2023年4月12日水曜日

〈藤原定家の時代328〉正治2(1200)年1月1日~19日 正月の垸飯は時政が第一 梶原景時没落 「一ノ郎等卜思ヒタリシ梶原景時、、、景時国ヲ出テ京ノ方へノポリケル道ニテウタレニケリ」(「愚管抄」)   

 


〈藤原定家の時代327〉建久10/正治元(1199)年12月2日~31日 『明月記』に良輔が出てくるようになる 梶原景時追放 「連夜寒風。心神為方無シ。地下ノ身、進退惟レ谷マル。衰齢卅八。」(『明月記』) より続く

正治2(1200)年

1月1日

「北條殿(時政)垸飯を献らる。」

2日「垸飯、千葉の介常胤。」

3日「垸飯、三浦の介義澄が沙汰なり。」

4日「兵庫の頭(中原)廣元朝臣御垸飯。」

5日「垸飯、八田左衛門の尉知家が沙汰なり。」

6日「相模の守(大内)惟義朝臣御垸飯なり。」

7日「小山左衛門の尉朝政垸飯なり。」

8日「垸飯、結城の七郎朝光これを沙汰す。」

13日「垸飯、土肥の彌太郎(遠平)沙汰なり。」

15日「佐々木左衛門の尉定綱(在京)垸飯を進す。」(「吾妻鏡」同日条)

この年の正月の垸飯(わうばん)では、独裁者が没した動揺を反映して11名となり、首位が新将軍頼家の外祖父時政(頼朝時代には千葉・足利・三浦・小山・宇都宮ら東国豪族領主層で、時政はない)。北条氏の抬頭が、「将軍の外戚たる地位を殆ど唯一のより所として」、頼朝没後表面化した「将軍独裁制支持者と東国御家人との反目抗争」の「調停者」となることで実現。

1月1日

・定家(39)、良経の後鳥羽院拝礼に供奉。

1月2日

・定家(39)、八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕。

1月2日

・道元、誕生。

父内大臣源通親(1149~1202、内大臣正二位右大将、土御門内大臣、後鳥羽院院司)、母摂政関白藤原基房の娘(伏見区久我本町の妙覚山誕上寺)。養父は源通具(通親の子、堀川大納言、正二位)。1227年に曹洞宗を伝える。

1月3日

・源通具(通親の子)、俊成卿女(定家の姉)を離別し、土御門天皇の乳母で従三位按察局(あぜちのつぼね)を妻に迎える。

1月5日

・頼家従四位上に叙され、8日、禁色を許される。

1月12日

・『明月記』における水無瀬御幸の初見

「上皇、今日、皆瀬御所に御幸と云々、供奉人は水干(すいかん)を着すと云々」(『明月記』)

1月13日

・導師に栄西を迎え法華堂で頼朝の1周忌。五部大乗経を摺写。

北条時政以下、「諸大名群参シテ市ヲナス」なかで政子は尼御台としてこれに臨んだ。

1月13日

「今日三崎荘ノ物、適々(たまたま)到来ス。不法奇怪ナリ」(『明月記』)

(荘園経営もうまく行かない)

1月14日

・定家(39)、葦毛の馬を良経に献ずる。随身に賜ったという。

「面目トナス」。

1月15日

・土御門天皇の生母源在子に女院号「承明門院」宣下。

1月16日

・定家(39)、腹病を病む。

「予、車無し。・・・・・法眼ノ馬ヲ借リテ騎ス」(『明月記』)

1月18日

・雪深く風も強い中、頼家、大庭野に狩をする。

1月19日

・相模国一宮に引き籠もった景時が、子息たちとともに京都へ出発したとの風聞を、相模の御家人原宗宗房(はらむねむねふさ)が伝えてきた。そこで、御所に集まった時政・広元・善信らは即座に景時の追討を決定、三浦義村・比企兵衛尉らが追撃のために派遣された。ところが、景時らが上洛の途中、駿河国清見関(静岡県興津市)近くで周辺の武士たちに発見され、激しい合戦の後、一族もろともあえない最期を遂げた。

20日、梶原一族、清見関(静岡県清水市)狐崎で吉川氏ら近隣武士に敗れる。景季(39)も没。(御家人の中に京都側の介入が入り、反幕的動きがあったことを推測させる)。

「辰の刻、原の宗三郎飛脚を進し申して云く、梶原平三景時この間当国一宮に於いて城郭を構え、防戦に備うの儀、人以て怪しみを成すの処、去る夜丑の刻、子息等を相伴い、潛かにこの所を逃れ出ず。これ謀叛を企て上洛の聞こえ有りと。仍って北條殿・兵庫の頭・大夫屬入道等御所に参り沙汰有り。これを追罰せんが為、三浦兵衛の尉・比企兵衛の尉・糟屋籐太兵衛の尉・工藤の小次郎已下の軍兵を遣わさるるなり。亥の刻、景時父子駿河の国清見関に到る。而るにその近隣の甲乙人等、的を射んが為に群集す。退散の期に及び、景時途中に相逢う。彼の輩これを怪しみ箭を射懸く。仍って芦原の小次郎・工藤八・三澤の小次郎・飯田の五郎これを追う。景時狐崎に返し合い相戦うの処、飯田の次郎等二人討ち取られをはんぬ。また吉香の小次郎・渋河の次郎・船越の三郎・矢部の小次郎芦原に馳せ加わる。吉香梶原三郎兵衛の尉景茂(年三十四)に相逢い、互いに名謁らしめ攻戦し、共に以て討ち死にす。その後六郎景国・七郎景宗・八郎景則・九郎景連等轡を並べ鏃を調うの間、挑み戦い勝負決し難し。然れども漸く当国の御家人等競い集まり、遂に彼の兄弟四人を誅す。また景時並びに嫡子源太左衛門の尉景季(年三十九)・同弟平次左衛門の尉景高(年三十六)、後山に引き相戦う。而るに景時・景高・景則等、死骸を貽すと雖もその首を獲ずと。」(「吾妻鏡」同20日条)。

