2023年6月17日土曜日

〈藤原定家の時代394〉建仁4/元久元(1204)年2月12日~3月20日 定家、越中内侍から所望(昇進)叶い難いと聞き悲嘆 八条院姫宮(以仁王女)没 義時(42)従五位下相模守 山内首藤経俊が伊賀・伊勢の叛乱鎮圧に失敗したとの報告        

 


〈藤原定家の時代393〉建仁4/元久元(1204)年1月20日~2月10日 定家、預かった白拍子の処置に困惑する 「預ル所ノ白拍子ニ、隔テノ屏風ヲ立ツ」 定家、卿三位兼子の熊野詣に際し馬一匹を送る 鎌倉で謀反の噂 より続く

建仁4/元久元(1204)年

2月12日

・北条義時(42)、実朝に供奉して由比浜に向かう

2月12日

・定家、越中内侍を通じて上皇に昇進の希望を伝える。

良経の許に参じ、御供して院に参ず。夕に束帯して、院に参ず。越中の内侍に逢い、所望の事を示し付く。

歓喜光院に参ず。八条院、今夜密々に御幸、予、院司により参ずるなり。(『明月記』)

2月13日

・定家、亡母の忌日仏事

2月14日

・宇治の平等院にて、慈円の見参に入る。帰洛し、日高きにより、九条に入り、女院の御所に参ず。夜に入り、冷泉に帰る。(『明月記』)

2月15日

・定家、法性寺での故忠通仏事に参仕

「今日時親が沙汰として安部の有定を搦める(衣装を着るに及ばす搦め取り車に乗すと。関東虚言の同類に依ってなり)。」(『明月記』)

2月16日

・院に参ず。今日越中の内侍に逢い、所望の事を示し付く。(『明月記』)

2月19日

・定家、法性寺殿の八講に参仕

2月20日

・幕府、諸国荘園の所務などは頼朝の旧例によるよう下知(「吾妻鏡」同日条)。

2月20日

・「元久」に改元。

2月20日

・定家、越中内侍から所望叶い難いとの天気ありと聞き悲嘆

院に参ず。越中の内侍いう、所望の事当時叶い難き由、天気ありと。不運の身今にはじまらずといえども、衰老後栄を待ち難し。悲しみてあまりあり。(『明月記』)

2月22日

・風病不快にして、出仕せず。夜に入り、六角に向う。いささか示し合さるる事あり。(『明月記』)

2月23日

・定家、後鳥羽院の仁王経法結願に参仕

六条殿の宮、今日はじめて京極殿に入りおわします、殿上人前駐の由、一昨日催しあり、騎馬所労不参を申す。(『明月記』)

2月24日

・出で行かず。(『明月記』)

2月25日

・実朝、義時邸に渡る

2月25日

・定家、良経室の供で基房邸に参る

2月27日

・八条院姫宮(以仁王女、35、母は八条院三位の局)没

夕に聞く、八条院の姫宮と号するの人、此の巳巳の刻許りに入滅と。三十五歳。去々年出家と。日来の病気により、女院・一品宮他所におわします。遂に以て夭亡。多年養育するの間、諸人を駈け便わるるも、一事の要用なし。遂に以て終命。女院の御欺き、殊に甚だしと。この卒去の間、人口もっとも不便なり。女院かねて他所におわします。病又殊に重きを聞く事なし。卒爾たるの間、人疑いをなすか。この三ケ夜、赤気ありと。母儀、近日賀茂に参籠、重病を知られざる由と。(『明月記』)


3月2日

・定家、宜秋門院の日野よりの還御に供奉

3月4日

・定家、法華経を書写する。~15日。

3月6日

・実朝が右近衛少将に補任。

北条義時(42)、従五位下、相模守に叙任。源家以外では、父時政についで二人目という破格な立場。

3月6日

・定家、後鳥羽院の尊勝陀羅尼供養に参仕

3月9日

・京都守護・平賀朝雅(ともまさ、北条時政の後室の娘婿)より、守護の山内首藤経俊が伊賀・伊勢の叛乱鎮圧に失敗したとの報告が届く。

「武蔵の守朝雅が飛脚到着す。申して云く、去る□月□日、雅楽の助平惟基子孫等伊賀の国に起つ。中宮長司度光子息等伊勢の国に起つ。各々叛逆すと。彼の両国守護人山内首藤刑部の丞経俊子細を相尋ねるの処、左右無く合戦を企つ。経俊無勢に依って逃亡するの間、凶徒等二箇国を虜領し、鈴鹿関・八峯山等の道路を固む。仍って上洛の人無しと。」(「吾妻鏡」3月9日条)。

3月10日

・後鳥羽院、京都守護平賀朝雅に伊賀・伊勢の叛乱討伐を命じるとの報告が鎌倉に届く(「吾妻鏡」同日条)。22日、出陣。

「京都の飛脚帰洛す。謀叛人の事、彼の国に発向し、糾弾せしむべきの由、朝政に仰せらると。」(『吾妻鏡』同日条)

「密々河原に出て追討使を見る。二百騎ばかり発向す。その勢幾ばくならず。」(「明月記」同22日条)。

3月10日

・良経の許に参じ、御供して院に参ず。昨日、御咽喉すこぶる痛みおわします、他所に御幸なしと。今日、妻を日吉社に参詣せしむ。(『明月記』)

3月11日

・夜に入り、相公僧都法眼と相乗り、法勝寺に入りて花を見る。月朧々たり。正親町に行き、晩鐘に帰る。(『明月記』)

3月15日

・辰の時許りに、法華経の書写を終る。出仕の外、他事をなげうってこの功を終える。殊に思う所あり、この願を遂ぐるのみ。(『明月記』)

3月16日

・嵯峨に行く。(『明月記』)

3月17日

・髪を洗い、京に帰る。(『明月記』)

3月19日

・払暁、密々日吉社に参詣。夜に入り、夏堂に於て、新写経を供養し、八講を修す。通夜。(『明月記』)

3月20日

・巳の時許りに、宮廻り終って、京に帰る。(『明月記』)


つづく


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