2023年4月16日日曜日

〈藤原定家の時代332〉正治2(1200)年3月2日~29日 定家(39)心神殊に不快 病悩 終日病臥 子の為家、水痘に罹る 雨降って「荒屋漏湿、林宇ニ異ラズ。事二於テ貧乏、生涯憑ム所無シ」(『明月記』) 

 


〈藤原定家の時代331〉正治2(1200)年閏2月1日~29日 頼家、伊豆国藍沢原で狩猟。射手60人が供をする 藤原経房(59)没 政子、栄西に亀ケ谷の地を寄付(寿福寺) より続く

正治2(1200)年

3月2日

・定家(39)、式子邸に参向。夜に人々を招いて、いささか詩歌を講ず。絶句祝言である。

3月3日

・北条義時(38)、鶴岡宮法会に頼家の代わりにて奉幣使を務む。

3月3日

・定家(39)、良経の許に参じ、能季朝臣以下と車に相乗りして退下。定家の家で、詩を講じ、又雑遊す。能季・宗綱・成信・信光・清光・業清・信定・知範・範房等が来会。或いは詩人、或いは歌人、或いは両方に堪えず。但し良経と良輔の作は、能季・信光がいただいて来た。之を以て、両方に堪えぬ者の代りとする。知範等、入興し、雪を廻らすに及ぶ。定家春夜の清遊だった。

3月5日

・定家(39)のもとに、坊門より、夜前、北壺呉竹のあたりで、人魂の飛ぶのを見たと告げ来る。見た女房の言によれば、その色白くして丸からず、折敷の如く四角いものであり、大きさもまた折敷ほどのものだったと。又今一人の小女は、その色、火の如く赤かったという。定家は人魂ではなかったのだろうと思う。

3月6日

・定家(39)、式子の許に参ずると、御乳がはれて痛みありと。

3月9日

・定家(39)、また式子を見舞う。八条院三条の七七日仏事に行く。五条尼上の中陰も夢の如くに過ぎた。十五歳上の姉だった。「此ノ齢、猶向後ノ浮命ヲ期シ難シ。何ヲカ為サンヤ」。

3月10日

・定家(39)、終日蟄居して、『白氏文集』を握玩する。

3月12日

・定家(39)、八条殿に参ずると、良輔、俄に詩の沙汰を仰せられるので、退出出来ず、各々詩を書き出す。定家、破題を書く。「此ノ如キ事、極メテ見苦シ。但シ外人無シ。仍テ愁ニ供奉ス」。

3月13日

・定家(39)、式子の許に参上。後白河院忌日仏事。式子は、法然に帰依し信仰は深かったが、病悩のためのお祈りなどのことは嫌ったようである。純粋な信仰の人である。

3月15日

・定家、呼び出されて良経のもとに行く。検注使が、「一昨日小野ノ宿ニ於テ杲云(定家の荘園を管理する叡山の強僧)ノタメニ凌磔サレ、馬二匹ヲ取ラルルノ由」という。定家が家に帰ると、杲云が馬二匹を引いて手柄顔でいた。杲云は、「只全ク狼藉ヲ致サズ」、話し合いで馬二匹を貰ったものだと陳述。結局、この事件は誰かの讒言だったようで、「進退谷(きは)マル者ナリ」。

3月17日

・定家(39)、心神殊に不快。18日も病悩。

3月19日

・定家(39)、この日も終日病臥。

「佞臣凶女ノ讒言、雲霞ノ如シ」(『明月記』)

3月21日

・定家の子三名(為家)、水痘(へなも)に罹る。近日、世間の小児、此の事ありと。

3月22日

・雨が降って、「荒屋漏湿、林宇ニ異ラズ。事二於テ貧乏、生涯憑(たの)ム所無シ」(『明月記』)

3月23日

・定家(39)、嵯峨に行く。病気不快といえども、沐浴するためである。汰浴するの間、大いに発汗あり。心神なおはなはだ不快。

翌24日、帰洛。風病猶不快。心神はなはだ悩む。昨今、為家も発熟して悩む。

3月25日

・定家(39)、良経若君(道家)の着袴に参仕。

3月27日

・人の言に、女院(その所不明)蔵人、人妻を犯し、その本夫に斬り殺されたと。翌日になって、七条院蔵人保季(寂蓮の子)と判明。この男は、性格落居せずとの噂あり。門前市をなすという。本夫が先ず太刀をもって好夫を斬り、従者又寄りて打殺すと。親能人道の郎等が下手人と。この七条院蔵人を、定家は、大宮大納言が公卿勅使の時供奉するのを見たことがあり、容顔美麗の者であった。

