2023年9月14日木曜日

〈100年前の世界063〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑮ 〈1100の証言;新宿区/淀橋・角筈、杉並区〉 「夜が明けてからの話を聞くと、私共のところから、西へ1里ばかりの烏山というところで、田畝中に、朝鮮人が14、5人も、重軽傷を負わされてうめいているということであった、又、その翌日の昼頃には、私共の隣り村の正用というところで、2人の朝鮮人が、自動車から引きずり下ろされて、ドーかされたということを聞いた。」 

 

東京日本橋通りの惨状

〈100年前の世界062〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑭ 〈1100の証言;新宿区/牛込・市ヶ谷・神楽坂・四谷、戸山・戸塚・早稲田・下落合・大久保〉 「もまばらになった警察の黒い板塀に、大きなはり紙がしてあった。それには、警察署の名で、れいれいと、目下東京市内の混乱につけこんで「不逞鮮人」の一派がいたるところで暴動を起そうとしている模様だから、市民は厳重に警戒せよ、と書いてあった。、、、、、場所もはっきりしている。神楽坂警察署の板塀であった。時間は震災の翌日の9月2日昼さがり。明らかに警察の名によって紙が張られていた以上、ただの流言とはいえない。」 より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺⑮

〈1100の証言;新宿区/淀橋・角筈〉

金泰燁(キムテヨブ)(金突破キムトルバ)〔労働運動家。角筈の労働同盟会事務所で被災〕

〔1日午後3時頃〕李憲が通ってきた途中の警視庁の前と鶴巻町のあちこちに、「不逞鮮人が暴動をおこし、井戸に毒を投げ入れ、殺人・放火をするので、警戒せよ」という立看板が立っていたというのである。日本人は村ごとに自警団を組織し、また青年団、消防隊、警察などが韓国人を割り出し始めたという話だった。彼は、このことを伝えながら、街に出ず、養生しているのがよかろうという言葉まで残して、あわただしく消えていった。

〔略〕日が暮れて亀気をつけようとしたが、つくはずがなかった。その時、淀橋区管轄の淀橋警察署高等係主任である松本警部補が4、5名の刑事を率いて事務所に入ってきた。前から監視を受けていた私たちは顔なじみだった。だが、この日の松本の表情は冷ややかだった。彼は鋭く事務所の中を見回して、私以外の同盟会の他の幹部の所在をたずねた。朝から私1人だったことをありのままに話すと、彼は私を連行すると言った。理由をきくと、保護するということだったが、予備検束が明らかだった。

刑事たちに引きずり出されて警察署に行く途中に見た光景は本当に殺伐たるものだった。あまりにも変貌した街の姿は、あたかも戦争を経た廃墟のようだった。のみならず、あの街この街には、いまだに災難に泣き叫ぶ女や子供の痛哭がたえなかった。特に目につくのは額に手城を巻いた青年たちが群をなしていききしながら殺気立った雰囲気をかもしだしていたことである。それがまさしく、韓国人を見つけ出そうと往来する暴力化した集団の姿だった。

ある街を通りすぎている時、そのうちの一集団が私たちに接近してきて周囲をとり囲んだ。

「こいつは朝鮮の野郎だな、ここにおいていけ!朝鮮野郎はみんな、俺たち自警団にまかせて処理させることになっているんだ」

と、私をおいていけと警察に要求した。だが松本はこのように答えた。

「こいつは重大犯人だから、警察署に連行するので、渡せん」

だが、彼らのうちの一部は私のあとについてきていつまでも私を苦しめた。本当に私の生命は、猛獣の行きかうジャングルの中につかまっている裸の幼児にすぎなかった。警察署までわずか400~500メートルにしかならない途上で、こうした殺気立った集団に3、4度会ったわけだ。

