2023年7月6日木曜日

〈藤原定家の時代413〉元久2(1205)年6月13日~27日 元久詩歌合 畠山重忠の乱 畠山重保、由比浜で三浦義村により誅殺。畠山重忠、二俣川で北条義時に滅ぼされる 時政と後妻牧の方(平賀朝雅)との謀略 

 

『芳年武者无類』より
『畠山庄司重忠』(1883年/明治16年)

〈藤原定家の時代412〉元久2(1205)年4月21日~5月28日 良経の詩歌合に後鳥羽院が参加を希望する 定家の南隣の家が松明をつけて乗り込んできた強盗団に襲われる より続く

元久2(1205)年

6月13日

・暑気堪えがたし。ひとえに病者の如し。日来籠居す。(『明月記』)

6月15日

・元久詩歌合(しいかあわせ、漢詩と和歌の歌合)

藤原良経が企画し、後鳥羽院の五辻御所で行われる。この前年に出家した鴨長明の花壇におけるほとんど最後の公的な行動。

経過は定家の明月記に詳しい。

4月29日に「参殿下、大僧正参給、頭弁伺候御前」とあり、良経邸で、良経、慈円、長兼の詩歌合の企画が持ち上がり、出題と歌人を定家に任され、題は「水郷春望」、「山路秋行」となった。

歌側は、慈円、良平、有家、定家、保季、家隆、雅経、具親、讃岐(欠席)、丹後

詩側は、良経、良輔、資実、親経、長兼、為長、宗業、成信、孝範、信定。

5月3日、後鳥羽院が参加を望み、良経の私的な催しが公的なものとなり、参加者も院側近などが加わり、

詩側は、在高、頼範、盛経、宗行、家宣、行長、宗親と不明者二人

歌側は、通光、蓮性、大納言局、行能、業清、長明、秀能、俊成女、家長そして後鳥羽院(親定という偽名を使って参加)

5月12日には良経によって結番も決まり6月15日に開催された。なお、この時定家は、蟄居と記載されており、当日は欠席したものと考えられている。

6月16日

・定家、文義に養育させていた子(出家して定円と称す、のちに定修と改名)を成円僧都の許に入室させる。

6月19日

畠山重忠(42)、北条時政から「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との命を受け、菅谷館(埼玉県比企郡)を出発。

6月20日

・夕方、畠山重保、稲毛重成に招かれ鎌倉に到着。

6月20日

・定家、病気の家人のために大土公祭(どくうさい)を修す。

6月21日

・北条義時(43)、畠山追討のことで時政と意見対立。

時政の後妻牧の方は、むすめ聟の平賀朝雅が、昨年京都で重保に意口されたことを根にもって、かねてから重忠父子を殺そうと、内々計画していた。時政が義時・時房を館に呼び重忠父子謀殺計画を打ち明る。しかし、二人は、重忠が頼朝から「後胤を護り奉るべき」の「慇懃の御詞」を賜ったばかりか、「御父子の礼」(時政の女婿)を重んじて比企氏との戦いでも味方についたのに、「何の憤りをもって叛逆を企」てることがあろうか、誤って殺害したならば後悔すると擁護し、時政の軽挙を諌めている。

その後、帰宅した義時のもとに、枚方の使者として大岡時親が派遣され、重忠の謀叛が発覚したこと、重忠の謀叛を未然に解決するためにも重忠を討伐する必要があること、そうしなかったならば、父時政を讒訴者にしてしまう、牧の方は貴殿の継母だからこれを軽んじるのだろうなどと話して、義時に去就をせまった。義時はこれに対して、「この上は、賢慮あるべし」とだけ答えたという。

「牧の御方朝雅(去年畠山の六郎の為悪口せらる)が讒訴を請け、欝胸せらるるの間、重忠父子を誅すべきの由内々計議有り。先ず遠州この事を相州並びに式部の丞時房主等に仰せらる。両客申されて云く、重忠は治承四年以来忠直を専らとするの間、右大将軍その志を覧給うに依って、後胤を護り奉るべきの旨、慇懃の御詞を遺さるる者なり。就中、金吾将軍の御方に候ずと雖も、能員合戦の時、御方に参りその忠を抽んづ。これ併しながら父子の礼(重忠は遠州聟なり)を重んずるが故なり。而るに今何の憤りを以て叛逆を企つべきや。もし度々の勲功を棄てられ、楚忽の誅戮を加えられば、定めて後悔に及ぶべし。犯否の真偽を糺すの後、その沙汰有るも停滞すべからざらんかと。遠州重ねて詞を出さず座を起たる。相州また退出し給う。備前の守時親牧の御方の使いとして、追って相州の御亭に参り申して云く、重忠謀叛の事すでに発覚す。仍って君の為世の為、事の由を遠州に漏らし申すの処、今貴殿の申さるるの趣、偏に重忠に相代わり、彼が奸曲を宥められんと欲す。これ継母の阿党を存じ、吾を讒者に処せられんが為かと。相州、この上は賢慮に在るべきの由これを申さると。(「吾妻鏡」21日条)。

