2023年6月13日火曜日

〈藤原定家の時代390〉建仁3(1203)年11月14日~30日 俊成九十賀宴(『明月記』に記事なし) 「かたじけなき召しに候へば、這ふ這ふまゐりて、人目いかばかり見苦しくと思ひしに」(俊成) 東大寺落成総供養     

 


〈藤原定家の時代389〉建仁3(1203)年10月19日~11月13日 定家の兄成家従三位 山門騒擾などで世情不安、放火による火災頻発 頼家の子一幡(6)殺害 定家、眉の腫れに難渋 より続く

建仁3(1203)年

11月14日

・狩衣を着し、良経の許に参ず。今日、薄様を進められる。銀の柳筥を銀の土高器に据え、其の上に三十帳を置く。今年、薄様の過差、古今に見ず。五節の薄様である。(『明月記』)

11月15日

・鎌倉中の寺社奉行として義時(41)ら鶴岡宮を担当。

11月16日

・咳病術なしといえども、良経の御直盧人なきの由、その告げあり。よって直衣にて参入す。未の時許り、御供して、南殿を御覧ず。西の面に兀子(ごっし、腰掛)三脚を立つ、甚だ心を得ざる由、仰せらる。申の時許りに、主上・良経の女房四五十人、五節に入りおわします。近代この事あり。良経、下りおわします。又中納言殿の御覧に具し奉る。南殿の作法等多く訓え奉らせ給う。日入るの程に御退下。院より風流の櫛を進めらる。「金銀ノ過差、更ニ筆端ニ尽シ難シ」。日の入る以後に退出す。病を扶け、闕腋(けってき)を着け、帰参す。すなわち、参上せしめ給う。中将殿を引導し奉るべきの由仰せらる。蔵人頭、五節所を廻る。予、伴わず。予、中将殿に、内侍所の南の辺りに於て、前駈等候すべき由を申す。帰参するの間に、出でおわします。御前の内侍に付く。帰り出でて、靴を着け、中将殿に桙を奉る。御殿に入りて見物す。中納言中将殿、樹の間を経しめ給う。中将殿、御殿に入り、群集の中を過ぎしめ給う(良経の仰せによる)。公卿ようやく帰り来るの間、中将殿と相共に、美濃の五節所ばかりを、訪わしめ給う。左右なく、櫛を取り出してこれを進む。中納言簾の外に立ちながら、取らしめ給う(中将殿前に同じ)。退出してひそかに中門の方より御直廬に入る。中納言殿直衣を着きしめ拾う。中将殿御退出。私に御殿に入り、万歳楽をうかがいて聞く。舞終り、すでに御前召しを始めんとする音聞ゆ。よって密々に隠れて退出す。中納言殿鬼の間に於て御覧ずべしと。(『明月記』)

11月17日

・病を扶けて、春宮に参ず。いささか女房に櫛を志して退出し、良経の許に参ず。今日、院童女を御覧ずと。咳病術なし。(『明月記』)

11月18日

・巳の時、病を扶けて院に参ず。十二社奉幣の使となり、賀茂社に参る。心神悩み、前後不覚。(『明月記』)

11月19日

・実朝の「将軍代始め」の「善政」。

「関東御分国並びに相模・伊豆の国々の百姓に仰せ、当年乃貢の員数を減ぜらる。将軍御代始として、民戸を休せらるべき善政なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

その数日後には、小山朝政・和田義盛が扶助して馬場殿にて小笠懸(こがさがけ)を射る。

11月22日

「此ノ三ケ日、寒風殊ニ烈シ。沍寒(ごかん)堪ヘ難シ」

明日九十の賀の事、諸方より尋ね関わる。未だ次第を見ず。良経、今日院参、その評定ありと。(『明月記』)

