2023年11月2日木曜日

〈100年前の世界112〉大正12(1923)年9月4日 亀戸事件(4) 犠牲となった平沢計七の生涯 略年譜 「一時『労働週報』は自由連合派にかたむくもののごとくみえ、その種の論文がたくさんにのった。しかるに平沢が編輯署名人になってからは、その態度がすっかりのぞかれ、両派の意見を公平に掲載し、平沢自身はそれに中立的の態度を持した。ぼくはひそかに彼の編輯ぶりに感心していたものである。」(土田杏村)

平沢計七(最前列の白服)

〈100年前の世界111〉大正12(1923)年9月4日 亀戸事件(3) 二村一夫『亀戸事件小論』 4.事実に関する異説の検討 (2)何時殺されたか (3)殺された場所・方法 (4)殺された人の数 より続く

大正12(1923)年

9月4日 亀戸事件(4)

亀戸事件の犠牲者たちの概要については、下記(↓)が参考になる。

亀戸事件で殺された10名の若すぎる同志たちよ! (読書メモ)

このうち、よく名の知られた平沢計七(当時34歳)と川合義虎(当時21歳)に関して、土田杏村はこう書いている。

「ぼくが従前からその思想を知っていたのは、平沢計七、川合義虎の二人である。前者は『労働週報』の編輯者であり、後者は南葛労働組合の幹部であった。南葛労働組合の名をぼくが知ったのは、本年春、本所の汽車会社事件のときからであったが、この事件は労働者のうちの集中主義派と自由連合派の争いのもっとも露骨になったものとして有名であった。川合義虎らの南葛労働組合はそのなかの集中主義派にぞくしていた。川合の書いた論文は『労働新聞』などにのっているが、その趣旨は自由連合主義を攻撃したものであり、彼ら自身の立場については語るところがない。しかしボルシェヴィズムにかたむいた組合の集中主義を信奉していたことだけは疑うべくもない。

 平沢計七は『労働週報』の編輯者であったから、ぼくはもっともひんぱんに彼の思想をうかがうことができた。彼は労働組合の発達に力を注いでおり、社会主義やアナーキズムにたいしては、なるべく中立的態度を取ろうとしていたようである。これは編輯者たる彼の地位がそうさせたのでもあろうが、とにかく彼はつねにそのことを公言していた。一時『労働週報』は自由連合派にかたむくもののごとくみえ、その種の論文がたくさんにのった。しかるに平沢が編輯署名人になってからは、その態度がすっかりのぞかれ、両派の意見を公平に掲載し、平沢自身はそれに中立的の態度を持した。ぼくはひそかに彼の編輯ぶりに感心していたものである。

 新居格が『週報』の立場を『解放』に書いて、『週報』は従来自由連合主義にかたむいていたが、最近にはふたたびボルシェヴィキの態度を復活させるそうだと書いたときには、平沢はすぐにそれを誤報だと取り消して、

『労働週報はアナーキーでもなければ、ボルシェビキーでもない。合同派でもなければ、自由連合派でもない。いま労働者共通の階級意識を訴えて、資本主義を倒す剣であり、その事実を報道する筆である。同時にまた、全労働者の友情に訴えて、意志の疎通、感情の融和を計る「暖き手」である。』 (『労働週報』 一九二二年十二月十二日)

 と書いた。

 ぼくはさらに平沢が、たんなる暴力主義者ではなく労働争議の場合には、つねに穏健の手段を取ることにつとめてきた人だということを、ここへとくに記載しておきたい。大島製鋼所の争議に平沢が加わっていたため、官憲は彼をその煽動者ともくし、あらゆる圧迫の手段をとったとき、彼が憤慨して書いた一文のなかにつぎの言葉はよく彼の態度を語っている。またその煽動は事実でなかった証拠には、平沢自身が書いているとおりに、彼は監獄へもどこへもぶち込まれずにすんだのである。

おれはかつて労働争議に関係したことが、過去七、八年間にわたって、百件以上にのぼっている。しかしながら幸か不幸か、いまだ暴行事件をひき起こしたことはない。それは一面急進論者にたいして相すまんことであると思っているが一面、悲惨な谷底へ蹴落さるる労働者を見るにしのびなかったからである。』 (『労働週報』 一九二二年十一月二十一日)

 こうした態度の平沢が、いかに混乱をきたしたときとはいえ、古森警察署長のいうごとき事実をなしたとは、どうしても考えられない。」 (土田杏村 『流言』)

 

以下、Wikipediaほかのネット上の情報を基に平沢計七の略年譜を作ってみた。

平沢計七の人生は、地方の鉄道労働者として始まり、兵役を経て、中央の労働運動に奔走。また、平沢は労働運動と並行して、日本初の労働劇団を創立したり、雑誌の編輯に関わったり、労働金庫や消費生活組合(「生協」の前身)などの提言・実行に奔走した。

《平沢計七略年譜》

1899年7月14日、潟県北魚沼群小千谷町(現、小千谷市)に生まれる。

小学校を卒業後、日本鉄道株式会社(現・JR東日本)大宮工場に就職した父に連れられて、同工場付属職工養成所に入る。ここで3年間、近代的鍛冶工としての技術を身につける。

この間、文学に興味を持つようになり、『万朝報』や『文章世界』などに投書するようになる。

職工養成所を卒業後、3年間、大宮工場で働き、その後、鉄道院工作局新橋工場に移る。

新橋工場時代には、日露戦争に非戦的立場を取った劇作家小山内薫に憧れ彼を訪ね、劇作の指導を受け、小山内の紹介で雑誌『歌舞伎』にゴーリキーの影響が見られる戯曲「夜行軍」を発表。