6月22日

・畠山重忠の乱

時政、平賀朝雅の讒言を信じ畠山重忠・重保父子を殺害。

畠山重保、由比浜で三浦義村により誅殺。畠山重忠、二俣川で北条義時に滅ぼされる。足利三郎義氏・園田成朝、北条義時の軍勢に加わる(「吾妻鏡」)。 

22日、早朝から鎌倉中は大騒ぎ。将士たらが謀叛人を殺すのだといって由比ケ浜辺に向い、先を争って走っていく。そこで畠山重保も郎従3人を率い、由比ケ浜に向ったところ、三浦義村が時政の旨をうげ、佐久満太郎たちに重保をとりかこませた。重保はここで初めて謀叛人とは自分のことかと驚いたはず。奮戦するも多勢に無勢で主従ともに殺される。

そこに、重忠も鎌倉に来るという噂が伝わり、途中でこれを要撃することに決した。将士が皆これに従うと御所はがらあき同然となる。三善康信が大江広元に語っていうのには、朱雀天皇のとき、東国で平将門が坂乱をおこした時、京都では関を固め、上東門・上西門に扉をつけて警備を固めた、と。今度の重忠はもう鎌倉の近くまで来ているので、その用意をしなくてはなるまい、と。そこで時政は実朝の御前に祇候し、400人の壮士を召して御所の四面を固めることにした。

次に、義時が大将軍となって進発した。先陣は葛西清重、後陣は千葉常秀・大須賀胤信・相馬義胤ら千葉一族が務め、足利義氏・小山朝政以下の大軍がこれに従う。ついで大手の大将軍義時以下先陣葛西清重ら、また関戸を通る搦手の大将軍時房以下和田義盛らの大軍が出発した。前後の軍兵は雲霞のごとく、山に連なり野に満ちた。そして昼頃、武蔵の国二俣川で重忠と遭遇した。

重忠は19日に菅谷の館を出発し、二俣川に着いたところであった。おりから、弟の長野三郎重清は信濃国に、六郎重宗は奥州にいっていたため、従う者は、子の小次郎重秀・郎従本田次郎近常・榛沢(はんざわ)六郎成清以下134騎に過ぎなかった。重忠は、重保が今朝殺されたこと、追討軍が襲来することを、鶴ケ峯の麓、二俣川の畔で初めて知った。郎従の近常・成清は、討手の軍勢は大軍なので、菅谷の館に帰って、討手を待ちうけ合戦しようと言う。

しかし、重忠はここで戦うと決める。景時が一の宮の館をすてて京都に向い、途中で殺されたのは、一刻の生命を惜しむようで、いさざよくない。その上、景時は兼ねてから陰謀があったように思われた。そんなように思われるのは恥である。景時のことは後事の誡めとすべきであって、自分は景時のまねはしたくない、と決断を下した。

まず追討軍の先登は安達景盛の主従7騎。重忠は、景盛は弓馬放遊の旧友である、相手に不足はないぞ、重秀かかれ、と下知を加えた。激戦は4時間余に及んだという。恐らく追討軍は重忠に同情するところがあって、果敢な攻撃をしなかったと思える。『源平盛衰記』には、この時大串次郎が弓を平めて帰った、と書かれている。しかし遂に愛甲季隆の射た矢が重忠に命中し、重忠は首級をとられた。これを知った重秀以下も自殺し、ここに畠山一族は壊滅した。

また、翌日、重忠謀殺の一翼を担ったとして榛谷重朝、稲毛重成の一族が三浦義村のために殺害。

時政による有力御家人の排斥というよりも、武蔵国支配強化がその目的であった。

畠山重忠:

本拠は武蔵男衾郡畠山荘(埼玉県川本町)。父は畠山庄司(秩父)重能、母は三浦義明(大介)の娘。1180年(治承4)8月、源頼朝の挙兵時、平氏方について敵対するが、同年10月頼朝に降伏、鎌倉御家人となる。後、源義仲や平氏の追討、89年(文治5)の奥州藤原氏との合戦などでも活躍。

「寅の刻に鎌倉中驚遽す。軍兵由比の浜の辺に競走す。謀叛の輩を誅せらるべしと。これに依って畠山の六郎重保、郎従三人を具しその所に向かうの間、三浦平六兵衛の尉義村仰せを奉り、佐久間の太郎等を以て重保を相囲むの処、雌雄を争うと雖も、多勢を破ること能わず。主従共誅せらると。また畠山の次郎重忠参上の由風聞するの間、路次に於いて誅すべきの由その沙汰有り。相州已下進発せらる。軍兵悉く以てこれに従う。仍って御所中に祇候するの輩少し。・・・四百人の壮士を召し上げ御所の四面を固めらる。次いで軍兵等進発す。大手の大将軍は相州なり。先陣は葛西兵衛の尉清重、・・・前後の軍兵雲霞の如くして、山に列なり野に満つ。午の刻に各々武蔵の国二俣河に於いて重忠に相逢う。重忠去る十九日小衾郡菅谷の館を出て、今この駅に着くなり。折節舎弟長野の三郎重清信濃の国に在り。同弟六郎重宗奥州に在り。然る間相従うの輩、二男小次郎重秀・郎従本田の次郎近常・榛澤の六郎成清已下百三十四騎、鶴峯の麓に陣す。而るに重保今朝誅を蒙るの上、軍兵また襲来するの由、この所に於いてこれを聞く。近常・成清等云く、聞く如きは、討手幾千万騎を知らず。吾衆更に件の威勢に敵し難し。早く本所に退き帰り、討手を相待ち合戦を遂ぐべしと。

