建仁3(1203)年
10月19日
・定家の冷泉宅近くで火事
巳の時許り、良経の許に参じ、御供して院に参ず。御供して九条殿に参ず。秉燭以後、束帯して一品宮に参ず。又出草を進む。戌の時許りに行啓。途中、高倉の未のあたり火事、騎馬して馳せ帰り、家に着くの間、向いの相公西棟の門、焼ける程なり。火焔熾烈。ただし、北の風甚だ利し、冥加というべし。門焼けたのみで、他所に移らず。此の間、御幸、巽の方の辻におわします。かたがた恥辱極まりなし。女房等車に乗せ、出し終る。火滅して、これを呼び返す。
今夜、四条坊門東洞院に於て、闘乱あり。路人流れ矢にあたり、高倉より馳せ来る。極めてもって怖畏。咫尺(しせき)の宿所なれば、門前いくぱくならずして殺害、実に驚奇するに足る。件の男、白者(しれもの)の聞え、涯分にあらず。ただし、国務の如き事、頗る器量ありと。(『明月記』)
10月20日
・昨日の近火により、蓬屋散々、片附けさせる。(『明月記』)
10月24日
・藤原定家の兄(俊成の長男)、成家、従三位に叙せらる。
10月24日
・院に参ず。良経、咳病殊に増しおわします。参内して帰っての後、御寝、ほとんどものを仰せられる事なく、人々嘆く。亥の時、左大弁参ずるの由申すの間、起き上がられる。いささか御食事、簾中の御所に入りおわします。(『明月記』)
10月25日
・山門僧徒の騒擾により俊成の九十賀を延引
亥の時許りに、南方火あり、神祇伯宅、惟義宅等焼亡す。(『明月記』)
10月27日
・時政、武蔵の御家人に忠勤を求む。
政所別当として武蔵国を権力の基盤にしようとする意識の現れ。その視線の先には武蔵国留守所惣検校職である畠山重忠の排除があった。
「武蔵の国諸家の輩(御家人)、遠州(時政)に対し貮(ふたごころ)を存すべからざるの旨、殊にこれを仰せ含めらる。左衛門の尉義盛奉行たりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
10月27日
・定家、後鳥羽院の千日御講開白、法勝寺大乗会(講師は兼実男良快)に参仕。
10月29日
・南の方に火事、久しく鎮まらず、家人の文義の宅焼亡。定家の車、修理すべきもの共に焼失。(『明月記』)
11月2日
・定家、八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕
11月3日
・頼家と比企能員の娘若狭局との子一幡(6)、北条義時が派遣した藤馬(とうま)に討たれる(「愚管抄」)。
「吾妻鏡」とは異なる。
十一月三日、「ツイニ一萬若ヲバ義時トリテヲキテ、藤馬ト云(う)郎等ニテサシコロサセテ、ウゾ(埋)ミテ」しまったという(『愚管抄』)。『武家年代記裏書』にも、「乳母これ(一幡)を懐抱して逃れ去るか」とあり、さらに 「十一月三日、義時の使い藤馬允、一万公を誅しおわんぬ」とあって、『愚管抄』の記述とほぼ一致する。
『吾妻鏡』では、9月3日、焼亡した小御所跡に赴いた大輔房源性が、乳母のことばに基づいて一幡の遺骨を拾い、高野山奥院に納めたという。
11月3日
・両三日の瞼の腫れ、殊に増加し、出で行かず。時成を招き、目に針を加う。夜に入り、白川・近衛の末に火あり。行き向うの間、清水谷の尼上の宅遠からず。門前に行き見舞う。ついで、故前斎院式子の女房の周防を問う。(『明月記』)
10月6日
・修善寺の頼家より政子に書状が届く。「深山ノ幽棲、今更徒然ヲ忍ビガタシ」と認め、かつての近習者の参入の許可と、安達景盛への「勘発」の所望の旨が書かれている。
「左金吾禅室、伊豆の国より御書を尼御台所並びに将軍家に進せらる。これ深山幽棲、今更徒然を忍び難し。日来召仕う所の近習の輩、参入を免されんと欲す。また安達右衛門の尉景盛に於いては、これを申請し、勘発を加うべきの旨これを載せらる。仍ってその沙汰あり。御所望の條々然るべからず。その上御書を通ぜらる事、向後停止せらるべきの趣、今日三浦兵衛の尉義村を以て御使いと為しこれを申し送らると。」(『吾妻鏡』同日条)
これらは幕府の沙汰として拒否され、三浦義村が伊豆に使者として派遣され、10日に戻り、政子に頼家の様子を報告。「尼御台所スコブル御悲歎」とある。
11月9日
・良経、二条殿を御覧ず。新造の如し。此の間、尊卑競い見る。善を尽し、美を尽す。(『明月記』)
11月10日
・後鳥羽院、修造なった二条殿に移徒
11月11日
・時成朝臣の宅に行き、眉熟を診せる。鹿の角をくだいて付けるべしと。(『明月記』)
11月12日
・眉の腫れ、なお鹿の角をつける。今日、「膿汁頗ル出ヅ」(『明月記』)
11月13日
・時成を招き、小針を加う。
「今夜、人数群集スルノ間、実ニ存知スル人無シ。当ルニ随ヒテ、奔(はし)リ寄ル。」(『明月記』)
つづく
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