建久10/正治元(1199)年
7月
・この月、京都に瘧(おこり、マラリア)病流行。
定家の家族も、「近日天下一同、病悩ト云々」という次第で、子供3人が瘧を患う。定家も、8月には罹病した。
7月2日
・若狭忠季、頼家によって稲庭時定の郎従とその所領の百姓に対する支配を改めて認めらる。翌2年2月2日、遠敷・三方両郡内の荘園・公領の地頭に補任。
7月4日
・定家(38)、日吉社より帰京
7月7日
・定家(39)、体調不良
7月9日
・定家(38)、式子邸参向。咳病殊に不快。
7月10日
・参河(みかわ)国の飛脚が鎌倉に到着。室(むろ)平四郎重広が多くの強盗らを率いて武威をふるい、はかりごとを廻らしているので、往来する庶民の煩いとなっている。治罰を加えないと静まらない状況、と。(「吾妻鏡」同日条)。
7月10日
・定家(38)、夢想により、夢中に和歌を詠み、日吉社に神楽を献ずることに思い当り、その料など手配する。頼朝の第二女、姉の大姫同様、長病の末、先月晦日に逝去と。鬱病である。
「七月十日。天晴。午ノ後、大雨雷居鳴。其ノ声猛烈。申後ニ雨止ム。雷、猶止マズ。昨夜ノ想ニ云フ、予、人ノ誂へニ依リ、和歌ヲ詠ム。
さかきばを吹く秋風のゆふかけて神の心をなびけとぞおもふ
寝後ニ之ヲ案ズルニ、日吉ニ重ネテ祈禱ヲ致スベキノ由、此ノ間、之ヲ案ズ。未ダ其ノ事ヲ思ヒ得ザルノ処、此ノ如シ。仍テ神楽ヲ修スベキノ由、思ヒ得ルナリ。仍テ今日便ヲ立ツ。料ノ物等、親戚宿禰ノ許ニ送り、神楽ノ事ヲ示シ了ンヌ。若シ感応アラバ不思議卜謂フべキノミ。 - 巷説ニ云フ、前(故)大将第二ノ娘、又姉ノ如クニ、長病逝去卜云々。漸ク定説ヲ聞クナリ。晦日ニ逝去。年十七(四)卜云々。」
7月11日
・定家(38)、早旦、沐浴潔斎。為家病悩。この日頃、因子も毎日瘧病、20日余りにわたる。天下一同これにて病悩と。(瘧=おこり)
7月12日
・定家(38)、吉夢を見る。内蔵頭に任じられ、やがて蔵人頭になるという。定家は、内心、蔵人頭を経て公卿に列せられたいと望んでいた。それが夢想となって現れたのであろう。しかし、後になってみればそれは虚夢に過ぎなかった。妻もまた、夢想を得て、皮堂に参詣する。為家の瘧は別の事なく、しかし夕方になって微熱あり。
「七月十二日。天晴。去ル夜ノ夢ニ人卜談ジテ云フ、予、当職ヲ去り、内蔵頭ニ任ズベシ(仲継闕クル時カ)。蔵部ハ要須ノ官卜雖モ、欣躍シテ之ヲ去り、何ゾ望ヲ遂ゲザランヤ。次デ又蔵部ヲ去ラバ、其ノ時貫首ニ補スベキナリトイヘリ。此ノ夢、吉卜謂フべシ。仍テ之ヲ注ス。〈後年之ヲ見ルニ、答フル無シ。虚夢カ〉。今朝、女房皮堂ニ参ゼシム。是レ又女房夢ミル事アルニ依ルナリ。 - 小児、今日別ノ事無シ。但シ猶申ノ時以後、聊カ温気アリト云々。」
7月13日
・為家(定家の子)、やはり発する。三人の子皆病んでいた。
7月14日
・この日の夜、定家(38)が父俊成の三条坊門邸を出て九条宅へ帰るため従者をつれ騎馬して東洞院適を南下、高辻通辺りに差しかかった時、1町(約109m)に満たない先から飛ぶような速さで院の車がこちらに向って来るのに気付いた。その瞬間、定家は馬を馳せて他の道に逃げ込んでいる。下人たちも「院の車の鞅(むながい、罵具。馬の胸から鞍にかけわたす組みひも)が切れ、結び直すのに時間がかかったので助かりました」などと言っているから、それで救われたのである。定家も「これが今日の冥加で運が尽きなかった証拠だ」と安堵している。「自今以後と雖も、此の如き路頭は慎み怖るべき事、無益」といい、僕従たちには、今日のことを口外しないようにと諭す。
