなる。とりわけあなたが成敗しようとしている景盛は、故幕下将軍以来の功臣の家系です。もし景盛に正当なる罪があるならば、この母に申してから罰すべきである。事情を問わず誅するようなことがあれば、定めし後悔することになる。それでもなお罰を加えようとするなら、この私がまず矢に当たる。」(「吾妻鏡」8月19日)

「庚辰 陰 尼御台所盛長入道が宅に御逗留。景盛を召し仰せられて云く、昨日計議を加え、一旦羽林の張行を止むると雖も、我はすでに老耄なり。後昆の宿意を抑え難し。汝野心を存ぜざるの由、起請文を羽林に献るべし。然れば即ち御旨に任せこれを捧ぐ。尼御台所還御す。彼の状を羽林に献ぜしめ給う。この次いでを以て申されて云く、昨日景盛を誅せられんと擬すこと、粗忽の至り、不義甚だしきなり。凡そ当時の形勢を見奉るに、敢えて海内の守りに用い難し。政道に倦んで民愁を知らず、倡楼を娯しんで人の謗りを顧みざるが故なり。また召し仕う所は、更に賢哲の輩に非ず。多く邪侫の属たり。何ぞ況や源氏等は幕下の一族、北條は我が親戚なり。仍って先人頻りに芳情を施され、常に座右に招かしめ給う。而るに今彼の輩等に於いては優賞無く、剰え皆実名を喚ばしめ給うの間、各々以て恨みを貽すの由その聞こえ有り。所詮事に於いて用意せしめ給わば、末代と雖も、濫吹の儀有るべからざるの旨、諷諫の御詞を盡くさると。佐々木三郎兵衛入道御使いたり。」(「吾妻鏡」8月20日条)。 

□現代語訳

「昨日景盛を誅しようとした行為は、誠に楚忽(軽率なこと)の至りです。あなたの今の態度を思うに諸国守護の権を全うできると思われません。政道を省みず色におぼれ、人の謗りを招く行為ばかりが目立ちます。また近仕の輩は邪侫(じゃねい)の連中ではないか。故幕下は源氏の一門や、わが北条一族を重く用い芳情を施され、相談相手とされたが、今日ではそうした人々への配慮は全くなく、あまつさえ実名で呼びすてるような態度は、あなたのために恨みをのこすことになりましょう。したがって今後は細心の注意を払って行動することこそが肝要です。」(「吾妻鏡」8月20日)

政子は、諫言で「・・・北條は我が親戚なり。仍って先人頻りに芳情を施され、常に座右に招かしめ給う。」と言うが、頼家にとっては北条は母の実家以上のものでなく、最も頼りとするのは、乳母父として後見にあたる比企一族である。

北条氏の浮沈はこの頼家との関係にある。玉たる頼家が比企氏の掌中にあるとすれば、北条の希望はその弟千幡(実朝)ということになる。実朝はきっちりと北条氏が振った。政子の妹阿波局が乳母になり、その夫阿野全成が乳母夫になっている。

頼朝と政子の二人の男子は、それぞれ比企氏・北条氏を乳母父関係に持ったことで、抗争の火種を宿す結果となった。これは権力争奪の縮図でもある。要は相互の玉の磁場が反発し合い、潰し合う構造だ。後に起こる頼家と実朝のそれぞれの悲劇は、玉としてかっがれる不幸にあった。

政子が母として頼家を説諭した背景をなすものは、必ずしも頼家のためのみではなかった。北条氏のためでもあった。政子は北条一門の勢力維持を考えていた。


つづく

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