元久2(1205)年
4月21日
・今日あからさまに、京へ還御と。明日、賀茂の祭を御覧のためである。この御所に候すべしとのこと、午の時許りに雨を凌いで参上す。未の時許りに御幸、申の時許りに退下す。(『明月記』)
4月23日
・後鳥羽院水無瀬御幸。~5月7日。
4月25日
・参上す。新古今を取り出さる。按察・公通の歌、七首を切り入る。今日、鞠の懸木を切らる。御覧じめぐらして、数本切らる。未の時許りに京を出て、九条に帰る。(『明月記』)
4月27日
・藤原良経、太政大臣辞任
4月29日
・定家、良経邸で詩歌合の計画を聞き、書状で作者たちに知らせる。
良経の許に参ず。慈円御坐す。頭弁、同じく伺候。終日雑談す。御作の賦二首を取り出さる。羈旅一首。殷の高宗伝説を得。頭弁、又隠逸の賦を作り、これを取り出す。このついでに、又詩歌を合せらるべき由、議定せらる。出題し、歌人を催すべきの由、仰せをこうむりて退出す。この事すこぶる無益の事なり。書状を以て少々触れ送る。歌人、慈円・宰相中将・有家・定家・保季・家隆・雅経・具親・讃岐・丹後。詩人、良経・大納言・中納言・長兼・為長・宗業・威信・孝範・信定なり。(『明月記』)
4月30日
・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕。~5月4日。
早旦京を出で、水無瀬殿に参ず。毎事日来の如し。渚の院での御狩、雨のため中止。(『明月記』)
5月3日
・良経の詩歌合のことを聞き、後鳥羽院も参加したいと仰せあり。
詩歌合のこと、叡聞に達し、詠じ試むべきの由、御気色あるの由家長語る。よって内々にこの事を申す。家長もまた所望の気あり。同じく申し上げる。(『明月記』)
5月3日
「世上の物騒頗る静謐す。群参の御家人等、仰せに依って大半帰国に及ぶと。」。(「吾妻鏡」同日条)。
5月4日
・詩歌合の打ち合わせ。『新古今集』に慈円の歌1首桐入れる。
この日の夜、定家の家の南隣の忠綱の家が強盗団に襲われた。
「騒動ノ音有リ。雲雷ノ如シ。周章驚恐ス。即チ強盗ナリ。松明、中ノ檜垣ニ照燿ス。其ノ響キ、只杖ノ如キヲ以テ板敷ヲ突クカ」 「(忠綱は留守で)只従者許リ留守ノ間、任意ニ取ラレ了ンヌト云々」(『明月記』)
(夜陰に紛れてというのではなく、堂々と松明をつけて乗り込んできた。どうやら忠綱の家にいる女が手引きしていたらしかった。犯人は6日に捕縛された。主殿允某とその子の二人の武士身分の親子強盗であった。当時の治安状況はこの程度であった。)
5月8日
・定家、日野に参り兼実に面謁
5月10日
・家長来訪。良経の詩歌合、院の御所に於て合せらるべきの処、詩は御所に於て末だ講ぜられず。よって五月を忌まれ、延引したという。(『明月記』)
5月12日
・夕、良経の許に参ず。詩歌合せの事、大略番いを結ぶ。予御結びをなすべきの由、仰せらるるといえども、長兼先度家隆に合う。今度しかるべからざるの由申すと。慈円、又資実に合すべきの由、御望みと。よって家隆を良経の御作に合すべきの由、申す。お許しあり。予、なまじいに長兼に合う。今度の歌、殊に風情を得ず。定めて見苦しきか。夜に入りて退出す。(『明月記』)
5月13日
・巳の時許りに嵯峨に行き、文義の沙汰する地蔵講を修し、宿す。(『明月記』)
5月14日
・法輪寺に参ず。帰って、(嵯峨にて)阿弥陀講を修す。(『明月記』)
5月22日
・後鳥羽院水無瀬御幸。~6月3日。
5月23日
・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕。~28日(26日一時帰京)。
5月28日
・院の水無瀬殿の留守に参ず。御所の人々いう、昨日片野の狩で御落馬、ただし無為と。(『明月記』)
つづき
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