2023年9月10日日曜日

〈100年前の世界059〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑪ 〈1100の証言;江東区〉 「境橋近くのガラス屋で15、6人の朝鮮人を使っている。.....社長は 「朝鮮人はいるけど、この人たちは決して悪いことはしないんだから、なんとか助けてくれ」と言う。.....15、6人全員、縄でしばってまん中に乗せて青年団がまわりをずっとかこんで亀戸警察につれて行きました。.....じつはあの朝鮮人たちは小松川の荒川土手に連れて行かれて軍隊が機関銃で撃ったらしいと言う。」

 


〈100年前の世界058〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑩ 〈1100の証言;葛飾区、北区〉 「朝鮮人が殺されていた場所は、.....上平井橋の下が2、3人でいまの木根川橋近くでは10人ぐらいだった。朝鮮人が殺されはじめたのは9月2日ぐらいからだった。.....気の毒なことをした。.....その人は「何もしていない」と泣いて嘆願していた。」 より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺⑬

〈1100の証言;江東区/永代橋・越中島付近〉

K・S〔当時国鉄職員〕

〔2日、永代橋で〕橋を渡り切った橋ギワに朝鮮人の殺された死体があった。橋詰めの交番は無茶苦茶にこわされていて、6、7名の朝鮮人の死体が転がされていた。首と胴が離れていた。日本刀で切られたものなのだろう。着ているものは普通の洋服であったが、顔で解った。今は朝鮮人も日本人も変らなくなったが、当時は着ているもの、歩き方とか顔立ちで、日本人と朝鮮人の違いはすぐ解った。死体が大きくふくれて、顔も大きくふくれていた。普通の死、罹災死ではないと思えた。

(三原令『聞き番き』→在日韓人歴史資料館所蔵)


黒木伝松〔歌人〕

〔2日、永代橋を渡った深川で〕「○○だな」と思った。両手を針金で後にくくりあげられたまま仰向けに、或は横に、うつぶしに倒れて死んでいる。着物は彼等の労働服だ。顔はめちゃめちゃである。頭、肩にはいずれも大きな穴があいており、血がひからびてくっついている。そこにはまた首のない死体がある。首が肩の際から立派に切り取られている。

(「震災見聞記」『創作』創作社、1923年10月→琴秉洞『朝鮮人虐殺に関する知識人の反応2』緑蔭書房、1996年)

〈1100の証言;江東区/大島〉

小林勝子

朝鮮の人たちは、ほんとうに見ていて気の毒になるようなひどい生活をしていました。食べ物は、床に落ちてはき集めたお米や、魚のアラばかり。朝なんか朝鮮部落を通りかかると、3畳ぐらいの部屋に十何人がスシづめになって立ったまま寝てるみたいな感じなんです。「朝鮮人って、きっと横になって寝ることを知らないんだな」って思っていました。

震災のときですか? ええ、ひどかったです、この辺は。(当時、城東区大島4丁目)町内の人たちは、みんな竹ヤリで武装して、20~30人ずつ道路の角に立って尋問しました。「山」といえば「川」、「花」といえば「月」っていうように警察のお達しがあって、ことばに少しでもにごりがあれば、「出たぞーっ」ってどなる、すると巡査がすぐ連れて行って、夜になるとまとめて、この先の田んぼのあたりで銃殺したんです。

真っ暗ヤミのなか、しょっちゅうグラグラって余震がきましたから、夜がくるともうこわくてこわくて、私も自警団について歩きました。朝鮮人が出ると、女子供は逃げちゃいましたが、じっと息を殺してかくれてると「ギャー」っていうようなすごい悲鳴が起こって、「もう済んだな」っていうんで出てみると、からだじゅう刺されて、殺されてるんです。そういう毎日が2日から10日間ぐらいはつづきましたねえ。

近所に幅6尺ぐらいのドブ川があったんですけど、そこに死体が4列にも5列にもなっていっぱい捨てられていました。なかには身寄りを案じて地方から上京してきて、暗号を知らないために殺された日本人の死体も、ずいぶんまじっていたようでした

いちばんおそろしかったのは、妊娠した女の人の死体です。針金でゆわかれて、ひきさかれたお腹に石がいっぱい詰めこまれて、ドブ川に捨ててあるんです。

ほんとうに気違いじみていましたねえ。朝鮮人をかくまうでしょ、それがわかると、かくまった人がやられちゃったんですよ。私の家でも、ふだん仲よくしてた、とてもいい方がいたもんですから、押入れに入れてかくまってたんです。近所の人がきたりして「××さんの姿が見えないけど、どこへ行ったんだろう」なんていうと、もうドキドキしちやって・・・その後2ヵ月ぐらいは、危なくて外に出せない状態でした。(談)

