2023年10月12日木曜日

〈100年前の世界091〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;荒川区、江戸川区、大田区、葛飾区〉 「9月29日(9月29日の日記) 晴 望月上等兵と岩波〔満貞〕少尉は震災地に警備の任をもってゆき、小松川にて無抵抗の温順に服してくる鮮人労働者200名も兵を指揮し惨ぎゃくした。婦人は足を引張りまたを裂き、あるいは針金を首に縛り池に投込み、苦しめて殺したり、数限りのぎゃく殺したことについて、あまり非常識すぎやしまいかと、他の者の公評も悪い。」    

 

〈100年前の世界090〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;足立区、荒川区〉 「歩いて行く道々も、自警団があって、竹槍を持っている人、日本刀を腰にさしている人、朝鮮人とみれば惨殺するし、歩く人々の中から、ちょっとでももつれた変なことばがあれば、朝鮮人として引きずってゆく。どのくらい罪もない朝鮮人民が虐殺され、日本人民が、朝鮮人民とまちがえられて殺されたかしれない。」(中村翫右衛門) より続く

大正12(1923)年

9月3日

〈1100の証言;荒川区〉

潘瑞発(バンルイファ)

地震から3日目に3人で電車に乗って三河島へ出かけた。駅へついて一人が降りかかるといきなり鳶口でたたき殺された。われわれは降りないで逃げ帰った。

(仁木ふみ子『関東大震災中国人大虐殺』(岩波ブックレットNo217)岩波書店、1991年)


『下野新聞』(1923年9月4日)

「三河島上面より不逞鮮人が200名押寄す報」

3日朝3時頃三河島方面より下谷に向け不逞鮮人約200名集団を為し押寄すとの報に接し軍隊青年団消防等共同して極力この方面に向って警戒しつつあったが、集団して来らず三々五々やって来る。

〈1100の証言;江戸川区〉

遠藤三郎〔当時国府台野重砲第一連隊第三中隊長。参謀本部の指示で中国人労働運動家王希天(ワンシィティエン)の虐殺隠蔽にもかかわった〕

3日の朝、連隊に行ったら大騒ぎ。みな〔流言を〕本当だと思っている。私が〔郷里の山形から〕帰る前に、私の中隊の岩波〔清貞〕って少尉がね、部下20数名をつれて連隊から派遣されているんです。ところが私が留守だから、中隊長の許可も受けずにだいぶ殺しているんです。戦にいって敵を殺すのと同じように、朝鮮人、支那人を殺せば手柄になると思って。200名殺したか、何名か知りませんがね。

岩波は〔小松川の〕警備に派遣されたんです。連隊長の命令でね。どういう命令か直接には知らんけれども、とにかく朝鮮人が日本人を惨殺するって風評があったらしいんです。それで日本人を守るために派遣されたらしいんです。ところが岩波は士官学校出じゃないんです、兵隊出身の単純な男なんです。それが朝鮮人が日本人を殺すんだって、早合点しちゃって朝鮮人征伐やったんです。

だいたい連隊は大騒ぎ、「朝鮮人が暴動やっているから征伐せにゃならん」って、連隊長が血まなこになって出動させようとしている。私の部下は武装させませんでした。そうしたら連隊長にえらい叱られてね。「そんな状態じゃない。みんな武装して出ていっている。朝鮮人をやっつけなきやならん」。金子〔直〕旅団長もみんな、キチガイになっているんだな。恐ろしいもんだな。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)"


岡村金三郎〔当時青年団役員〕

ガラス屋にかくまわれた朝鮮人を亀戸警察に通告し、警察のトラックに同乗して連行する〕それから3、4日たって〔ガラス屋の〕社長に聞いたら、じつはあの朝鮮人たちは小松川の荒川土手に連れて行かれて軍隊が機関銃で撃ったらしいと言う。それで小松川の土手に埋めたということを私は知っているんです。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)"


久保野茂次〔当時国府台野重砲第一連隊兵士〕

9月29日(9月29日の日記) 晴 望月上等兵と岩波〔満貞〕少尉は震災地に警備の任をもってゆき、小松川にて無抵抗の温順に服してくる鮮人労働者200名も兵を指揮し惨ぎゃくした。婦人は足を引張りまたを裂き、あるいは針金を首に縛り池に投込み、苦しめて殺したり、数限りのぎゃく殺したことについて、あまり非常識すぎやしまいかと、他の者の公評も悪い。