重忠云く、その儀然るべからず。・・・随って重保誅せらるの後、本所を顧みること能わず。去る正治の比、景時一宮の館を辞し、途中に於いて伏誅す。暫時の命を惜しむに似たり。且つまた兼ねて陰謀の企て有るに似たり。賢察を恥ずべきか。尤も後車の誡めを存ずべしと。爰に襲来の軍兵等、各々意を先陣に懸け、誉れを後代に貽さんと欲す。その中、安達籐九郎右衛門の尉景盛、野田の與一・・・等を引率しをはんぬ。主従七騎、先登に進み弓を取り鏑を挟む。重忠これを見て、この金吾は弓馬放遊の旧友なり。万人を抜き一陣に赴く。何ぞこれを感ぜざらんや。重秀彼に対し、命を軽んずべきの由下知を加う。仍って挑戦数反に及ぶ。加治の次郎宗季已下、多く以て重忠が為に誅せらる。凡そ弓箭の戦い、刀劔の諍い、刻を移すと雖もその勝負無きの処、申の斜めに及び、愛甲の三郎季隆が発つ所の箭、重忠(年四十二)の身に中たる。季隆即ち彼の首を取り相州の陣に献る。その後、小次郎重秀(年二十三、母は右衛門の尉遠元女)並びに郎従等自殺するの間、縡無為に属くと。」(「吾妻鏡」22日条)。

6月22日

・義時の室(伊賀守朝光女)男子平産(政村)

6月23日

・定家、不食病により服薬

6月23日

・午後2時頃、義時以下の軍勢が鎌倉に引上げてきた。義時は、重忠の手勢は僅か百余騎だったので、謀反を企てたなどということはない、重忠は無実の讒言で殺されたので、はなはだ気の毒だ、と言う。その首を見たら、年来一緒に過ごしたことなどが思い出されて、涙をとどめかねた、と言ったので、時政は黙ってしまったという。

この日午後6時頃、三浦義村が榛谷重朝とその子重季・秀重を謀殺、さらに稲毛重成も大河戸三郎のために討たれ、その子小沢重政も宇佐美与一によって討たれた。

「未の刻、相州已下鎌倉に帰参せらる。遠州戦場の事を尋ね申さる。相州申されて云く、重忠弟・親類大略以て他所に在り。戦場に相従うの者、僅かに百余輩なり。然れば謀反を企てる事すでに虚誕たり。若くは讒訴に依って誅戮に逢うか。太だ以て不便なり。斬首を陣頭に持ち来る。これを見て年来合眼の昵みを忘れず、悲涙禁じ難しと。遠州仰せらるの旨無しと。」(「吾妻鏡」23日条)。

「畠山の次郎重忠、二俣河に於いてこれを誅せらる。重忠は時政前妻の聟なり。朝政は後妻の聟なり。当妻の奸曲に依って、重忠並びに一族誅せらる。」(「北條九代記」)。

『吾妻鏡』による事件の説明(稲毛重成が主犯)

今度の合戦の起こりは全く重成の謀略であった。平賀朝雅は畠山重忠に遺恨があり、その一族が叛逆を企んでいると、しきりに時政の妻の牧の方に讒言したので、時政が密かに重成に相談したので、重成は親類のよしみにそむき、鎌倉に変事が起こったと手紙でいってやったので、重忠が出てきて途中で非業の死をとげた。みな重忠の死を悲しんだ、という。

6月26日

・関東諸国の守護が行う検断、地頭の所務など、「先規に任せて、厳密の沙汰」を致すように仰せ出されたが、『吾妻鏡』はその主体を記述していない。

6月26日

・風聞によると、昨夕、医師の時成横災に逢い、刃傷されたと、驚き少なからず。(『明月記』)

6月27日

忠弘を以て、時成を見舞う。弟の定康に逢って始終を聞くと、小沐浴の後、休息していると、犬の噛み合う音がした。小童青侍等が、犬を持つと、東隣で、中少将三品等が集会していて、家侍等が出て来て、この犬の事により、闘諍。小冠の腰刀を奪い、蹂躙凌礫したので、小男の父が出る。少将伊時、銀の剣をもち、侍従親通剣を帯す。伊時の弟の法眼某が太刀を抜き、是非を論ぜず乱入したので、時成は、この事を謝するため出て行ったところ、是非に及ばず、その顔を切られたという事だった。正四位下は道の長者、刃傷に及ぶ、悲しむべき世なり。(『明月記』)



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