2023年9月13日水曜日

〈100年前の世界062〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑭ 〈1100の証言;新宿区/牛込・市ヶ谷・神楽坂・四谷、戸山・戸塚・早稲田・下落合・大久保〉 「もまばらになった警察の黒い板塀に、大きなはり紙がしてあった。それには、警察署の名で、れいれいと、目下東京市内の混乱につけこんで「不逞鮮人」の一派がいたるところで暴動を起そうとしている模様だから、市民は厳重に警戒せよ、と書いてあった。、、、、、場所もはっきりしている。神楽坂警察署の板塀であった。時間は震災の翌日の9月2日昼さがり。明らかに警察の名によって紙が張られていた以上、ただの流言とはいえない。」   

 

丸の内で建築中の「内外ビルヂング」が、完全に崩壊。作業員が多数犠牲に

〈100年前の世界061〉大正12(1923)年9月2日 朝鮮人虐殺⑬ 〈1100の証言;品川区、渋谷区〉 「2日〕夜が明けるが早いか巡査がやって来て、一軒一軒に「かねてから日本に不安を抱く不逞〇人が例の二百十日には大暴風雨がありそうなことを知って、それにつけ込んで暴動を起こそうとたくらんでいた所へ今度の大地震があったので、この天災に乗じ急に起って市中各所に放火をしたのだそうです。又横浜に起ったは最もひどく、人と見れば子供でも老人でも殺してしまい、段々と東京へ押し寄せて来るそうだから、昼間でも戸締を厳重にして下さい」と、ふれ歩いた、、、」 より続く

大正12(1923)年

9月2日 朝鮮人虐殺⑭

〈1100の証言;新宿区/牛込・市ヶ谷・神楽坂・四谷〉

中島健蔵〔フランス文学者〕

〔2日の昼下がり〕ともかく神楽坂警察署の前あたりは、ただごととは思えない人だかりであった。〔略〕群衆の肩ごしにのぞきこむと、人だかりの中心に2人の人間がいて、腕をつかまれてもみくしやにされながら、警察の方へ押しこくられているのだ。別に抵抗はしないのだが、とりまいている人間の方が、ひどく興奮して、そのためにかえって足が進まないのだ。

群衆の中に、トビ口を持っている人間がいた。火事場のことだから、トビ口を持っている人間がいても、別にふしぎではない。わたくしは、地震と火事のドサクサまざれに空き巣でも働いた人間がつかまって、警察へ突き出されるところだな、と推測した。突然トビ口を持った男が、トビ口を高く振りあげるや否や、カまかせに、つかまった2人のうち、一歩おくれていた方の男の頭めがけて振りおろしかけた。わたくしは、あっと呼吸をのんだ。ゴツンとにぷい音がして、なぐられた男は、よろよろと倒れかかった。ミネ打ちどころか、まともに刃先を頭に振りおろしたのである。ズブリと刃先が突きさきったようで、わたくしはその音を聞くと思わず声をあげて、目をつぶってしまった。

ふしぎなことに、その凶悪な犯行に対して、だれもとめようとしないのだ。そして、まともにトビ口を受けたその男を、かつぐようにして、今度は急に足が早くなり、警察の門内に押し入れると、大ぜいの人間がますます狂乱状態になって、ぐったりしてしまった男をなぐる、ける、大あばれをしながら警察の玄関の中に投げ入れた

警察の中は、妙にひっそりしていた。やがて大部分の人間は、殺気立った顔でガヤガヤと騒ぎながら、どこともなく散っていった。ひどいことをする、と非常なショックを受けたわたくしは、そのときはじめて「鮮人」という言葉をちらりと聞いた。

〔略〕人もまばらになった警察の黒い板塀に、大きなはり紙がしてあった。それには、警察署の名で、れいれいと、目下東京市内の混乱につけこんで「不逞鮮人」の一派がいたるところで暴動を起そうとしている模様だから、市民は厳重に警戒せよ、と書いてあった。トビ口をまともに頭にうけて、殺されたか、重傷を負ったかしたにちがいないあの男は、朝鮮人だったのだな、とはじめてわかった。

場所もはっきりしている。神楽坂警察署の板塀であった。時間は震災の翌日の9月2日昼さがり。明らかに警察の名によって紙が張られていた以上、ただの流言とはいえない。

(中島健蔵『昭和時代』岩波書店、1957年)


間室亜夫〔当時松山高等学校生徒〕

「在郷軍人や青年団は竹槍や日本刀で武装して不逞漢に対抗した」

私の付近では早稲田大学と陸軍士官学校が崩壊して焼けた。2日の明け方頃から○○○○が各所に放火するという事であったが○○等は石油を所持し又は爆弾を持って盛んに火を放って廻ったらしく牛込の付近でも2、3の○○が殺されて居るのを見た。