警察署に到着して私は柔道場に連れられていった。そこに入ってみると、約300名にもなる韓国人留学生、労働者が収容されていた。彼らをながめて見ると、大部分が体に負傷した受難者たちだった。私に消息がわからず、心配に思っていた労働同盟会の幹部も何人かいた。そして、その中には日本人もまじっていたが、彼らは社会主義者、無政府主義者であった。私はそこで、労働同盟会の幹部である朴興坤・姜大権・李憲・馬鳴や朴烈と彼の妻の金子文子、そして鄭然圭らと会うことができた。朴烈と彼の夫人は、ここにいたが不敬罪で市ヶ谷刑務所に移送されたと記憶する。

翌日である9月2日、加納という古い刑事が名簿の書かれた紙片をもってきて、20余名を別々に呼び出し、柔道場ではなく留置場に入れた。この中には、私をはじめとして労働同盟会の幹部全員と、堺利彦の秘書で私の知っていた藤岡淳吉もまじっていた。留置場に移されて後、私たちは取調が始められた。私の取調を担当したのは、偶然にも、淀橋警察署の高等係で悪名高い、韓国人刑事の李某という者だった。名前は忘れたが、彼は韓国人労働運動家の仇敵であるのはもちろん、数多くの韓国人のうらみのまとのような男だった。

この悪質刑事に私は毎日拷問をうげた。本当に執念深く悪辣な拷問だった。

「おまえが主導して火をつけたか」「誰と共謀して井戸に毒を入れたか。吐かないか」

訊問の内容は寝てもさめても、この二つだけだった。

〔略〕こいつのする拷問というのは、この上もなく人をなぶりものにする、そんな方法だった。ひどくなぐったり罰を与えたりするのではなく、細長い板でできた椅子の上にまっすぐにねかせておき、顔につばを吐いたりタバコの火で顔を焼く、冷たい水をかけるなどだった。

毎日のようにそんな拷問をおよそ2時間もうけていると、本当にカつきてしまう。その上、私は何日か前に相愛会でいためつけられていた体だから、その肉体的な苦痛はもちろんだが、ほとんど狂ってしまいそうだった。

このように残忍な拷問をうけて監房に帰ってきて、精神的・肉体的に苦しんでいたある日の晩、私が横になっている監房の窓の外の裏通りから、突然胸を引き裂くような鋭い悲鳴が聞こえてきた。そのうえ、その悲鳴は「アイグ、オモニー」という韓国語ではないか。その凄絶で絶望的な悲鳴は一瞬にして、監房にいる私たち韓国人の頭をなぐりつけたようだった。私たちは真っ青になった顔を見合わせて、どっと窓の格子にぶらさがった。窓の外のせまいつきあたりの道では、凄惨な殺戮がほしいままにされていた。4、5名の日本のやつらがおのおの竹槍をもち、1人の韓国人を手当り次第に刺していた。その日本のやつらの表情と身振りは、本当に血に飢えた悪魔そのものだった。この言葉以外に表現のしようがない。

警察署から目と鼻の先の所で行なわれるこうした殺人劇に、留置場の監房の中にとらわれている私たちが何かを狂ったように叫んでみて、何の役に立つだろうか。いや。やつらはむしろ、留置場の中にいる私たちに見せつけるためにそんなことをしているのが、明らかだった。なぜかといえば、そんな殺人劇が一度ではなく、9月10日まで何度もくり返されたからである。

(金泰燁『抗日朝鮮人の証言 - 回想の金突破』石坂浩一訳、不二出版、1984年)


『東京日日新聞』(1923年9月3日)

「不逞鮮人各所に放火し帝都に戒厳令を布く 300年の文化は一場のゆめ ハカ場と化した大東京」

〔2日〕午後に至り市外淀橋のガスタンクに放火せんとする一団あるを見つけ辛うじて追い散らしてその1、2を逮捕したが、この外放火の現場を見つけ取り押え又は追い散らしたもの数知れず。


