2023年9月11日月曜日

〈100年前の世界060〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑫ 〈1100の証言;江東区/旧羅漢寺、砂町・州崎、深川、品川区/荏原・戸越、大井町・蛇窪、品川・北品川・大崎〉 「朝鮮人と見ればやたらにつかまえて、それに髪の毛の長い連中、これは主義者で私どもの労働組合の中にもいてやはり被害をこうむって殺されていますが、それと平素から警察に反抗的な人間など、これらを羅漢寺の墓地へつれて行きまして、そこで自警団の連中が竹槍または刀で惨殺したのです。」     

 

『総特集 関東大震災100年』(『現代思想』9月臨時増刊号)

〈100年前の世界059〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑪ 〈1100の証言;江東区〉 「境橋近くのガラス屋で15、6人の朝鮮人を使っている。.....社長は 「朝鮮人はいるけど、この人たちは決して悪いことはしないんだから、なんとか助けてくれ」と言う。.....15、6人全員、縄でしばってまん中に乗せて青年団がまわりをずっとかこんで亀戸警察につれて行きました。.....じつはあの朝鮮人たちは小松川の荒川土手に連れて行かれて軍隊が機関銃で撃ったらしいと言う。」 より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺⑫

〈1100の証言;江東区/旧羅漢寺〉

内田良平〔政治活動家〕

2日午後3時半頃大島町の五百羅漢に於て鮮人8名捕えられ何れも自警団員の為めに殴打せられ瀕死の状態なりし〔略〕。

(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)


戸沢仁三郎〔社会運動家、生協運動家〕

1日の晩には早くも、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいるという噂と、社会主義者が朝鮮人などを使嗾(しそう)して暴動を起こそうとしている、あるいは起こしつつあるという噂が迅速に広がったのですね。最も被害のひどかったのは、大島町に密集していた朝鮮人の人たちで、もう2日にはいわゆる朝鮮人狩りが始まったのです。

朝鮮人と見ればやたらにつかまえて、それに髪の毛の長い連中、これは主義者で私どもの労働組合の中にもいてやはり被害をこうむって殺されていますが、それと平素から警察に反抗的な人間など、これらを羅漢寺の墓地へつれて行きまして、そこで自警団の連中が竹槍または刀で惨殺したのです。

(「純労・南葛労働会および亀戸事件旧友会聞き取り(4)」『労働運動史研究」1963年5月号、労働旬報社)

〈1100の証言;江東区/砂町・州崎〉

飯田長之助

2、3日たって少し落ち着くと、商売のほうが心配になって、〔本郷から〕州崎の養魚場を見に行った。その途中の道に、朝鮮人らしい死体がゴロゴロしている。震災で死んだのは黒こげになっているが、暴行されて死んだのは、皮膚が生っ白いから一目でわかるんだ。ひでエのは、半分焼け残った電柱に朝鮮人がしばられていて、そのかたわらに”不逞鮮人なり。なぐるなり、けるなり、どうぞ”と書いた立て札があって、コン棒までおいてある。そいつァ顔中血だらけになっていたが、それでも足けりにしたり、ツバを吐きかけていくものがいてねエ・・・。

その後、江戸川をこえて、いまの浦安橋のたもとへ米をとりに行った。浦安の渡し場(当時はボンボン蒸気が唯一の交通機関で、もちろん橋もなかった)では、サシコを着込んだ消防団の連中が主になって自警団をつくり、そいつらが、ボンボン蒸気からおりてくるヤツにあやしい人間がいないか調べまわっていた。

そこへたまたま、日本人の奥さんをもった実直な商人でとおっている近隣の朝鮮人がおりできた。すると、皆で「朝鮮人だ」とワッと寄っていった。

男は「私の妻は日本人だ。ぼくは何も悪いことしない。頼むから、助けてくれ」と必死の形相で哀願している。団の責任者も「この人はだいじょうぶだ。やめろ」ととめていたが、なんせ気が立っている連中のこと、聞く耳がない。黄任者のことばが終らねエうちに、鳶口が三、四つ男の頭の上にぶり落ちる。次の瞬間には、長い竹ヤリが、腹をブスッとつらぬく。

