2023年10月11日水曜日

〈100年前の世界090〉大正12(1923)年9月3日 〈1100の証言;足立区、荒川区〉 「歩いて行く道々も、自警団があって、竹槍を持っている人、日本刀を腰にさしている人、朝鮮人とみれば惨殺するし、歩く人々の中から、ちょっとでももつれた変なことばがあれば、朝鮮人として引きずってゆく。どのくらい罪もない朝鮮人民が虐殺され、日本人民が、朝鮮人民とまちがえられて殺されたかしれない。」(中村翫右衛門)   

 


〈100年前の世界089〉大正12(1923)年9月3日 東京府南綾瀬村の虐殺(藤野裕子『民衆虐殺』より) 事件の概要 三つの自警団 軍隊の影響 身を挺す義侠心 虐殺と「男らしさ」 報復の恐怖 より続く

大正12(1923)年

9月3日

〈1100の証言;足立区〉

A〔当時東京在住、その後韓国へ帰国。ソウル在住〕

Aさんは都内下町の皮なめしの小さな町工場に働いていた。震災から2日後、親方に頼まれ、千住に家財道具を運ぶ途中、自警団の検問につかまり、「おまえ朝鮮人だろう。君が代を歌ってみろ! 10円50銭といってみろ」とこづかれ、そこにいた警官からも、背中を警棒でしたたか殴りつけられた。そのあと、針金で後ろ手に縛られ、荒川放水路まで連行された。〔略〕「この野郎、悪魔! 朝鮮人!」と、割烹着を着た主婦が持っていた竹槍でAさんの右足を刺したという。身動きがとれないでいるところを、今度は鳶口を持った男に背中を切りつけられ、別のステテコ男からも日本刀で肩口をきりつけられた。

そのとき、どこからか死体を積んで運んできた大八車が脱輪し、首なし死体や身重の女の裸死体が数体ずり落ちた。自警団の数人が今しも倒れそうな大八車を起こすために、Aさんのそばを離れた。さいわい日本刀で切りつけられた際、針金がはずれていたため、這いつくばって岸辺のヨシのなかに逃げ込み、誰もいなくなった深夜、水でふやけた足をひきずりながら、やっとの思いで工場に帰りついた。

そのあと憲兵隊によって習志野に連行されだが、そこでもむごい拷問をうけたという。

〔略〕突然壇上のAさんは制止を振りきって上着を脱ぎ、上半身裸になり会場のみんなに背中を見せた。おびただしい鞭の傷跡や焼けただれたような皮膚、肩から腰にかけての刀傷、この傷を60年間背負ってきていたのかと思うと、撮影を許されていた成田氏は、どうしてもシャッターを切ることができなかった。

(「関東大震災記念集会」セジョン文化会館、1982年→『東葛流山研究』第22号、崙書房出版、2003年)"


堀口登志〔父親が荒川放水路工事の現場監督〕

震災のあった時父たちは、本木のはずれ、今の寺田病院のそばの空き地を内務省が借りてくれて、そこに住んでいたそうです。あのあたりは昔はまだ家も少なく、吉祥院から寺田病院にかけては大きな竹やぶがいくつもありました。

〔略〕3日ごろか、父の顔見知りの数人の朝鮮人がきて、「追われている」と言う。本木にはかなりの数の朝鮮人がいたのです。父はそこをはなれられないので、その朝鮮人たちは友達や仲間を集めに走りました。たちまち50人ほどの人が集まったそうです。すると青年団や消防団の人たちが竹やりをもって集まり、この人たちをとり囲んだそうです。

そこへ梅田で紙スキをしていて「おかしら」と呼ばれていた叔父の深井も来てくれました。父の〔菅原〕徳次が「この者たちは悪いことはしない。内務省の仕事をしているんだから。私は内務省の役人だから、この者たちのことに責任を持つ。もしやるなら俺の命と引きかえにしろ」とどなったところ、誰も手出しをしなかったと聞きました。

その頃の内務省といえば、誰でも言うことをきいたそうです。けれども竹やりでとり囲まれたのを見ていた母は、「こわくてこわくて、その後も思い出すたびに動悸がした」と言いました。結局最後は警察に渡したのではなく、「それならいい」と了解して終わったそうで、この人たちの中からは一人の事故者も出さなかったそうです。だからこの人たちはなつかしがって、この後もよくお盆などにきてくれました。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第62号、1992年)


『報知新聞』(1923年10月20日)

〔3日〕李順風(イスンブン)は府下南綾瀬村字柳原の自宅で同居隣人6名と共に千住町自警団友野済蔵(47)山崎濱吉(20)田口清三(22)中山金治(36)村松治(21)等の為めに日本刀で虐殺され更に同家から逃走した李興順(イフンスン、31)は翌朝同地付近の田圃で伊藤金次(26)吉野市五郎(41)等に殺害された。