「巳の刻に山中に於いて景時並びに子息二人の首を捜し出す。凡そ伴類三十六人、頸を路頭に懸くと。」(「吾妻鏡」同21日条)。

景時追討は、景時父子の所領が没収されるだけでなく、景時の朋友加藤景廉(かげかど)も所領を没収され、安房判官代隆重も捕縛された。

また、甲斐国では、景時に同調して上洛しようとした武田有義が弟伊沢信光の攻撃をうけて逃亡、行方不明となった。有義が将軍に就任するという計画が練られていたという。武田一族は、頼朝の時代、信義が頼朝から叱責され、さらにその子一条忠頼も謀殺されている。武田の家督をめぐって有義と信光が対立し、有義が景時と結びついた。

武田有義(武田信義の後継)は、危機を察知し国外へ逃亡、以後動静不明。信義5男の(石和)信光が武田家惣領職を継承。

「景時討伐必然と。天下の悦びなり。積悪の輩数を盡くし滅亡す。趙高独り運未だ消えず。如何々々。御祈り等今日延引すと。」(「玉葉」2月2日条)。

「一ノ郎等卜思ヒタリシ梶原景時ガ、ヤガテメノトニテ有ケルヲ、イタク我バカリト思ヒテ、次々ノ郎等ヲアナドリケレバニヤ、ソレニウタへラレテ、景時ヲウタントシケレバ、景時国ヲ出テ京ノ方へノポリケル道ニテウタレニケリ」(「愚管抄」)。

景時が頼家の傅(あるいは乳母夫)という立場を背景に、幕府内で相当の権勢を有していたこと、一部の御家人が将軍頼家を廃して、(弟)実朝を新将軍に立て、梶原一族を失脚させようとしたことが窺われる。

景時失脚を裏で画策した者として北条時政が指摘されている。

結城朝光に景時讒訴を密告して景時失脚の発端をつくった阿波局は、時政の娘で実朝の乳母であること、梶原一族が鎌倉追放後、所領内で合戦の準備をしても見過ごしていたこと、上洛しようとする梶原一族が討たれた駿河国の守護は時政であったことなどが根拠とされる。

いずれにしても、景時の没落によって、頼家は忠実な後見勢力の一部を失ったのであり、慈円が「景時滅亡は頼家の失敗」と記しているのも的を射ている。

『保暦間記』は、頼朝の時代には景時が讒言しても頼朝が心得て、景時の言を取捨していたが、頼家は若くて無思慮なため、景時の言をそのまま容れたので被害を受けるものが多く、皆が連判をして景時を追い出したものである、ところが景時は、その後も源家に心を寄せていたので、頼家に代わって武田有義を将軍に取り立てて天下を覆そうと企てたのだと説明している。ここでは景時よりも、景時からの進言を受ける頼朝と頼家との器量の差に事件の原因を求めている。

一方『玉葉』は、景時が他の武士たちに猜(そね)み悪(にく)まれるあまり、逆に武士たちが実朝を擁立しようと準備していると頼家に讒言した、ところが頼家が他の武士らに尋ねて、景時と対決させたところ、景時は弁論できずに虚偽が現れてしまい、その結果、景時一族は鎌倉を追われたのだと伝えている。

恐らく、頼家から見放された景時が、代わりに源氏の血を引く人物を擁立しようとし、京都朝廷との連絡を持とうとしたことは考えられる。

だが、謀叛事件の成否は別として、むしろ問題なのは、景時という謀臣を見捨てた頼家が、その結果、自分の権力基盤を一層弱体化させ、ひいては強制的な将軍廃職と暗殺という悲劇への途を歩むこととなった点であり、この時期の政治史の一つの分岐点ともなった事件である。

慈円『愚管抄』(巻第6)で頼家暗殺に触れた中で、「正治元年ノコロ、・・・・・景時国ヲ出テ京ノ方へノポリケル道ニテウタレニケリ。子供一人ダモナク、鎌倉ノ本体ノ武士カヂハラ皆ウセニケリ。コレヲバ頼家ガ不覚ニ人思ヒタリケルニ、ハタシテ今日カゝル事(暗殺)出キニケリ」と記し、梶原一族の滅亡を見過ごしたことが、頼家自らの破滅につながったという見方を取っている。この見方は、”鎌倉ノ本体ノ武士”という言葉と相俟って、景時の役割に対する慈円の高い評価を物語り、慈円には景時の滅亡が頼家・実朝の死、そして北条氏による幕府の実験掌握への道を準備するものと見えた。

頼朝の死後、景時の勢威が失われたのは、景時の権力が本質的には将軍からの直接的な権力委譲に基づくものであって、頼家への代替わりによって根源たる将軍権力の衰亡がもたらされたことが、即時に景時の権力の弱化を意味した。将軍権力の強化という一点においては、景時と頼家とは協力し合わなければならない立場にあったにもかかわらず、頼家がその重要性を理解していなかったことに、景時の悲劇の真の原因があった。

1月19日

・雪紛々たり。雪の朝は、催しがなくても、威儀を具さず、ただ一人、あけぼのに参ずべきであると、定家(39)は故実を記し、諸人の尾籠を嘲い、〈無慙ナリ、無慙ナリ〉と嘆息。そして兼実の仰せによって、奉行となり雪山の沙汰をする。杲云が、白葦毛の馬を送る。家司の一人である。


つづく

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