正治2(1200)年
閏2月1日
・定家(39)、良経邸に参上(良経家十題二十番撰歌合)。歌合あり。定家読み上げる。右方の歌ばかりである。次に、左右互に難ずべき由仰せられる。次に判者が評する。女房の歌、遅々として時刻を経、寒風堪え難く、遁れ去る。
「歌合ノ儀、頗ル興アルベシト雖モ、判者ノ体、次第ノ儀、頗ル詮ナキカ。予ノ韻五首撰ビ入レラル。 - 持三首。自愛スルニ及バズト雖モ、面目卜謂フベシ。人々ノ歌、惣テ今度之ヲ得ズ。皆悉ク誤レル歌ナリ。予モ又同前」
閏2月2日
・彼岸初日。尼御台所(政子)の御願として法華堂で法華懺法(せんぽう)。
閏2月2日
・今日より彼岸とて、定家(39)、写経の志あり嵯峨に行く。沐浴し髪を洗う。13日帰京
閏2月6日
・定家(39)、経房すでに薨去と。しかしたしかならず。
閏2月8日
・頼家、伊豆国藍沢(あいざわ)原で狩猟。射手60人が供をする。16日、鎌倉に戻る。
「羽林狩猟の為、伊豆の国藍澤原に渡御す。」。
16日「申の刻に羽林藍澤より御帰着。」。(「吾妻鏡」同日条)
閏2月8日
・兼実舎利講あり。定家(39)、馬鞦(しりがい)・貲・布・懐紙・箱・夏の扇を献ずる。杉の木を植える。
閏2月9日
・定家(39)、番匠を呼び、井戸の管を作らせる。
閏2月10日
・京より妻たちが来る。定家(39)、法華経を書き終える。、
閏2月11日
・藤原経房(59)没
閏2月11日
・定家(39)、無量寿経を書き終える。
閏2月12日
・定家(39)、普賢経を書き終える。経房、昨日一定入滅と。
「是レ猶末代ノ重臣ナリ。惜シムベン、惜シムベン」。式子はこのよき後見を失った。
閏2月13日
・政子、栄西に、寺院建立のため清浄結界の地として亀ケ谷の地を寄付。寿福寺を建立。
かつてこの地は、頼朝の父義朝が屋敷を構えていたが、平治の乱の義朝敗死後は、岡崎義実がその菩提を弔うべく草庵を結んでいた。
岡崎義実は、石橋山合戦で息子佐奈田与一義忠を亡くした忠節の武士であるが、この義実が、寿福寺造営開始の翌月、80歳を過ぎる老身をおして政子を訪問し、涙ながらに窮乏を訴える。政子は生計のための一所を施す。(『吾妻鏡』3月14日条)
閏2月13日
・定家(39)、嵯峨を出て京に入る。路次、式子に参向。この御所、穢を忌まれず。
閏2月16日
・定家(39)、式子の許に参向。
閏2月18日
・良経家作文。定家(39)不参加。
閏2月19日
・定家(39)、式子の許に参ず。
閏2月20日
・定家(39)、御堂例講に参仕
閏2月21日
・法性寺歌合。法性寺にて歌詩合の詩の作者は、良経・右中将・有家・以宗・長兼・為長・成信・信定・知範。歌人は、良経・季経・良輔・隆信・有家・定家・長兼・業清・信定。
「各々之ヲ披キ見ル。即チ諷吟ニ堪へズ。両方極メテ術無シ。暫ク御饌ニ入リオハシマス(能季朝臣・予等陪膳)。季経卿御前ニ召サレ、閑所ニ入レラル。能季卜又私(ひそか)ニ之ニ行ク。自余ノ人々、仰セニ依り、又各々ニ酒餅等差(すす)メ了ンヌ。晩頭ニ及ビ、雷鳴以後ニ詩ヲ献ズ。殿下之ヲ召シ取リ、結番シ御清書。信定又之ヲ給ヒテ書ス。 ー 予ガ和歌ハ、為長ガ詩ニ合セラル。一首持、一首負ク。詩ハ信定ガ歌ニ合セラル。一首勝チ、一首持。是レ存ズルノ外ナリ。詩ノ胸ノ句、
鳬鐘響き近し松風の夕 鳳輦蹤遺草露の春
座中、頗ル難無キノ由ヲ称フ。尤モ存ズルノ外トナス。歌ニ於テハ、異様(ことやう)ニ処セラレ了ンヌ。是レ叉何為(いかんせん)ヤ」
閏2月23日
・定家(39)、歓喜光院にて詠歌。
閏2月24日
・定家(39)、八条院三条の五七日仏事に行く。
閏2月25日
・定家(39)、良輔の許に参上すると、俄にして狂詩あり。狂詩とは、即興の作詩かと思われる。
閏2月28日
・良経来迎院作文歌会。兼実、大原に行く。良経は輿。定家・宗綱以下狩衣に騎馬。来迎院に行く。花まだ盛りならず。下の房にて酒饌あり。此の間ようやく詩の篇を終、参上する。良経は仰せて、詩序を書くから、定家は和歌の序を書けと。見苦しいと辞退するが、強いて仰せられる。昏に臨み、形の如くに読み上げられた後退下。兵部少輔と合宿。他の人皆、向いの房にあり、闌湯延年と。
閏2月29日
・良経、近辺の勝地を歴覧。来迎院の奥の滝をみて帰る。
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