2023年7月9日日曜日

〈藤原定家の時代416〉元久2(1205)年8月1日~9月30日 宇都宮頼綱謀叛の風聞(頼綱は陳状を義時に提出、出家、髻を義時に献上) 定家の和歌の弟子が「新古今」を筆写し鎌倉に下着 

 


〈藤原定家の時代415〉元久2(1205)年閏7月3日~29日 後鳥羽院の宇治新御所、放火で焼失 牧の方事件(時政・後妻牧の方による娘婿平賀朝雅の将軍擁立陰謀) 時政失脚(落飾・修善寺追放) 平賀朝雅の乱で京中騒動 より続く

元久2(1205)年

8月1日

・大神式賢、門弟となる。

笛師大神式賢、経通中将の紹介の文を持って入来。これ和歌を好むによるなり。相逢う。好道の志、至って深しと。式賢は、経通の笛の師である。(『明月記』)

8月2日

・咳病不快といえども、相扶けて良経の許に参ず。先ず高陽院を御覧ず。御供して京極殿に参ずるの間、俄に女房の書状あり、院に参ぜしめ給う。申の時許りに、通具、召しある仰せを伝う。すなわち馳せ参ず。新古今の歌、数十首を出す。経師を求めて切り出し終る。戌の時許りに、神泉苑より還御。進上す。又入るべき歌等を下され、切り入るべしといえり。夜ようやく更けたので、家長等、明日参ずべき由、相示す。よって退出。(『明月記』)

8月3日

・辰の時、院に参ず。家長等見ず。午の時に適々出で来る。有家と歌を切り入れ終って、退出す。心神殊に悩む。(『明月記』)

8月4日

・心神悩みて倒れ伏す。咳病の上、身体の節々甚だ痛し。(『明月記』)

8月5日

・夜に入りて式賢来る。病を扶けて逢う。予、清濁の音をしらずといえども、その道に長ずるの者を重んずるにより、来る毎に必ずこの人に逢う。(『明月記』)

8月7日

・下野国の有力御家人宇都宮頼綱謀叛の風聞

義時・広元・安達景盛、政子邸に集まって対応協議、下野国の守護小山朝政に追討を命じる。

しかし、朝政は頼綱との「外(叔)家の好み」(何らかの姻戚関係)を理由に固辞。

11日、頼綱は陳状(弁明書)を義時に提出(広元経由で提出しなかった)。

16日、頼綱は、郎従60余人とともに出家

19日、結城朝光を通じて髻(もとどり)を義時に献上し陳謝。義時が幕府の最高権力者と認めていたことを意味する。

頼綱は、時政と牧方の娘と結婚し、嫡子泰綱が誕生していた。更に、畠山重忠謀殺に関連して殺害された稲毛重成の娘とも婚姻関係にあり、時綱・頼業・宗朝が生まれていた。これらが、義時の疑惑をもたらしたと推測できる。

宇都宮頼綱:

藤原道兼の末裔、下野国の豪族宇都宮氏の出身。成綱の子。母は新院蔵人長盛女。子には頼業・泰綱のほか、藤原為家室となる娘。文治5年(1189)、源頼朝の奥州征伐に参加。建久5年(1194)、祖父朝綱の公田掠領の罪に連座、豊後に配流、間もなく許される。後、北条時政女(母は牧の方)を妻とする。元久2年(1205)、北条義時の下で畠山重忠を討つ。同年8月、舅・北条時政と牧氏の陰謀に加担したとして誅伐を命じられるが直ちに出家、鎌倉にのぼり異心無きことを証し一命を得る。実信房蓮生と号し法然の弟子となり、のち証空に師事。建保2年(1214)、莫大な財力を以て園城寺の修造に寄与。承久・嘉禎頃(1219~1238)、伊予守護職に補される。後半生は京都に住むことが多く、京錦小路と嵯峨小倉山の邸宅で風雅の暮らしを送る。文暦2年(1235)5月、藤原定家を嵯峨中院山荘に招き連歌会をひらく。この頃定家に古今の歌人の色紙染筆を依頼、これが小倉百人一首のもととなったとも言われる。北条泰時とも和歌を贈答するなど親交。正嘉元年(1257)、80歳を祝う屏風歌には婿・為家らが歌を献じる。正元元年(1259)11月12日、没(82)。