(『愛媛新報』1923年9月8日)


牛込神楽坂警察署

9月2日午前10時、士官学校前に「午後1時強震あり、不逞鮮人襲来すべし」との貼紙ありて人心の動揺を来たし、鮮人に対して自衛の道を講じ、更に進みてこれを逮捕するもの多く、午後5時頃までに青年団員の手によりて当署に同行せるもの20名に達す。かくて3日に至りては、自警団の行動漸く過激となり、戎・兇器を携えて所在を横行するに至る、これに於て同4日その取締に着手し、警部補1名・巡査40名をして管内を巡察せしめ、以て戎・兇器の押収領置を励行せり。

しかるにその日更に「鮮人等新宿方面巡査派出所を襲撃して官服を掠奪着用して、暴行を為せり」との流言行わるるや更に警察官に対しても疑懼(ぎく)の情を懐き、制服巡査を道に要して身体の検索を為すものあり、事態容易ならざるを以て、署長は署員の軽挙を戒め、官民の衝突を未然に防ぐと共に、自警団の取締を厳にしたる結果、幸にして事なきを得たり。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)


四谷警察署

9月2日午前、士官学校の墻塀(しょうへい)に、「午後1時強震あり」「不逞鮮人来襲すべし」との貼紙を為すものありしが、強震の事に関しては、署員その虚報なるを宣伝し、幸に事なきを得たれども、鮮人の件に至りては、甚く人心の動揺を来し、その後更に「不逞鮮人等横浜方面より製来し、或は爆弾を以て放火し、或は毒薬を井戸に投じて殺害を図れり」との流言の伝わるに及びては、鮮人に対する迫害、到る所に起り、この日、午後4時30分頃、伝馬町1丁目の某は鮮人なりとの誤解の下に、同2丁目に於て某の為に狙撃せられ、重傷を負うに至れり。かくて流言益々甚しく、疑心暗鬼を生じて、便所の掃除人夫が備忘の為に、各路次内等に描ける記号をも、その形状に依りて、爆弾の装置、毒薬の撒布、放火、殺人等に関する符牒なるべしとの宣伝に依り、人心は倍々恐怖を懐けり。而してこれが調査の結果は、中央清潔社の営業上に於ける慣行の符徴なるを知り、管内一般に公表宣伝せり。この日、霞ヶ丘の某は、自宅の警戒中、通行者に銃創を負わしめたる事実あり。その6日午後10時頃、赤坂の某所に鮮人3人侵入したりとの報告に接し、署長躬(みずか)ら署員を率いて現場に臨みしが、何等の事なかりき。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年) 

〈1100の証言;新宿区/戸山・戸塚・早稲田・下落合・大久保〉

井伏鱒二〔作家、下戸塚の下宿で被災〕

〔1日夕〕鳶職たちの話では、ある人たちが群をつくって暴動を起し、この地震騒ぎを汐に町家の井戸に毒を入れようとしているそうであった。私は容易ならぬことだと思って、カンカン帽を被り野球グラウンド〔早稲田大学下戸塚球場〕へ急いで行った。

小島君〔小島徳弥〕は一塁側の席の細君のところにいた。私が井戸のことを言う前に、小島君が先に言った。スタンドにいる人たちも、みんな暴動の噂を知っているようであった。彼等が井戸に毒を入れる家の便所の汲取口には、白いチョークで記号が書いてあるからすぐわかると言う人がいた。その秘密は軍部が発表したと言う人もいた。

〔略。2日夕、スタンドで小島に〕暴動のことを訊くと、大川端の方で彼等と日本兵との間に、鉄砲の撃ちあいがあったそうだと言った。もし下戸塚方面で撃ちあいが始まったら、我々はどうなるかという不安が強くなった。

(井伏鱒二『荻窪風土記』新潮社、1982年)

橘満作〔当時29歳〕

〔2日、戸塚方面で〕表通りを4人連れの中国人学生が通る。逆上した青年団のある者は、闇にも光る閃々たる一刀をスラリと抜いて、その切っ先を学生の面前に突きつけながら、「貴様たちなどは生かしておけぬ」と大声に怒鳴りたてる。何も知らない中国人学生は、恐ろしさにブルブル慄えながら、叩頭百舞ひたすらに助命を乞うている。