『報知新聞』(1923年10月20日)

李熙玄(イヒヒョン)は9月3日夜10時頃避難の途中西新井村役場前で同村在郷軍人内田傳蔵(30)吉沢亀太郎(38)手塚分会長の3名に猟銃で射殺された。


『国民新聞』(1923年10月21日)

9月3日午後5時頃府下千住町2ノ881番地にて鮮人韓龍祈(ハンヨンギ、29)を撲殺した犯人同町中組605鳶職高橋義興(24)同町松井榮之助(27)の所為と判明収監さる。


『法律新聞』(1924年1月30日)

「鮮人殺し自警団員の判決」

昨年9月3日の夜府下西新井村興野通りで鮮人1名を猟銃で射殺した自警団員同村内田傳之助(30)及び製紙業吉澤亀太郎(27)に係る殺人事件の判決言渡は、去月30日午前11時東京地方裁判所刑事3部宮城裁判長帯金検事係で開廷され被告両名に対し懲役2年但し3年間執行猶予の判決言渡しがあった。


〈1100の証言;荒川区〉

H〔当時12歳、済州島生まれ。渡日2日日に被災〕

3日目に、とにかく警察と軍隊が朝鮮人と中国人を皆殺せと言ったもんだから、そこを出るの皆いやになったんです。その学校には40日間おったですよ。荒川区立第二はけ田〔峡田〕小学校に。表に出なかったので震災のことはぜんぜんわかりません。〔略〕ここの学校に着いてみたらほうぼうの人が40人位いたけれども言葉が通じないですよ。今は韓国もみな同じ言葉になったけれど、その時分は「陸地」〔本土の意〕にいた人の言葉は絶対わからないですよ。

〔略〕米だって3日位たってからきたんだ。ごはん炊く所にもちゃんとおまわりと軍隊が立って番しているでしょう。入り口にも二人ずつ立っているし。表には竹槍を持ったやつがいっぱい立ってて飛び込んで来るんだからね。

ケガした人はいなかったね。皆、平和になってからバラバラに表に出てきた。〔略〕隣村の人も皆、オフクロの村だの、顔を知っている人は大勢いたから、その人らと一緒に帰ったんですよ。その人達は皆別々に他の学校に持ってかれたんだ。〔略〕そのおじさんと一緒にいられなかったのかって、ついて行こうったってだめなんだ。自分の付き合っている人間だけ隠していたんだ。防空壕みたいなものを床下に掘って、そこでやっぱり40日位過ごしたんだもの。隣近所の人達は、そこに朝鮮人を使っていたということを知っているから、皆見張ってるから、出て来れないですよ。一所懸命働いたから匿われたんじゃないですかね。

〔略〕三河島で中国人2人を殺すのを見たな。今の常磐線が下を通ってた頃、その上に夜泊っていたから。近くに中国人が3人か4人住んでいたんですよ。その人かどうか知らないけれど殺された。すごい声で泣いているの聞えたよ。鉄道の上でやられているらしくて。軍隊とおまわりに皆連れて行かれたんですよ。縄でつながって行ってるのを後ろからぶち殺された人も随分いたらしいですよ。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第28号、1985年)"


内田良平〔政治活動家〕

3日朝尾久町大字上屋久に於て2名の怪しき鮮人あるを認め〔略〕一人を撲殺し、一人は半殺しのまま同町佐藤病院に入院せしめたり。

(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)"


中村翫右衛門〔歌舞伎俳優〕

〔3日、日暮里へ向かう〕私たちはのどがかわいて、水をもらいたいと思ってももらえなかった。その家ののむ水だけでもいっぱいなのだ。井戸に張札がして、不逞鮮人が毒を投げこんであるから、のんではいけないと記してある。

私たちはわけはわからないが、不逞鮮人を憎いと思った。こんな苦しいときに、こういう惨虐なことをやる、ちくしょう!どうしてやるか見ろ! こういう怒りが、時が時、自分が苦しんでいるときだけに、いっそう強くこみあげてくるのだった。私は後にこのときの真相を知ったとき、身ぶるいした。

〔略〕歩いて行く道々も、自警団があって、竹槍を持っている人、日本刀を腰にさしている人、朝鮮人とみれば惨殺するし、歩く人々の中から、ちょっとでももつれた変なことばがあれば、朝鮮人として引きずってゆく。どのくらい罪もない朝鮮人民が虐殺され、日本人民が、朝鮮人民とまちがえられて殺されたかしれない。

(中村翫右衛門『人生の半分 - 中村翫右衛門自伝』筑摩書房、1959年)


つづく

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