(「押入れにかくまう」『潮』1971年6月号、潮出版社)


二橋茂一〔当時15歳〕

〔1日〕父の友人である大島8丁目の野原さん宅へ行ったのです。野原さん一家は私の無事を喜んでくれ、夜は裏の畑に畳を敷き、蚊帳を吊って寝ることにしました。私は大変に疲れていたので早目にやすみましたが、夜半に遠くから聞こえるときの声で目を醒ましました。おばさんは、朝鮮人が井戸に毒を入れるので、男たちは警戒に出たと言い、ときどき聞こえるかん声は、朝鮮人を追う声だと申しました。

翌日〔2日〕朝、近所の人が走って行くので、なにごとかと見ますと、警官が一人の男を連行していくのを一団の群衆が、朝鮮人、朝鮮人と罵りながらとり巻いています。そのうち群衆は警官を突きとばして男を奪い、近くの池に投げ込み、3人が太い丸太棒を持ってきて、生きた人間を餅をつくようにポッタ、ポッタと打ち叩きました。彼は悲鳴をあげ、池の水を飲み、苦しまぎれに顔をあげるところをまた叩かれ、ついに殺されてしまいました。

一団の人びとはかん声をあげて引き上げました。すると、また別の一団がきて、死んでいる彼を池から引きずり出し、かわるがわるまた、丸太棒で打ち叩きました。肉は破れ、血は飛び散り、人間の形のなくなるほどに打ち、叩きまた大声をあげて引きあげました。死人を鞭打つという言葉の通りで、そのときの惨状が今も私のまぶたに残っています。

(「朝鮮人の虐殺を目撃」関東大震災を記録する会編『手記・関東大震災』新評論、1975年)

〈1100の証言;江東区/亀戸〉

江口青龍

「百余名の鮮人を危地から救出す 大院君から名を貰った江口青龍君 警視総監に表彰方申請」

亀戸警察署では今回亀戸町3700待合業龍光亭江口青龍(32)氏を表彰方申請した。〔略〕氏は永く朝鮮に住み朝鮮人の気質をよく知りかつ鮮語にたくみな事から、9月1日地震と同時に朝鮮人に対する流言蜚語が盛んに行われた時、深くそれを憂い危険を顧みず、2日の夜同町コークス会社跡にふるえている鮮人5名を救助し、7日ごろまで亀戸町大島、吾嬬、小松川その他で無慮百余名の鮮人を自警団群衆の中から救助して、神明町検問所の増永巡査に託し警察の保護を依頼した。

現に4日の夜柳島妙見橋で鮮人を救助した時などは、猛り狂った群衆の一人に竹槍で前頭部を刺されて負傷した程で、氏の一身を犠牲に伏しての働きに助けられた鮮人等、何れも涙を流して感謝して今日に至るまで真心をこめた礼状が続々と舞込んでくる。これにつき亀戸町栗原橋で助けられた一人羅凡山(24)の如きは、目下亀戸署で月給30円で通弁をつとめている。

〔略〕氏は「日本へ来ている鮮人労働者の多くは無智のもので日本の国を賛美こそすれうらみに思っているものは少ないので是非たすけずにはいられなかったのです。幸い朝鮮語が出来るので厳重に訊問したが全く彼等は私の予想に同じく純良な人間ばかりでした」

(『東京日日新聞』1923年10月23日)


越中谷利一〔作家。当時習志野騎兵連隊に所属〕

〔習志野騎兵連隊が〕亀戸に到着したのが〔2日の〕午後の2時頃、おお、満目凄惨!亀戸駅付近は罹災民でハンランする洪水のようであった。と、直ちに活動の手始めとして先ず列車改め、というのが行われた。数名の将校が抜剣して発車間際の列車の内外を調べるのである。と、機関車に積まれてある石炭の上に蝿のように群がりたかった中から果して1名の朝鮮人が引摺り下ろされた。憐むべし、数千の避難民環視の中で、安寧秩序の名の下に、逃れようとするのを背後から白刃と銃剣下に次々と仆れたのである。と、避難民の中から、思わず湧き起る嵐のような万歳歓喜の声(国賊朝鮮人はみな殺しにしろ!)。これを以って劈頭の血祭りとした連隊は、その日の夕方から夜にはいるにしたがっていよいよ素晴らしいことを行(や)り出したのである。兵隊の斬ったのは多くこの夜である。

