2023年4月11日火曜日

〈藤原定家の時代327〉建久10/正治元(1199)年12月2日~31日 『明月記』に良輔が出てくるようになる 梶原景時追放 「連夜寒風。心神為方無シ。地下ノ身、進退惟レ谷マル。衰齢卅八。」(『明月記』) 

 


〈藤原定家の時代326〉建久10/正治元(1199)年11月10日~30日 大江広元の苦衷 広元、弾劾状を頼家に取り継ぐ 梶原景時、弁明せず一宮に引き揚げる より続く

建久10/正治元(1199)年

12月

・この頃から詩の作者として良輔(兼実の庶子、兼実と八条院三位局の間の子)の名が『明月記』に見えるようになる。

・建久7年の政変以来、籠居して朝廷に出仕していなかった九条良経、この月、後鳥羽の命令で兵杖(護衛の武官)を与えられ、出仕を果たした。

12月2日

・定家(38)、御堂より召しあり、俄に詩会あり。良輔も来座。又和歌あり、序を書く。為長・成信・知範同席。

「此等ノ事、甚ダ興ナシ。・・・・・衆ニ交ハルコト、禽獣ニ異ラズ」(定家、やる気なし)

12月4日

・定家(38)、式子邸参向。御悩、逐日増すが如し。

12月5日

・定家(38)、御堂懺法に参仕。

12月7日

・定家(38)、良経の許に召しによりて参上。作文会。

「狂事ヲ書キ出シ了ンヌ」(ここでも、定家、やる気なし)

12月8日

・定家(38)、式子邸参向。御不例なお増加。又雑熱により、御薬を付けられる。焼石を宛てられたので、火ぶくれが出来、冷やされる。

12月9日

・梶原景時、一旦、鎌倉へ帰参(「吾妻鏡」同日条)。

12月11日

・定家(38)、幼児為家の初めての魚食(まな)の儀をとり行い、為家を伴って兼実の許に行く。先ず中宮の台盤所に行き、忠弘に抱かせて、兼実に謁し、手本造物、種々の感言を賜る。もっとも面目となす。この子は運のいい子で嬉しい。夜は、因子の着袴。宜秋門院の御衣を賜り着せる。

「両人随分ノ吉事、無為遂ゲ了ンヌ。悦ビトナス」。

12月18日

・梶原景時追放

結城朝光を讒訴したとされたことが契機となって、御家人らの弾劾により頼朝第一の重臣の梶原景時が追放される(「吾妻鏡」同日条)。審議は和田義盛と三浦義村が奉行した。

その後、景時の屋敷は壊して永福寺の僧坊に寄附。

翌年正月19日夜、子息らをともなって一宮を出立したが、途中の駿河図清見開で現地の武士らに阻まれ、一族とともに滅亡した。

景時の鎌倉追放申し渡しは、和田義盛・三浦義村が担当した。

この10日間、義盛らと景時との間で弾劾・陳述が展開されたのかもしれないが、『吾妻鏡』は10日間のできごとをいっさい記述いない。

鎌倉追放を伝えた義盛は、景時に侍所の別当職を奪われたものの、所司にとどまっていたから、その職務行為を果たしたとしても、義村は関係ない。13人の合議制が機能していないばかりか、頼家自身もかれら御家人たちの景時弾劾という実力行使には対応しきれていない。

頼家は、有力御家人たちを無視しての将軍独裁が、もはや現実性を持たぬ現実を突きつけられる。

「景時が事、諸人の連署状に就いて、日来連々沙汰を経られ、遂に今日鎌倉中を追い出さる。和田左衛門の尉義盛・三浦兵衛の尉義村等これを奉行す。仍って相模の国一宮に下向す。その後彼の家屋を破却し、永福寺僧坊に寄付せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

12月18日

・定家(38)、中宮任子仏名に参仕。

12月20日

・定家(38)、商賈を呼び寄せ、葦毛の馬一匹を買う。しかし何と、尾のない馬である。

12月22日

・定家(38)、良経の許にて連歌。隆信参入。

12月22日

・大江広元、大膳大夫直講師を辞し、掃部頭に任じ、又大膳大夫となる。

12月24日

・定家(38)、経房の吉田新御堂供養に参列。

12月29日

・景時が守護であったた播磨の国について、小山朝政が守護職に補せられた。

「小山左衛門の尉朝政を以て播磨の国守護職に補しをはんぬ。住国の家人等朝政に相従い、内裏大番を勤仕す。惣て忠節を致すべきなり。朝政が沙汰すべき事は、謀反殺害人の事ばかりなり。国務に相交わり、人民の訴訟を成敗すべからず。凡そ事に触れ国中の住人を煩わすべからざるの旨仰せ含めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。"

12月29日

・定家、三崎庄の所課をもって、忠弘につけて雑仕の装束を良経に献ず。

「殊ニ美麗過分ノ由、沙汰アリト」

12月31日

「連夜寒風。心神為方(センカタ)無シ。地下ノ身、進退惟(コ)レ谷(キハ)マル。衰齢卅八。」(『明月記』同日条)


つづく

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