早稲田大学に通う朝鮮人学生が、私どもの近くに3、4人して一戸を借りていた。たしか3日の晩であった。見知りの、土地の自警団一群が腰に一本プチ込んだり、棍棒を持ったりして、多勢で屋内の様子をうかがっている。どうしたのかと聞くと、もしも不穏な挙動があれば、たちどころに切り捨てるのだと、恐ろしい権幕である。家の中を見ると、4、5人の朝鮮人学生は怖しそうに、ローソクの光に固まっている。私どもはその学生たちの顔は常々見知っているので、そんな不穏なことをする人たちではないから、と証明しても、いっこうに聞かない。それならこの朝鮮人に対する万一の責任を負うかと言う。こんな、一杯機嫌から逆上している人びとと話をしても致し方がない。間違って脇腹あたり、竹槍がブスッと来ないものでもない。仕方がないので、土地生え抜きの老人を頼んで来て、ようやくなだめて帰ってもらうという始末で、実に利害相伴う民衆警察であった。私の知っている朝鮮人で、朱某という早稲田へ通っている男があった。〔略〕その男はあの騒ぎの最中に、友人6名とともに巣鴨方面へ避難する途中で民衆警察のために捕えられ、6人の友人はすべて殺され、彼1人は辛くも付近の交番へ駆け込んで、危うく一命を助けられた。

(「焦髪(くろかみ)日記(抄)」大正13年9月稿)

(関東大震災を記録する会編『手記・関東大震災』新評論、1975年)

遠山啓〔数学者。当時14歳〕

〔戸山原練兵場近くの家で〕2日の晩あたりから、いわゆるデマがとびはじめた。「朝鮮人が井戸に毒薬をなげこむから注意しろ」というのである。このころから、焼けた下町から逃げてきた人を近所のものがつかまえて、「朝鮮人ではないか」と尋問するような光景がみられるようになった。私がみたのは、夜になってひとりの男をつかまえて、かきねのところへ押しつけてこづいている光景だった。殺されはしなかったが、ひどく殴られてぶっ倒れていた。

〔略〕同級生から聞いたことであるが、彼は外堀の土手で、何か毛皮のようなものをかぶっている人がピストルで射殺されるのをみたという。

(銀林浩・小沢健一・榊忠男編『遠山啓エッセンス・第7巻 - 数学・文化・人間』日本評論社、2009年)

牛込早稲田警察署

管内は、9月2日午前10時前後に於て、「不逞鮮人等の放火・毒薬物撒布又は爆弾を所持せり」等の流言あり、同時に1名の男本署に来り、「昨日下町方面に於ける火災の大部分は不逞鮮人の放火に原因せるものなれば、すみやかに在郷軍人をしてその警戒に当らしめよ」と迫りし。〔略〕未だ数時間を出でずして、所謂自警団の成立を見るに至り、鮮人の本署に拉致せらるるもの少なからず。

更にその日の午後に及びては、「鮮人等は東京全市を焦土たらしめんとし、将に今夜を期して焼残地たる山の手方面の民家に放火せんとす」との流言行われ、早稲田・山吹町・鶴巻町方面に於ては、恐怖の余り家財を携えて避難するもの多し、これに於て署長自ら部下を率いて同地に赴き、民情の鎮撫に努め、かつ曰く、「本日爆弾を携帯せりとて同行せる鮮人を調査するに爆弾と誤解せるものは缶詰、食料品に過ぎず、その他の鮮人もまた遂に疑うべきものなし、放火の事、けだし訛伝(かでん)に出ずるなり」とて反覆説明する所ありしも、容易にこれを信ぜず。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)


淀橋警察署戸塚分署

9月1日午後6時40分頃、戸塚町字上戸塚に放火せるものありとの訴えに接したれども、実は誤伝に過ぎざりしが、翌2日未明に至りて鮮人放火の流言始めて起る、會々(いよいよ)同日午後1時頃に及び、戸塚町字諏訪神社境内に挙動不審の鮮人潜伏せりとの密告に接するや、直に署員20余名を派遣したるにその言の如く鮮人87名を発見してこれを検束せしかども、もとより不逞の徒にあらざるを以て取調の上、翌3日午後3時これを放還せり。

しかれども鮮人暴行の流言は益々盛んに行われ、遂に戎・凶器を携えて所在を横行する自警団の発生を促したりしが、教組の巡察隊を編成して戎・兇器の携帯を禁止せしめしに、その不可を論ずるもの少なからず、これに於て同4日自警団、在郷軍人団の幹部を招きてその旨を懇諭し、且警戒方法其他に就きて指示する所あり、更に一巡査派出所部内に2ヵ所の臨時警備所を設け、各巡査2名を配置してその取締に任ぜしめたり。

しかるに陸軍当局に於ては鮮人と社会主義者との連絡、通謀の事に対して疑を懐き、この日近衛歩兵第三連隊に命じて下戸塚なる長白寮の止宿鮮人全部並に諏訪鉄道工事場にある鮮人大工20余名を引致せしが、同6日に至り近衛騎兵連隊は社会主義者の検挙を為さんが為に本署の援助を求めしかば、同7日互に協力して要注意人8名及び鮮人1名を検束せり。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)


つづく



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