(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺 - 歴史の真実』現代史出版会、1975年)


〈1100の証言;大田区〉

西河春海〔当時『東京朝日新聞』記者〕

これは7日に、大森で聞いた話しである。大森に住んでいる俺の同僚とその妹とが、その夜一晩泊めて貰った時に、かわるがわる話したのだ。話しは極めて短かい、こうである。「3日でしたか、4日でしたか、海岸で自警団の人達が、7、8人団を為して来た朝鮮人を生捕ってしまったのです。7、8人とかたまっていたので抵抗もしたでしよう。そのために只でさえ狂気のようになっている人達は、余計に昂奮したと見えて、全部を針金で舟へしばりつけて、それへ石油をかけて、火をつけて沖へ離したのですって、・・・どんなでしたでしょう」というのだ。

(横浜市役所市史編纂室編『横浜震災誌・第5冊』横浜市役所、1927年)


〈1100の証言;葛飾区〉

M

〔堀切の荒川の中で〕ヨシの間を泳いで逃げる朝鮮人を在郷軍人が舟を出して竹槍で刺し殺した。川の両側には軍人が立っていた。見物人が「竹槍で刺しちゃった。いやだなあ」。その頃、在郷軍人が通る人通る人を調べていた。四ツ木で朝鮮人が殺されたのだという話を農民から聞いた。

〔略〕小菅の監獄に兵隊が詰めていた。テンカツ(菖蒲園近く、相撲取りの別荘)にも兵隊がいて、夕方ピストルの音が聞えた(朝鮮人が殺されたという話だった)。3日頃から3、4日は続いた。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『聞き書き班まとめ』)


『いはらき新聞』(1923年9月4日)

「怒りに怒れる民衆 鮮人殴り殺さる 汽車の中で兇暴の行為」

昨夜8時水戸着の列車は避難民を満載し列車の屋根にまで乗れるほどなるが、同車には亀有より4人の不逞らしき鮮人乗込み、1名は乗車場にて民衆のため殴り殺され、残りの鮮人は車内にまざれ込み荒川沖まで暴行をなしつつ来れる報に土浦にて取調1名を下車せしめたるも無抵抗なりしと。他は見当らなかった。 


『いはらき新聞』(1923年9月5日)

(3日午後10時20分亀有にて)亀有駅付近は3日午後7時頃より消防組、青年団、在郷軍人はいずれも日本刀、手槍、猟銃等を携え武装して街路々々を警戒し、また佐倉歩兵第五七連隊の一部は、出動して夜暗に全く戦時同様の歩哨線を張って警戒している。この如き想像も及ばぬ状態は全く不逞鮮人の一団と社会主義者の一味が協力して火事泥棒を働く結果で、〔略〕金町付近に出没した鮮人は井戸に毒を入れ、また火を放たんとするので、遂に7名ほどが惨殺したとのことであるが、三河島辺にも鮮人の死屍が所々に横わっていて、この嘘のような事実が現実に首肯されているとのことである。


『東京日日新聞』(1923年10月28日)

「大震災当時に挙げた県民の善行美事(3)進んで鮮人を保護した二合半領の自警団鎮静後鮮人が謝意を表しに来た 只遺憾だったのは府下自警団の暴行」

早稲田村では9月2日夜鮮人保護を決議し村長斉藤重三郎・軍人分会長加藤武次郎・青年団長中村義男の諸氏が同村の中川改修工事に来ている鮮人18名を大字幸房に纏め他へ難を避けさせる準備中、9月3日未明に対岸の東京府下水元村から自警団が殺到し鮮人保護に任じていた大字書房区長松□繁蔵氏を殴打し右18名を奪い取って水元村大字猿ヶ俣で全部惨殺したとの事で、前記彦成と早稲田との鮮人を殺害した東京府下の自警団員十数名は目下東京地方裁判所に検挙取調べ中であるけれども、二合半領の各村は何(いず)れも鮮人保護の挙に出たのだから1名も検挙されたものはない。ただ隣郡南埼玉の潮止村煉瓦職工三角三次1名が対岸の東京府下に出かけて右暴威を振るった自警団に与したため検挙されただけの事で、無論これは二合半領各村の自警団には関係がないのである。


つづく


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