11月20日「寒風惨烈」、21日「風寒シ」

11月23日

俊成九十賀宴、西園寺公経が琵琶を弾じる。

『明月記』にはこの日の俊成九十の賀の記事を欠いている。

『源家長日記』に賀宴の進行に関する記事があり、『建礼門院右京大夫集』にも賀宴に関連する記事がある。

「建仁三年の年霜月の二十日余り幾日のひやらむ、五條の三位入道俊成九十に滿つと聞かせおはしまして、院より賀たまはするに、贈物の法服の装束の袈裟に歌を書くべしとて、師光入道の女宮内卿の殿に歌は召されて、紫の糸にて院の仰せ事にておきて参らせたりし、

ながらへてけさぞうれしき老の波八千代をかけて君に仕へむ

とありしが、たまはりたらむ人の歌にては今少しよかりぬべく心のうちにおぼえしかども、そのままにおくべき事なればおきてしを、けさぞのぞの文字、仕へむのむの文字を、やとよとになるべかりけるとて、にはかにその夜になりて、二條殿へ參るべき由仰せ事とて、範光の中納言の車とてあれば、參りて、文字二つおき直して、やがて賀もゆかしくて夜もすがらさぶらひて見しに、昔の事おぼえて、いみじく道の面目なのめならずおぼえしかば、つとめて入道のもとへその由もうしつかはす。

君ぞなほけふより後もかぞふべき九のかへりの十のゆく末」(『建礼門院右京大夫集』)

(俊成が賜った法服に、宮内卿の歌を、建礼門院右京大夫が、紫の糸でぬいとりをした。この時、宮内卿の歌のうち、「けさぞ」の「ぞ」の文字、「仕へむ」の「む」の文字を、「や」と「よ」とに変えるべきと言うことになり、急にその夜になって、私に二条殿へ参るべき由仰せ事となって、範光の中納言の車を迎えに寄越し、それに乗って参りまして、文字二つを刺繍し直し、やがて祝賀会が始まり、御子左家の方々も懐かしくて、夜もすがら脇に控えて見ていた所、昔の俊成様や母の事などを思い出して、大変歌道一筋の面目は格別の事だと覚えましたので、次の早朝に入道様の元へその由申し上げました。)

建礼門院右京大夫は、書家としても琴の名手としても聞える藤原伊行の女で、母は笛の名手大神基政の女夕霧である。右京大夫もまた、琴と書をよくしたという。母夕霧は若い日、俊成の恋人であった。二人とも十代の頃であろうか。その縁でか、当時皇后宮右京大夫だった俊成の官名を、女房名として、高倉天皇の中宮建礼門院に仕えた。平資盛や藤原隆信との恋を経て、平家滅亡の後、後鳥羽院に出仕していた。俊成にとって、なつかしい人であった。

「けれども私としては、定家が事情あってか、何も書いていないのであるから、私も何も書かないことにしたい。ただ建礼門院右京大夫集中に、俊成からの手紙が引用されていて、「かたじけなき召しに候へば、這ふ這ふまゐりて、人目いかばかり見苦しくと思ひしに」とあり、まことに這うようにして参上した、その情景が目に見えるように思うとのみに、とどめておきたい。」(堀田善衛『定家明月記私抄』)

『明月記』に記載のない理由(堀田が暗に指摘すること)

この寒空に90歳になる父俊成を引きずり出したことへの反撥

11月24日

・病、不快により籠居。(『明月記』)

定家は父の晴儀に侍って、ほとほと疲れたらしい。

26日から宇治・奈良御幸供奉、12月1日帰洛した。病中、毎事散々であった。

11月25日

・定家、東大寺八幡奉幣使出立に参仕

11月26日

・定家、後鳥羽院の宇治御幸に参仕

11月27日

・定家、後鳥羽院の春日社御幸に参仕。~12月1日。

11月30日

・東大寺落成総供養。

定家、後鳥羽院の臨幸に供奉。

「平地、深泥トナル。(略)庭上池ノ如シ。(略)(泥、沓ニ入リテ、引キ出ス能ハズ)(略)大仏殿ニ入リテ、暫ク見物ス」(『明月記』)

金剛力士像などへの言及なし。


つづく


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