男は、ものすごい顔で苦しみもだえながら、なんとか逃れようとしていたが、左右前後からヤリで突かれ、あげくは川の中へドブンと放り込まれてしまいましたよ。

[略]その後も夜の渡し船で、朝鮮人が五〇人くらい襲ってくるというウワサが出て、渡しが着いたとたん、四、五人に切りつけ、川の中に落としてしまった。もちろん、朝鮮人なんか乗ってなくて、殺されたのは日本人ばかり。ひどいウワサがあったものだ。

江戸川を毎日、三、四人の死体が針金の八番線でじゅずつなぎになって流れてきた。みな朝鮮人が殺されたんだ。(談)

(『潮』1971年6月号、潮出版社)


伊藤国太郎〔当時12歳〕

翌日〔9月2日〕の昼頃には、もう家〔砂町の警察・小学校・役場へ行く道と火葬場へ行く道のT字路の角から2軒目〕のそばの十字路の所に憲兵が立っていまして、昔は”剣付き鉄砲”といいましたが、鉄砲の先に剣がついたものを持っていました。

その夜でしたか、朝鮮人が井戸に毒を投げた、社会主義者が謀反を起こした、という大人たちの声を聞いたわけです。あっちもこっちも大人連中が集まれば、そういう話でもちきりでした。

〔略〕2日か3日の夜です。朝鮮人が井戸へ毒を投げた、というので、みんな喧喧囂囂(けんけんごうごう)としていて、夕方になると血気な者が竹槍を持ったり、それぞれ木刀を持ってきたり、武装して、朝鮮人を見つけろ、というわけで探しているわけです。はす田といって、はすの葉がうんと繁っている田がたくさんあったんです。少し風でそよいではすの葉がゆれると、「ほら、いた」と追いかけるわけです。でも、いないんですね。私なんかも竹槍持たされて「お前も男だからついてこい」といわれ、後からおそるおそるついていきました。だけど、だれもつかまえたことはなかったですよ。

〔略〕そこの〔役場の隣の砂町〕尋常小学校の校庭に、道路に向かってみんな後ろ手にしばられて、距離としたら6尺から9尺ぐらい離れて坐らされています。もう死んでいる、殺されている人もいるわけです。校舎ほとんど全体、6教室から7教室の長さですから、おそらく20人ぐらいいたんじゃないですか。

ある者は浴衣がげで肌ぬぎになってさらしを巻いていた人という記憶がありますね。素人の人でしたらさらしの腹巻というものを巻かないわけです。やくざとはいわないまでも、そういった類の人ではないかと思うんですよ。あと小頭、赤っぽい印半纏(しるしはんてん)を着た人間もいました。

憲兵が要所要所にいて、見ているわけです。日本刀を持って首を切るんです。切るといっても剣道ができるわけじゃなし、ただ力で切るだけでしょ。だからほんとうに恨めしそうに殺されていました。〔それは〕4日か5日ですね。

(「小学校の校庭で」関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺 - 歴史の真実』現代史出版会、1975年)

〈1100の証言;江東区/深川〉

石井進太郎

9月1日はガラス工場〔深川西町(現・森下町)。使用人は70人、うち25人が朝鮮人〕の連中と大島9丁目に避難しました。その夜はどんどん燃えてきたので小名木川ぞいを小松川まで提灯を持って逃げました。

〔略〕本所、深川には朝鮮人が多かった。ガラス屋に多かったよね。でもまわりのガラス屋にいた朝鮮人で、震災のとき殺されてしまったいう話はとくに聞いていない。顔見知りでひどい目にあった人はいないんだ。

殺されてることはずいぶん殺されてたね。道路で殺されたり、手をしばられてね、後ろに材木や鉄の棒をのせられたりしてほうぼうにいたりね、川に浮かんでいたりね、とにかくあすこの川がまっ赤だったんだから、血で。小名木川でもなんでもね。もう血でまっ赤だったんだから、体じゅうが。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ ー 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)