29日、その武士も斬罪に処せられる。

「人云く、女院(その所を知らず)の蔵人人妻を犯すの間、本夫劔を抜き斬殺す。六條万里小路辺と。その子細を聞き披かず。」

28日「今夜聞く。昨日殺害せらるる物、この少輔入道の子若狭の前司(保季)と。この由忽ち風聞の事、更に左右に及ばず。この男の首服予本より甘心せざる事なり。惣てその性落去せざるの由聞く所なり。始終此の如し。言語同断、白昼武士の妻を犯すと。」

29日「今日聞く。若狭の前司保季が事必然なり。件の本夫(犯人)、定綱が子(左衛門の尉)の許に行き向かう。これ親能入道が郎等と。而るに件の入道従者(某入道)家礼の由を称しこれを請け取る。検非違使の手に渡さんと欲す。今日逸物の馬を馳せ逐電す。人追い得ずと。事尤も嗚呼か。保季が不奇左右に及ばずと雖も、諸院殿上以上の物白昼殺害す。また世間の重事か。言語道断のものなり。六條南・万里小路西、九條面平門の内にこれを斬り伏す。門前市を成し、観る物堵の如くと。着す所僅かに小袖ばかり、頸辺を覆いその身を顕わすと。本夫先ず太刀を以て数刀これを切る。従者また寄せ打ち殺すと。武士に於いてまた高名ならず。甚だ異様の事なり。日来見ず知らずと雖も、大宮大納言公卿勅使の時、供奉の為先年予の家中に入り来る。その時見る所なり。容顔美麗、潘安仁に異ならず。」。(「明月記」同日条)。

「佐々木左衛門の尉廣綱が飛脚京都より参着す。申して云く、去る月二十九日白昼六條万里小路に於いて、若狭の前司保季、掃部入道が郎等吉田右馬の允親清が妻を犯す。親清六波羅より帰るの処、この事有り。即ち太刀を取りこれを追い、六條南・万里小路西、九條面平門の内にこれを斬り伏す。その後彼の男廣綱が許に来たり。而るに摂路西、九條面平門の内にこれを斬り伏す。その後彼の男廣綱が許に来たり。而るに摂て、廷尉の方に渡さんと欲するの間、駿馬に策ち逐電しをはんぬ。仍ってその前途を尋ねるの刻、摂津権の守また行方を知らず。保季父少輔入道(寂蓮)訴え申すに就いて、頻りにその召し有り。定めて東国に遁れ下るかの由推察を廻らし、兼ねて以て言上すと。この保季、容顔華麗にして潘安仁に異ならず。斬殺せらるの時、僅かに着せしむ所の小袖頸辺を覆いその身を顕わす。観る者堵の如し。皆悲涙を拭うと。」(「吾妻鏡」4月8日条)。

「今日、掃部の頭廣元朝臣江間殿に申し送りて云く、去る月若狭の前司保季を殺害せしむるの男手を束ね来たり。何様に為すべきや。御意見に随って披露すべしと。御返事に云く、是非に付いて披露せらるべしと。江間の太郎主仰せられて云く、郎従の身として諸院宮昇殿の者を殺害す。武士に於いてまた指せる本意に非ず。白昼行う所罪科重きや。直に使の廰に召し進し、誅せらるべきものかと。守宮この事を聞き、感嘆落涙に及ぶと。」(「吾妻鏡」4月10日条)。

「廣元朝臣申す。彼の親清が罪名、善信が如き沙汰有り。降人として参向せしむるの上は、暫くこれを召し置き、事の由を使の廰に相触れられ、その落居有るべきの由定めらると。仍って今日廣綱が使者帰洛す。」 (「吾妻鏡」4月11日条)。

3月29日

「勝長寿院前の別当恵眼房阿闍梨入滅す。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月29日

・定家(39)、中宮任子の法性寺殿よりの還御に供奉


つづく

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