「宇都宮の彌三郎頼綱が謀叛発覚す。すでに一族並びに郎従等を引率し、鎌倉に参らんと擬すの由風聞有るに依って、相州・廣元朝臣・景盛等、尼御台所の御亭に参り、評議有り。事訖わり小山左衛門の尉朝政(・・・)を召す。朝政参上し、相州の御座に対し蹲踞す。廣元仰せを奉りて云く、近日諸人の狼唳相続せしめ、東関静謐ならず。その慎みこれ重きの処、頼綱また奸曲を巧み、将軍家を謀り奉らんと欲すと。而るに朝政が曩祖秀郷朝臣将門を追討し勧賞に預かる。以来下州を護り、その職未だ中絶せず。国内(宇都宮)の驕奢、爭かこれを鎮めざらんや。随って去る寿永二年、志田三郎先生が蜂起を対治するの間、都鄙動感す。仍って賞を行わるるの間、御下文の旨趣厳密なり。これ武芸の眉目なり。然らばまた頼綱が驕りを退くべしてえり。朝政申して云く、頼綱は外家の好有り。縦え厳命に応じその昵みを変ずと雖も、忽ち追討使を奉ること芳情無からんや。他人に仰せらるべきか。但し朝政叛逆に與同せず。防戦に於いては、筋力を尽すべきの由これを辞し申す。」(「吾妻鏡」7日条)。

8月8日

・病後、沐浴す。(『明月記』)

8月13日

・水無瀬殿修理終わり、後鳥羽院の御幸あり

8月13日

・籠居。(『明月記』)

8月15日

・暁、月蝕。(『明月記』)

8月22日

・午の時許りに、時成朝臣来る。妻灸点を加う。小牛を与える。(『明月記』)

8月23日

・健御前を具し、冷泉に帰る。(『明月記』)

8月25日

・九条殿に参ず。良経の御供して中御門に参ず。今日、松の木を植えらる。(『明月記』)

8月26日

・慈円の許に参じ、見参の後、夕に退出。(『明月記』)

8月29日

・今日。八十島祭のため、典侍発向。(『明月記』)


9月2日

・京都から内藤朝親(定家の和歌の弟子)が鎌倉着、後鳥羽上皇の命に基づいて撰集されたばかりの『新古今和歌集』がもたらされる。3月に撰進、4月に上皇に奏覧された。父頼朝の歌が選ばれたことを知った実朝が、朝親に命じて筆写させたもの。これを契機に実朝は和歌を本格的に学ぶ。

「内籐兵衛の尉朝親京都より下着す。新古今和歌集を持参す。これ通具・有家・定家・家隆・雅経等の朝臣勅定を奉り、和歌所に於いて去る三月十六日これを選進す。同四月奏覧す。未だ竟宴を行われず。また披露の儀無し。而るに将軍家和語を好ましめ給うの上、故右大将軍の御詠、撰び入れらるるの由聞こし食すに就いて、頻りに御覧の志有りと雖も、態と尋ね申さるに及ばず。而るに朝親適々定家朝臣に属き当道を嗜む。即ちこの集の作者(読人知らず)に列なるの間、計略を廻らし書き進(まゐ)らすべきの由仰せ含めらるの処、朝雅・重忠等が事に依って、都鄙静かならざる故、今に遅引すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

9月10日

・定家、俊成の家集を帰してきた家隆と和歌を贈答。

9月19日

・後鳥羽院、熊野御幸。~10月11日。

9月20日

・桐の木を掘り、中御門の良経に贈る。車二両を以て運ぶ。(『明月記』)

9月21日

・定家、宜秋門院の仏事に参仕。

清家(光家)と共に八条院の仏寺に参仕。

9月23日

・早旦、東山に行き、桜の木を掘りて、良経の京極殿に植える。良経出でおわします。(『明月記』)

9月29日

・今日又桜一本、良経の京極殿に献ず。(『明月記』)

9月30日

・朝、行水の間たちまちに違背し、苦痛。(『明月記』)


つづく


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