淀橋警察署

9月2日午前10時頃「今回の火災は鮮人と主義者との放火に基因するものなり」との流言あり、鮮人に対する憎悪の念漸く長ぜんとするを以て本署は角筈町なる労友社に止宿せる鮮人5名と柏木町その他に居住せる数名とを保護検束したるに、同11時頃に至り、「早稲田に於て鮮人4名が放火せるを発見せしがその内2名は戸山ヶ原より大久保方面に遁入せり」との報告に接す、これに警戒及び捜査の為巡査5名を同方面に派遣せしが、幾もなく又「鮮人等が或は放火し、或は爆弾を投じ、或は毒薬を撒布す」の流言盛んに行われて鮮人の迫害随所に演ぜられ、これを本署に同行するものまた少なからず、本署即ちその軽挙を戒めたれども効果なく、更に午後6時頃「中野署管内字雑色方面より代々幡町方面に向いて不逞鮮人約200名襲撃中なり」「代々木上原の方面に於て鮮人60余名暴動を為しつつあり」と訴うるものあり。不取敢右10余名の署員を急行せしめたれどもいずれも訛伝に過ぎざりき。

しかも民衆のこれに備うるや戎・兇器を携えて濫に通行人を誰何し、甚しきは良民を傷け、警察に反するに至れるを以て、午後8時暴行者の取締及びその検挙と兇器の押収とに着手し、更に在郷軍人と協力して流言輩語を誤信せざる様、戸別にこれを宣伝し、更に私服員をして流言者の内偵に従事せしめたり。かくて翌9日警視庁より自警団取締の達しありしが、その事項は本署の既に励行せる所なりき。当時最も粗暴の行動を恣にしたるは代々幡・代々木・富ヶ谷の各方面にして騒擾その極に達したれども、取締を厳にせる結果漸次平穏に赴きたり。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

〈1100の証言;杉並区〉

江渡狄嶺〔えとてきれい思想家〕

〔下高井戸で〕その火は翌2日になって、益々、諸方に拡がった、それと同時に、不吉な流言輩語が起った、それは、我が同胞の朝鮮人の上にであった、彼等は毒草を井中に投じ、石油を持って諸方に放火し、爆弾を携えて大建築物を破壊し、更に暴動を起して略奪不義を敢行しつつありと、ソシテ、誰いうとなく、見付け次第、彼等不逞鮮人を殺すのだというささやきは、流言蜚語に迷わされて、ほとんど半狂乱になった人々の間に、ここにもそこにも聞かされた。

同じ日の夕方から夜にかけて、平和な武蔵野にも、この流言蜚語が迅速に伝って、不安の念は、全村の空気を圧した、恐怖に克(み)ちた村々は、急に半鐘を乱打して人々を集め出した、人々は、棒、鳶口、竹槍、刀、鉄砲、思い思いに武装して、終夜大声を挙げてさけび合いながら、彼方に走り、此方に走りして、暗中に乱れて影を追う者の如くであった、この騒ぎに交って、幾度か、鉄砲の乱射する音も聞えた、半鐘は又その都度々々、はげしく打ち鳴らされた。

この騒擾不安の夜半、上半弦の月は、未だに恐ろしい火光が、都の空を真赤にしている上を、いつもとかわらず、何事もなきかのように、徐々と登り始めて、武蔵野一体を、青白い光に照らし亘した。

〔略〕夜が明けた、夜が明けてからの話を聞くと、私共のところから、西へ1里ばかりの烏山というところで、田畝中に、朝鮮人が14、5人も、重軽傷を負わされてうめいているということであった、又、その翌日の昼頃には、私共の隣り村の正用というところで、2人の朝鮮人が、自動車から引きずり下ろされて、ドーかされたということを聞いた。〔略〕

(「狄嶺文庫」所蔵→『新修・杉並区史・上』杉並区、1982年)