〈1100の証言;品川区/荏原・戸越〉

『国民新聞』(1923年10月21日)

9月2日午後5時頃、府下荏原郡大崎町星製薬会社人夫鮮入金容宅(41)苦学生金承中(19)鮮人女工朴一順(23)同高鳳児(20)同朴守人(25)に挙動不審のかどで重傷を負わせ、被害者は赤十字病院で手当を加えたので生命は助かった。右犯人府下大崎町桐ケ谷3茶商市川治三郎(36)同西洋料理業松田仁太郎(35)同322大工職長谷川桝次(25)は何れも令状執行収監す。

〈1100の証言;品川区/大井町・蛇窪〉

文戊仙(ムンムソン)〔当時大井町の長屋に住み紡績女工として働く〕

1923年9月1日の震災直後は、近くの親類と大家の庭にむしろを敷いて寝ていた。翌日には「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」「朝鮮人が放火している」などの流言が飛びかい、大勢の日本人が日本刀やとび口を持って「朝鮮人は皆殺しだ」と文さんたちのところにもやって来た。このときは大家が「この朝鮮人たちは何も悪いことはしていない。昨日もずっと私たちと一緒にいた」とかばってくれた。

2、3日後、文さんの父親を頼って来日したばかりの同郷の人が「朝鮮人は何も悪いことはしていない」と、父の制止も聞かずに「抗議に行く」と言って出かけた。数分後、日本人の一団がその父の友人の首に竹やりのようなものを突き刺し、担ぎながら私たちの前を通っていった。あれだけ行くなと言っていたのに、と父は嘆き、私は衝撃で声も出なんだ。

(『朝日新聞』1999年11月19日)


『東京日日新間』(1923年10月16日)

「府下蛇窪の2人殺し 犯人は消防手と自警団」

去月2日午後5時半ごろ、府下平塚村下蛇窪古川研究所前に20歳位の男が、また同所368伊藤武五郎方裏手道路に27歳位の男が日本刀で殺害されているのを発見し〔略〕同村消防5番組小頭伊藤芳太郎(42)同矢部末吉(42)伊藤由太郎(46)筒先楠芳太郎(35)纏持ち伊藤榮(33)消防手伊藤繁太郎及び下蛇窪355自警団員角谷森田高山その他5、6名を犯人として検挙し予審に付した。

〈1100の証言;品川区/品川・北品川・大崎〉

田河水泡〔漫画家〕

〔2日朝、大磯を発って東京深川へ徒歩で向かい、夜、暗くなった頃に品川警察署前まで辿りつく〕品川警察署に寄ったところ「五反田方面は火災もなく心配はないが、夜遅く君のような長髪で歩いていては、自警団に怪しまれて危険だから、今夜は警察で保護する。今夜は刑事部屋で寝て行くほうが安全だ」と親切な態度で泊めてくれた。・・・

夜が明けて、きのうの巡査に礼を言って警察を出だが、道々に、自警団が日本刀の抜身をぶらさげて、通行人をうさん臭そうに睨んでいる。私は長髪なので社会主義者だろうと思われて、抜身をぶらさげた男たちに呼びとめられた。

「どっから来た。どこへ行く。職業は?」

といろいろ聞かれるので、ズボンに少し油絵の具がついていたのを見せて、絵描きであることを納得させて放免されだが、これが夜だったら自警団も気が立っているから、どんなことになったか、危ないところだった。

(田河水泡・高見澤潤子『のらくろ一代記 - 田河水泡自叙伝』講談社、1991年)


柘植秀臣〔大脳生理学者。震災当時、父親が品海病院(現・北品川病院)院長〕

〔2日〕朝鮮人騒ぎの流言が伝わってきた。夕刻4時頃には、朝鮮人が大挙して川崎方面から押しかけてきたという流言にはじまり、大森に近づいているから朝鮮人を警戒しろと自警団員が叫び回り、ある者は抜刀し、ある者は竹槍、鳶口をもって道路を右往左往していた。