(「戒厳令と兵卒」『越中谷利一著作集』東海繊維経済新聞社、1971年)


岡村金三郎〔当時青年団役員〕

2日になって焼けなかった亀戸の境橋近くの長屋に引き返してきました。そのうちに戒厳令がしかれて、一般の者も刀や鉄砲を持てと軍から命令されたんです。それでみんな家にある先祖伝来の刀や猟銃を持って朝鮮人を殺(や)った。それはもうひどいもんですよ。十間川にとびこんだ朝鮮人は猟銃で撃たれました。2日か3日の晩は大変だったんですよ。朝鮮の人があばれて井戸に毒を入れたとかいうんです。ボンボン燃えている音を聞いては朝鮮人が火をつけたと言ってね。

〔略〕その時分、私は青年団の役員でした。「境橋近くのガラス屋で15、6人の朝鮮人を使っている。青年団は見に行ってくれ」と言われて、そのガラス屋に行ったんです。

すると社長は 「朝鮮人はいるけど、この人たちは決して悪いことはしないんだから、なんとか助けてくれ」と言う。「どこにいるんだ?」と言うとね、ガラス屋にはかまがあるね、その火を取っちゃってね、そん中にぶっこんでいるんです。だから外からはわかんねえ。「この人たちは決して悪いことはしていないんだから、青年団は助けてやってくれ」と社長は言う。

「ああいいですよ。だけどね、野次馬が取り囲んでいるからあんたとこぶっこわされちゃう。だから一応ね、渡すこと渡したらいいだろう」と社長に話してね。

それで亀戸警察署に通告したら、警察からトラックで「うちのほうに引き渡せ」と来た。だけどね途中でみんなけんけんごうごうとしているから殺されるというので「自警団とか青年団ついて行ってくれ」と言うんで、私はついて行きましたよ。トラックの隅に乗って、15、6人全員、縄でしばってまん中に乗せて青年団がまわりをずっとかこんで亀戸警察につれて行きました。それから三日、四日たって社長に聞いたら、じつはあの朝鮮人たちは小松川の荒川土手に連れて行かれて軍隊が機関銃で撃ったらしいと言う。それで小松川の土手に埋めたということを私は知っているんです。

[略]寺島警察署の前でも胸を切られ丸太棒で突かれて死んでいた朝鮮人がいた。五人か六人ね、首のないもの、手のないもの、朝鮮の人たちを皆殺しで、それでおっぽりだした。顔もなにもわかりやしない。ひどいもんだなあと思って。警察もやったけど群衆がやっちゃったんですよ。みんな先租伝来の刀を持ってきて、「俺に切らせろ!」「我に切らせろ!」とやったらしいんだ。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

〈1100の証言;江東区/亀戸警察署〉

全虎岩(チョンホアム)

私は亀戸の福島ヤスリ工場に工員として働きました。そして大正11年南葛労働組合の亀戸支部が結成され、そこで活動をしました。

〔略。2日夜〕炭鉱の朝鮮人労働者がダイナマイトを盗み集団で東京を襲撃してくるから、みな町を自衛しなければならないというようなことをいっていました。〔略〕夜になって朝鮮人が多数逃げていくというので、私は近くにある飯場へ行ってみました。飯場のすぐ側にハス畑があって、鉄道工事に従事していた同胞が20人ばかりいました。行ってみると、黒竜会の連中が日本刀などを持って飯場を襲撃し、ハス沼の中へ逃げ込んだ人まで追いかけ、日本刀で切り殺していました。

私は恐ろしくなってすぐその場を逃れましたが虐殺は3日の明け方まで続き、そのうち女性一人を含む3人はやっと逃げのび亀戸警察署に収容されました。私はあとでこの人たちにあい虐殺の実態を確かめることができました。