路頭で貴人に逅った時の礼は、まことに厄介。
「七月十四日。天晴。 ー 夜ニ入リ坊門ニ向フ。礼仏不口千人騎馬。帰路。上皇ノ御車ニ逢フ。四裔八極、速キコト飛ブガ如シ。高辻東洞院ニ〇テ、已ニ町ノ内ナリ。馬ヲ馳セ逃ゲ隠ルノ間、下人等云フ、御車ノムナガヒ、切レ結ブ間、程ヲ経テ適々隠ルルヲ得タリト。是レ今日ノ冥加、運ノ聊カ尽キザルナリ。今日ヨリ以後卜雖モ、此ノ如キ路頭、慎シミ怖ルベキナリ。益無キニ依り、此ノ条、猶披露スべカラザルノ由、僕従ヲ誡メ了ンヌ」
7月15日
・後鳥羽院、籠居中の参議西園寺公経に言葉をかけ、公経は馬・剣を奉呈。定家は、院は公経の籠居を許すのではないかと書く(「明月記」同日条)。後鳥羽院は源通親の専横に対抗して、序々に通親の政敵の復帰を図る。
7月16日
・安達景盛が重広の乱暴を糾弾するため参河に出発。はじめ、景盛はこの使節を固辞していた。これは、もしかして春の頃に京都から招いた美女との片時の別離を悲しんでのことかと言われている。しかし、参河国は父の盛長が奉行する国なので、逃れることができないとの裁定が下りついに出発した。(「吾妻鏡」同日条)。
7月18日
・宮仕えまでした妻が嫉妬のあまり夫の女を打つ。その髪が常光院御堂に多く散乱していた。前斎院式子の許にまで両人が訴え出て、経房が常光院の預かりを召し出して、検非違使の手まで入ったという。定家は、刑罰が重すぎると批判。
「七月十八日。天晴。 - 人云フ、出羽守基定ノ妻君代(院ノ御時ニ髪上ゲ)、嫉妬ニ依り、常光院ニ行キ向ヒ(斎院ニ御預り)、件ノ女ヲ引キ入レ、打チ調ズ。件ノ女、女ニ従ヒ斎院ニ参ズ。幷ビテ此ノ子細ヲ訴へ申ス。民部卿之ヲ聞キ、執行ニ仰セ、彼ノ院ノ預リヲ召シ出シテ勘発、検非違使ニ及ブト云々。刑罰、法ニ過グルカ。共ニ以テ不思議ナリ。下女卜雖モ、心操弾指スベン。女ノ髪、多ク彼ノ御堂ニ落チ散ルト云々。」
7月20日
・暁、定家、八条殿の健御前を誘って、共に嵯峨に行く。翌日、帰京。
7月20日
・夜明け頃、頼家は中野能成に命じて安達景盛の妾女を強引に連れてきて、小笠原長経の家に住まわせた。これは、この数日来、何度も手紙を出して招いたのに、全く承諾しなかったからであった(「吾妻鏡」)。
7月25日
・藤原定家、兼実から給恩の地として下総国三崎庄があたえられる。
「女房を以て下総の国三崎庄政所御下文を給う。種々の恩を蒙る。これ奉公の本意なり。参向抃悦の由を申し退出す。」。
7月26日
・夜になって、頼家は安達景盛の妾女を北向御所に連れてきて、今後はここに住むように命じた。ここには小笠原長経ら5人以外は来てはならないと決められた(「吾妻鏡」)。
7月28日
・定家、仰せにより車を宜秋門院女房堀川殿に献ずる。この人は通親の女である。
7月29日
・定家、賜った三崎の庄に、雑色光沢を下向させる。地頭に通ずるためである。
「此ノ男、官任傍輩ニ勝ル。心操正直ナル者ナリ。恩顧ノ志アリト雖モ、無力清貧ノ間、年末一事ノ芳意ナシ。 - 路次ノ近辺等、少々便書ヲ求メ、之ニ給ヒ了ンヌ」、と光沢の心操を褒め、道中の便宜を計ってやる。
結果、地頭から年貢を納める旨の返事を得る(9月20日条)
・この日、正午過ぎ、殷富門院に参ずべしとのことで、定家は、牛僕を借り求め車を飛ばす。亮子は瘧病だった。守覚法親王にも告げよとのこと、急ぎ馳せ行く。25日以後、今日で三度発すとのこと、実全法師に護身させている由。このところ亮子は広隆寺に参籠、そこで発病、昨日還御したばかり。
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