夜ともなると、ますますその狂乱ははげしくなっていった。尾崎〔秀実〕も私達も、付近の空地や墓地などに朝鮮人がひそんでいるかも知れないから見回りしろ、と自警団員や在郷軍人に命じられるままに付近の警戒に歩き回った。この時も尾崎は 「朝鮮人がこんなことをするなど考えられない」と、ひそかに私に話していた。多分日本統治下の台湾で台湾人に対する同じような経験をもっていたからだろう。

2日夕刻から伝わってきた朝鮮人暴動の流言による犠牲者がぞくぞく病院に運び込まれてきた。

(『サンデー毎日』 1976年9月12日号、毎日新聞社)


松井三彦〔当時品海病院(現・北品川病院)医局助手〕

今ここに特筆すべきは、9月2日に於ける鮮人狂暴多衆団をなし品川方面に襲来するの警報有りたるを以て、新設国道(現・第一京浜国道)及その他に避難せし多数の老若男女院内の屋内庭中に逃込みたるもの無慮100名位に及び安き思い無かりしに、夜に入り不穏の状は益々その度高め来れり、果然為に負傷者を生じたり。

午後1時頃に至り来院せしその第一を岡田とみ女とす。

その第二は畠山文雄氏にて、四囲の光景険悪に陥り来り、人心恟々驚鐘を乱打し危険を告ぐるの他、甲走り乙戦(おのの)き皆風声鶴唳(ふうせいかくれい)、虚か実か死者あり傷者多大なり等喧伝

するその時も時午後8時、腰に一刀を挟し手に抜刀手槍等を持てる多数の警官及鳶職等に護られ、荷車に載せられ来院す。皆異口同音に、鮮人なり殺せ、打て、蹴れ等罵詈百出開門を遅しと玄関の前に曳き入れ敷石の上に投ぐるがごとく下ろさしたり。これを一見するに全身血に染み負傷多大なるがごときも、電気はなくただ携帯電気、蝋燭位の微光により点検するに、(1)前頭部、後頭部、側頭部の切創 (2)左右上膞部各2ヵ所の切創 (3)背部刺創 (4)背部2ヵ所の切創あり、出血淋漓(りんり)頻りに水をもとめ、まさに死期近し。とりあえず血を洗い去り、縫合止血を企つ。院長その服装により日本学生にして鮮人に非ざるを発見せられ、種々説明す。果して本人は鮮人に非ずして、実に品川町猟師町92番地畠山正雄の男畠山丈雄氏(20年)なりき。背部致命傷の刺創のため、午後8時45分死去す。ああ惨なるかな、悲なるかな。

その第三を大井町立会川福田狂二氏方竹下了君(20年)となす。前期畠山君の手当未だおわらざるに青物横町において負傷云々、前記の所のこれまた多数の人に囲まれ荷車に載せられ来り。開門々々と叫ぶ時、まさに午後8時40分頃なりき。これは (1)右手第二、三、四指の切創 (2)右前膞外側切創(約2寸) (3)前額横走せる切創(約2寸) (4)右臀部刺創等にして、直に手当を施す。本人は意気衰えず大いに高言を吐き、傍らの畠山君を呼び、朝鮮人君しっかりしたまえなど、何となく不穏の言語を発しおれり。

その第四は同様来院開門々々と怒号す。これを見るにやはり荷車上に在りて最早絶命に近さ状体なり。頭部に創傷あり、全身各所に打撲傷あり。これは周囲の状況により全く鮮人らしき点多かりき。後に聞けば翌朝死亡せりとの事なり。

〔略〕その第六は張徳景(?)といいて(43年)、品川町明治護謨会社の職工にして 既に4年間会社の職工となり居るものなるも、如何せん鮮人なるの故を以てその住宅を襲い背部を打撲せらる。その長子張先堂(19年)父を助けんとして同じく打撲せらる。時に午後十時なりき。(当時の記録)

(『サンデー毎日』1976年9月12日号、毎日新聞社)


つづく

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