あちこちで朝鮮人殺しのうわさが頻繁に伝わってきました。工場の人達は私に外へ出たら危いから家の中にいるようにと言って無理に押し込み、外で見張りまでしてくれました。

翌日(3日)の昼頃になってこのままでは危いし警察が朝鮮人を収容しはじめているからそこへ行った方が安全だと言う事をきき、工場の友人達十数人が私を取り囲み亀戸警察へ向いました。街に出てみると道路の両側には武装した自警団が立ち並び、兵隊も出動していて険悪な空気が充満していました。そして連行される同胞が道で竹槍などで突き刺され、殺された死体があちこちにありました。私も何度か襲われましたが、やっとの思いで午後3時頃亀戸署に着きました。

〔略〕4日明け方3時頃、階下の通路で2発の銃声が聞えましたが、それが何を意味するのか判りませんでした。朝になって立番していた巡査達の会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず2名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを聞きました。

〔略〕朝になって我慢できなくなり便所へ行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに30~40の死体が積んでありました。

〔略〕虐殺は4日も1日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。4日の夜は雨が降り続きましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。〔略〕亀戸署で虐殺されたのは私が実際にみただけでも50~60人に達したと思います。虐殺された総数はたいへんな数にのぼったと思われます。

虐殺は5日の夜中になってピタリと止まりました。巡査の立話から聞いたことですが「国際赤十字」その他から調査団が来るという事が虐殺をやめた理由だったのです。

6日の夕方から、すぐ隣の消防署の車2台が何度も往復して虐殺した死体を荒川の四ツ木橋のたもとに運びました。あとから南葛の遺族から聞いたことですが死体は橋のたもとに積みあげ(死体の山二つ)ガソリンで焼き払い、そのまま埋めたそうです。その後私は遺族に連れられて現場にいき、死体を埋めたあとを実際に見ました。

死体を運び去ったあと、警察の中はきれいに掃除され、死体から流れ出した血は水で洗い流し、何事もなかったかのように装われました。調査団が来たのは7日の午前中でした。

〔略〕当時、荒川の堤防工事で四ツ木橋近くには朝鮮人労働者の飯場が沢山ありました。これは私が実際にみたのでなく震災直後に、習志野からやってきた騎兵隊が、橋の下で同胞たちを機関銃で虐殺したということを実際に見た人から聞いています。その他、亀戸の南の大島付近には中小企業が沢山あって多くの朝鮮人職工が働いておりました。その人達の多くも騎兵隊や自警団によって虐殺されました。ようやく生きのびて亀戸署に逃げ込んだ人もいました。

(朝鮮大学編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)


亀戸警察署

9月2日午後7時頃「鮮人数百名管内に侵入して強盗・強姦・殺戮等暴行至らざる所なし」との流言行わるると同時に、小松川方面に於て警鐘を乱打して非常を報するあり、事変の発生せるものの如くなれば、古森署長は軍隊の援助を索むると共に署員を二分し、一隊をして平井橋方面に出動せしめ、自ら他の一隊を率いて吾嬬町多宮ケ原に向いしに、多宮ケ原に避難せるおよそ2万の民衆は流言に驚きてことごとく結束し鮮人を索(もと)むるに余念なく、闘争・殺傷所在に行われて騒擾の衢(ちまた)と化したれども、遂に鮮人暴行の形跡を認めず、即ち付近を物色し鮮人250名を収容してこれを調査するにまた得る所なし、而して民衆の行動は次第に過激となり、警察官及び軍人に対してまで誰何訊問を試み、又は暴挙に出でんとせり。然るに鮮人暴行の説が流言に過ぎざることようやく明かとなりたれば、同3日以来その旨を一般民衆に宣伝せしも肯定する者なく、自警団の狂暴は更に甚しく鮮人の保護収容に従事せる一巡査に瀕死の重傷を負わしめ、又砂村の自警団員中の数名の如きは、良民に対して迫害を加えたる際、巡査の制止せるを憤り、これを傷けしかば、直に逮捕したるに、署内の留置場に於て喧騒を極め、更に鎮撫の軍隊にも反抗して刺殺せられたり。

〔略〕亀戸町柳島新地の某は平素より十余名の乾児(こぶん)を養いしが、是日兇器を携えて徘徊せるを以て、本署巡査のこれを制止するや、直に抜刀して斬付しかば、同巡査もまたやむを得ず正当防衛の手段としてこれを斬殺せり。かつ流言蜚語を放ちて人心を攪乱し、革命歌を高唱して不穏の行動ありしが為に、9月3日検束せる共産主義者数名も是日留置場に於て騒擾し、鎮撫の軍隊に殺されたるが如き、以て当時管内に於ける情勢を察するに足らん。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)


つづく


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