金三奎〔当時法政大学に留学中〕

(2日の)明け方になって、韓〔晛相〕さん(金兄弟の郷里の先輩で、地震後の混乱の中、偶然九段で出会った人)の知合いが神楽坂にいるからというので、私たちはとりあえず、そこへ出向きました。一眠りして10時頃に起きると、朝食の仕度がしてありました。私と兄が食事をすませていると、そこの家の主人が、韓さんになにごとか耳打ちしているんです。たずねると、ここいらはどうも”物騒だ”というんですね。その時には、私も兄もなんのことだかわからなかったのですが、すでに朝鮮人迫害のうわさが伝わってきていたわけです。その家の主人は、中野の知人のところへ避難するようにすすめてくれました。礼をいって、とにかく表通りに出ると、ちょうど中野方面へ行くバスがあった。私たち3人はそれに飛び乗り、中野で降りました。あの当時、無我愛運動という宗教活動をしていた伊藤証信という人がおりました。この人が中野の自宅に無我苑という修養場を設けていたんです。私たちが避難するように勧められた場所がそこでした。伊藤さんは親切な方で、裏庭の一角にゴザを敷いてくれたので、私たちは、しばらくはそこで休息をとりました。私たちの他にも、ずいぶんたくさんの避難者がきていました。そのうちに、このあたりも”危ない”ということがわかってきました。”朝鮮人狩り”のことを私が知ったのは、実はこの時でした。それで、伊藤さんは、下高井戸に住む江渡狄嶺さんのところへ行くようにと…‥。あそこならば、君たちも安全だろうというのでした。

この江渡さんは本名を幸三郎といいますが、私の命の恩人です。皆さんはあるいはご承知ないかもしれませんが、江渡さんはトルストイ主義者で、東大を中途退学してしまった人です。お茶の水女子高師を出た関村ミキさんという女性と結婚し、武蔵野の下高井戸で百姓生活を送られた方です。

〔略。2日〕夕方近くなって、私たち3人は下高井戸へ向いました。私も兄も手ぶらでしたが、韓さんには荷物が少しあった。それに棒を通して兄と韓さんが持ち、私はそのうしろからとぼとぼついていきました。田んぼのあぜ道を歩いていったんです。できる限り人のいない道を選んだからです。日がほとんど傾いた頃になって、やっと下高井戸に着きました。でも困ったことには、肝心の江渡さんの家がみつからないのです。そこは小川が流れていて、私たちが小さな橋を渡ろうとすると、”どこへ行くんだ”と、トビロを手にした消防隊員たちから誰何されたのです。江渡狄嶺さんのところへ行きたいのですが、家がわからなくて困っているんです。そう答えると、消防隊員たちは急に親切になって、私たちを江渡さんの家まで案内してくれました。3人が朝鮮人だということを、たぶん彼らは気づかなかったのだと思います。

そんなふうにして、江渡さんの家にたどり着いた時分には、もうとっぷりと陽が落ち、あたりは真っ暗でした。伊藤証信さんの紹介ということもあったのでしょうか、江渡家では心よく私たちを迎え入れてくれました。その時には、江渡さん自身は子供の看病で出てこられず、奥さんが私たちを別棟のお堂に案内し、蒲団を敷き蚊帳をつってくれました。このお堂は”可愛御堂”といって、幼くして亡くなった長男を憐み、建立したものだということを、あとで聞きました。

私は床にはいったのですが、うつらうつらしていて、あれは何時頃だったでしょうか。夜もだいぶ更けた頃でした。突然、太鼓の音と鬨の声が起こり、あっちへ行った、こっちへ行ったと、大きなどよめきがあったのち、一発の銃声が響きました。追いつめられた同胞が、殺されたんだ。〔略〕その夜以来、私たち3人は奥の室に移され、江渡さんから、外出一切まかりならぬという厳命を受けました。〔略〕江渡さんの家にかくまわれたまま、3カ月がたち、〔略〕私自身は江渡さんのお蔭で、直接には恐ろしいおもいをしたことはありません。虐殺事件のことも、むしろあとで知らされたようなものでした。

