2023年6月16日金曜日

〈藤原定家の時代393〉建仁4/元久元(1204)年1月20日~2月10日 定家、預かった白拍子の処置に困惑する 「預ル所ノ白拍子ニ、隔テノ屏風ヲ立ツ」 定家、卿三位兼子の熊野詣に際し馬一匹を送る 鎌倉で謀反の噂      

 


〈藤原定家の時代392〉建仁4/元久元(1204)年1月2日~19日 定家、病悩・病気不快続く 定家、昇進活動を始める 実朝の「読書始め」( 源仲章が侍読) 定家、オーロラを見る より続く

建仁4/元久元(1204)年

1月20日

・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕。~23日。この日、白拍子を預かる。

1月21日

・定家、あずかった白拍子の処置に困惑する。

風烈し。辰の時、京を出で、車に乗りて水無瀬殿に参ず(牛四匹)。未の時に参着す。播磨大路祖神の辺りより車を下り、騎馬して御所に参ず。競馬ありと。水駅より退出す。

「風甚ダ猛烈、終夜休(や)マズ。預ル所ノ白拍子ニ、隔テノ屏風ヲ立ツ。甚ダ無益ニ依ルナリ。」(『明月記』)

1月22日

・北条義時(42)、伊豆山から還向。

1月22日

・定家、卿三位兼子の熊野詣に際し、大社荘より到来した馬一匹を送る。

夜、霜雪の如し。巳の時許りに参上す。今日、遊女に衣を賜る。人々皆調えて進む、例の如し。多くはこれ二藍の薄衣。長者等五衣。昨日舎人男を以て、馬一匹、卿三品の局の熊野の精進屋に送る。件の馬、大社より到来する馬なり。(『明月記』)

1月23日

・早旦、御所に参ず。卿三位、熊野進発、院はこれを御覧のため、河向いに臨幸。午の時許りに退出して、京に帰る。九条に入り、今夜宿す。夜に入り、女院の御所に参ず。(『明月記』)

1月24日

・良経の許に参ず。今日、法成寺にて咒師(じゆし)を御覧ず。咒師三手の間、予座を起ちて退出す。寒風術なきによるなり。十三人の咒師皆ことごとく奔ると。(『明月記』)

1月25日

・髪を洗いて沐浴す。未の時許りに良経に参じ、女院の御所に参ず。(『明月記』)

1月26日

・早旦、あからさまに院還御と、殿中に其の聞えあり、しかし実なしと。

未の時、良経の御供して、法住寺最勝光院を歴覧。還御の後、久しく御前に催し、晩頭に退下。此の間、巷説にいう、水無瀬公卿以下闘諍の由、京中に沙汰ありと。又これ実なしと。(『明月記』)

1月27日

・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に供奉。~29日。

早旦京を出で、騎馬して水無瀬殿に参じ、直ちに御所に参ず。闘諍の事、更に其の実なしと。院、昨今御肩の辺り、いささか痛ましめ給う。しかし出でおわしますこと、例の如し。(『明月記』)

1月28日

・鎌倉で謀叛が起こり、時政は畠山重忠に敗れて山中に逃れ、広元はすでに殺害された。そのため広元の縁者が京中で騒動を起こした、との風聞が京都で流れる。後にデマと分かるが、根も葉もない全くの誤報なのか、あるいは武蔵国の有力武士である畠山重忠と北条時政の関係に関する何らかの情報に根拠を持つ風聞であったのか、真相は不明。しかし、結果的にこの風聞は、翌年の関東での政変(元久2年の畠山重忠の乱)に関する暗い予言として的中する。

「京より下人等来たり云く、関東乱逆。時政、庄司次郎(畠山重忠)が為に敗れ、山中に匿る。廣元すでに誅に伏す。この事に依って廣元が縁者等騒動す。京中迷惑し雑物を運ぶと。この事を聞き左金吾の宿所に向かう。」

1月29日

・定家、後鳥羽院庁下文に別当として署判

参上す。又あからさまに京に出づ。九条に在り。(『明月記』)

1月30日

・良経の許に参ず。終日、旧き申文を筆写す。かくの如き恩免を以て、わずかに近習の得分となす。院、今日片野に御狩なり。殊に新調の衣裳を摺らるると。(『明月記』)

2月2日

・早旦、良経、川原に出でおわします。神馬を献ぜらる。終日、御前に在り。権亮殿習礼。除目の申し文、これを撰して短冊を付く。夕に退出す。(『明月記』)

2月3日

・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に供奉。~7日。

2月8日

・定家、良経の供で平等院での後鳥羽院の大熾盛光法に参仕

良経の許に参ず。俄に仰せにより、能季朝臣と同車して宇治に参ず。平等院に於て、院の御祈あり。九条殿に還りおわしますの後、退下す。(『明月記』)

2月9日

・定家、宜秋門院の法性寺殿よりの還御に供奉

2月10日

・今日、院還御。今日行幸なり。障りあるにより供奉せず。(『明月記』)


つづく



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