2023年7月10日月曜日

〈藤原定家の時代417〉元久2(1205)年10月2日~11月30日 延暦寺諸堂焼失 「大略放火か。」(「明月記」) 藤原実宗(定家の妻の父)内大臣 定家の娘(因子)、後鳥羽院に出仕(女房として仕える)、のち民部卿局   

 


〈藤原定家の時代416〉元久2(1205)年8月1日~9月30日 宇都宮頼綱謀叛の風聞(頼綱は陳状を義時に提出、出家、髻を義時に献上) 定家の和歌の弟子が「新古今」を筆写し鎌倉に下着 より続く

元久2(1205)年

10月2日

・延暦寺諸堂焼失

「申の時ばかりに巷説、天台山の諸堂焼亡す。堂衆を安堵せしむべきの由宣下有るに依って、学徒構う所と。後聞。中堂纔に残る。大略放火か。堂衆・学生の所為両知らずと。焼亡の所、法華堂・常行堂・講堂・四王院・延命院・鐘楼・御佛院・新造院・文楼・五大堂・宝蔵二宇・彼岸所・桜本房・円融房・極楽房なり。」(「明月記」同日条)。

10月8日

・定家、具親・雅経・宗宣・清範・秀能・宗円らと嵯峨草庵で酒宴、詠歌。

中御門に入り、御造作を見る。清範を相伴い西郊に赴くべき由、一昨日相示す。よって雅経を尋ぬ。左近を待つ間、返答す。よって先ず具親の許に向い、相乗りて法輪寺に詣ず。一時許りの後、雅経・宗宣・清範・秀能来りて加わる。宗円法眼存外に会合。題を出すの間、夕陽すでに没す。相共に定家の嵯峨の山荘に入り、いささか酒饌を出す。形の如くに詠歌し終る。月に乗じて騎馬し、京に帰る。今度は秋の紅葉狩の清遊である。(『明月記』)"

10月10日

「駿河の前司季時京都守護の為上洛す。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月10日

・京極殿に参ず。良経、早旦に渡りおわします。卿三品参入す。終日御覧じめぐらす。申の時許りに退出。夜に入り、密々に妻を相具し、彼の御所を見る。明旦御移徒の間毎事すでに奇を成す。妻を連れて、良経の新造の京極殿を見せる。(『明月記』)

10月11日

・亥の時許りに、洞院の面に出て、良経の移徒の行装を見物。(『明月記』)

10月24日

・良経の許に参ず。来月三日、初の詩歌幷に糸竹の事あるべしと。外人に及ぶと。(『明月記』)

10月25日

藤原俊成の一周忌法要

未の時許りに、両女房を相具して、法性寺に向う。俊成の法事である。延寿御前・成家等。静快律師を以て導師となし、真言を供養。(『明月記』)

10月26日

・除服(父俊成の喪)

暁更、二条大路に出て禊。除服。祓い終りて家に帰る。天未だ明けず。(『明月記』)


11月3日

・藤原定家の娘(因子)、祖母(妻の母)と共に七条院(後鳥羽院母、8日に出家)へ行き、初笄(ういこうがい)に使う毛髪を所望し、頂けることになった。

この日、良経家にて三度の会あり。定家は不参。

11月8日

・定家、越中内侍(後鳥羽院女房)と相談し、因子の後鳥羽院への初参を翌9日と決める。

10月9日

・定家の娘(因子)の後鳥羽院への初参。

定家は供人などを皆呼び出し、牛童などの装束も整えた上、因子を院御所に出立させているが、祖母は出立前に知り合いの女房(建春門院新大夫・頼実三位妻)の局に参り、色々と段取りを整えている。その上で因子は、この祖母に伴われて院御所に参り、女房たちに挨拶を済ませた後、裳着を行なっている。

暁鐘の程に出で立ち、因子をはじめて出仕させる。これより先、尼上(祖母)、密々知音の女房の局に参じられる。予、身憚りあるの上、榻を持つために、右大弁の車を借りる。牛童は、予の童を使う。参入す。御寝以後と。女房達、各々に挨拶する。「坊門殿(斎院の御母儀)、尼上の語り申すにより、裳の腰を結ばる(初めて之を着く)」。程なく退出し、帰り来る。時に鶏鳴くの後なり。(『明月記』)

坊門殿とは、藤原(坊門)信清(のぶきよ)女で後鳥羽院の寵を受け、皇子(遵助法親王)・皇女(賀茂斎院礼子内親王)を産んだ女性で、後鳥羽院の母七条院殖子の姪にあたる。殖子は、はじめ建春門院の女房をつとめて兵衛督(ひょうえのかみ)と呼ばれていたが、高倉天皇の寵を受け、後高倉院や後鳥羽院を産んだ。

因子の祖母は、新中納言と呼ばれ高倉院の女房として近侍し、祖母の知人も建春門院女房であったから、この三人はその頃からの知人とみられ、その緑で因子の裳着を坊門殿に頼んだのであろう。七条院と坊門殿は、共に後鳥羽院の親族で院と深い関わりのある女性であったから、因子の後鳥羽院への出仕もこれらの緑によって実現したとみられる。

このように、因子の出仕にこの祖母が果した役割は大きく、それは恐らく、定家夫妻が期待した以上のものであったろう。女房経験のない定家の妻にとって、母の存在は心強い限りであったろうし、因子にとっても女房勤めをする上で、相馬のアドバイスが役に立ったに違いない。

10月17日

・定家の妻の父藤原実宗、内大臣に任じられる。

定家は「感悦の至り、何事かこれに如(し)かんや(中略)、閑院の余慶実に天の然らしむるか」と喜ぶ。

10月22日

・後鳥羽上皇御所の高陽院が竣工し、上皇の遷御を前に安鎮法が修されることとなり、前大僧正・慈円がこの日、これの導師を勤めた。権少僧都・忠快は伴僧の一人としてこの法会に加わり、その次第を詳記した『安鎮法日記』を草した。都には高僧たちの数も多く、忠快僧都は上皇から名指して招じられるまでには至っていなかった。

10月22日

・定家の娘(因子)、初めて後鳥羽院に見参、女房として仕えるようになる。翌建永元年1206年7月17日「民部卿」の名が定まる(民部卿局)。

因子を院に参ぜしむ。尼上具せらる。今日、見参に入る。櫛棚等を賜りて退出す。

10月25日

・定家、為家を内大臣になった祖父実宗の許に参らせる。

10月29日

・定家、良経に三位昇叙を申し請う

10月30日

・除目にて、家司忠弘、右衛門尉に任ぜられる。(『明月記』)


つづく

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