(金三奎「個人史の中の朝鮮と日本」『朝鮮と日本のあいだ』朝日新聞出版、1980年)


小松隆二〔アナキズム研究家〕

韓晛相(朴烈等の不逞社に加入)は、神田表神保町の平凡社で地震に遭遇。寄宿している西大久保に戻ることにした。たまたま途中の靖国神社で同郷の金敏奎・三奎兄弟に出会ったことで、その夜は3人で靖国神社で明かすことにした。翌日、3人で牛込の石田友治宅に立ち寄って、朝食をご馳走になった後、東中野の伊藤証信の無我苑に行くことにする。ところが、その9月2日を境に、朝鮮人に対する対応が急激に変化していく。それを読み取った伊藤夫妻は、無我苑は当局や自警団に狙われる危険性があるので、大事にいたる前に他に移り、一時身を隠すように、韓らにすすめ、東京府豊多摩郡高井戸村の江渡狄嶺を紹介する。東中野から江渡宅までは甲州街道を歩いて行くが、その晩、法政大学に学ぶ金兄弟は日本人と同じ学生服だったので、疑われることもなかろうと、そのままの格好で行くが、韓だけは手拭いでほうかむりをして顔を見られないように歩いた。ともかく無事に江渡宅に着くと、江渡は3人を快く受け入れてくれ、そこでほぼ1カ月程の間匿ってくれた。その結果、多くの同胞の犠牲をよそに、被害にあうこともなく、無事危険や混乱をくぐりぬけることが出来た。

(もっとも、1カ月後に東京市内に戻った韓は、その2日日に朴烈・金子文子の大逆事件との結びつきを問われて検挙されてしまう。最終的には証拠不十分で予審免除となった)

(小松隆二『大正自由人物語-望月桂とその周辺』岩波書店、1988年)


尹克榮〔音楽家、当時東洋音楽学枝に留学中〕

震災のあと、好奇心で都心はどうなったかと銀座あたりまで出かけて夜通し歩いた。2日にどの場所でか、握り飯配給の列に加わっていたところ、朝鮮人労働者が引きずり出されて殴られるのを目撃した。誰何されて日本語で答えられなかったのだ。その人が生きたか死んだかは分らない。こうした場面を度々見た。

帰り道では「朝鮮人が井戸に毒を入れ日本人を殺す」 「あらゆる犯罪をしている。朝鮮人を追い出せ」などの貼紙が、時間がたつにつれて増えていった。何カ所かで私も誰何されたが、なれた日本語を使っていたからまぬがれることができた。

〔高円寺の〕下宿に戻ったが余震が続くため、何日か近くの留学生17人でかたまって竹林で野宿をしていた。中野には電信第一連隊があったが、ふいにそこから7、8人の兵士がやってきた。

「朝鮮人だろう、井戸に毒を入れたことがあるか」と尋問した。

「そんなことはしない」と言うと、嘘をつくなと2、3人が殴られ、下宿を捜査された。そのころの学生なら有島武郎の本1冊ぐらいは持っていたが、『惜しみなく愛は奪う』のタイトルが赤い字のため、「共産党だろう」と銃剣を突きつけられ、みんな電信隊に連行されてしまった。「保護」の名目で2、3日留置、調査されたのである。帰されても軍隊にいたほうが安全だったほど、周囲は物騒だった。

高円寺で友人たちと「どうせ殺されるのなら、1人殺して殺されるほうがよい」とまで話していたが、ある日1人の紳士が訪ねてきた。「すみません、玉と石を混同してしまいました。あなた方は留学生でもあるし、絶対そういうことはないと思いますが、民衆というものはそうではないものですから、了解してもらいたい。私たちが保護しますから安心してください」と言った。石とは朝鮮人労働者をさすのだろう。軍部からも、「これからはこういうことがないよう自分たちも努力するから、あまり誤解しないでくれ」と言ってきた。一番やられたのは労働者だ。

(関東大鏡災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『韓国での聞き書き』1983年)


つづく



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