20歳のとき、徴兵で習志野の近衛歩兵第二連隊に入隊。

1912年春、一等兵で除隊し、新設の浜松工場に移される。この浜松時代に、鈴木文治らの友愛会の運動を知り、そこに労働者として生きる希望を見出す。

1914 年、彼は、上京して南葛飾郡大島(現・江東区大島)にある東京スプリング製作所に就職し、友愛会江東支部に入会する。

同年7月には100名(400余名とも?)を組織して友愛会大島支部を結成。

一方で、彼は、芸術も労働運動に随伴すべきであると主張し、まず大島分会に「労働短歌会」を創立、友愛会の機関誌『労働及産業』紙面を労働者短歌投稿で賑わせる。

また「民衆劇団」の旗揚げを視野に『労働及産業』に劇作を投稿、その一つである「工場法」は、3ヵ月後に施行されることになっていた工場法が一体どういうものなのかを具象的に明らかにした劇で、どんな抽象的な論説や解説よりも効果的であることが幹部たちに認められる。

友愛会本部書記に抜擢され、機関誌『労働及産業』や『友愛婦人』を編集するとともに、関東出張所の書記も兼務し、東日本の労働争議の指導にも当たる。

その後、野坂参三に代わって出版部長に任命される。

1918年(米騒動の年)、10月には東京鉄工組合が結成される。

彼は、亀戸、大島、城東、鶴東の四支部による城東連合会を結成。

12月、五の橋館で500人が参加する労働運動演説会を開催。

城東連合会には平沢の指導で、倶楽部、図書館、弁論部、文芸部、家庭部、余興部、労働問題研究部、労働争議調停部などの事業部門も創設されている。

城東連合会はやがて独自の活動方法によって関東地方で最大最強を誇る労働組合組織となる。

1919年6月、それまでに労働運動の機関紙誌に発表した小説や戯曲を集めて『創作 労働問題』(海外植民学校出版部)を出版。序文で彼は「『労働問題』に現れた労働者は哀れで悲惨で無智なものが多い。彼が熱望してゐるやうな巨人は、其強い意志のカケラさへ現して呉れぬ」と書いている。同書所収の戯曲「一人と千三百人」は、労働争議が団体交渉まで真正面から描き出した、日本文学における最初の作品だといわれている。

1919年7月、大島製鋼所の争議と久原製作所亀戸工場(のちの日立)争議と21日間のストの敗北をめぐって、友愛会関東大会で平沢計七への弾劾決議があげられ、亀戸支部の渡辺政之輔と東京鉄工組合の山本懸蔵、棚橋小虎らが平沢批判に同調する。

労働争議を個人プレーで解決したとして脱会勧告決議案が提出、採択され、平沢は、連合会参加の300名とともに友愛会を脱退する。

(友愛会は、この年1919(大正8)年夏、第七周年大会を機に大日本労働総同盟友愛会と改称、友愛会時代は終わって近代的労働組合へ進んでいく。更に、1921(大正10)年、神戸の三菱・川崎争議を闘い、日本労働総同盟と改称する。)

1920年10月2日、平沢計七たち城東連合会組合員約300人は、新たに純労働者組合を結成。平沢は代表に選ばれる。

この活動のなかで、平沢は新たな課題に挑戦する。平沢は、「資本主義から分離した共同自治の理想社会」の「分離運動」をアピール。まず運動の拠点として労働会館を作り、次に関東地方での消費協同組合の先駆となった「共働社」をはじめ、労働金庫、労働者のための夜学校「文化義塾」、「技芸員であると同時に観客である」とする労働者劇団「労働劇団」を立ち上げる。

1921年2月、平沢は3日間ながら大島町の寄席、五の橋館で自作の「労働劇」を上演。それは舞台と観客の一体という演劇の理想を実現したものとして、観劇に訪れた小山内や土方与志らを感動させる。「労働劇団」は、その後の自立劇団の先駆となる。

1922年4月、日本における労働組合の統一組織となる筈だった「総連合」の設立運動に積極的に加わり、関東地方の非総同盟系の鉄工組合を組織して機械労働組合連合会を組織。

同年9月、大阪で開かれた創立大会に臨んだ。しかし、大会は「中央集権」を唱える総同盟派と「自由連合」を主張する無政府主義系とが激突、空中分解する。

1923年(大震災の年)の1月、関東地方の非総同盟系の統一組織である「労働組合同盟会」の機関紙『労働週報』の編集常任に選ばれ、同紙を「総聯合」再建のメディアと位置づけ、1面を「自由討論欄」とし、「思想や意見の違いは議論で。一致できるところでの統一行動を」というルールを定着させようとした。それは次第に効果を発揮し、治安維持法の前身である「過激社会運動取締法案」が国会に上程された時には、思想や党派を超えた労働組合の全国規模の共闘組織が生まれ、東京だけでも1万に及ぶデモや集会が組織され、同法案を廃案に追い込んだ。

1月5日夜、労働週報社(社長山崎今朝弥・編集者平沢計七)読者懇談会「週報雑談会」に集る都下の組合活動家に農民組合・水平社や、名古屋・大阪からの参会者を加え、出席者50余名が過激社会運動取締法案反対の運動方法を協議。過激社会運動取締法に反対する労働組合の共同戦線が構築されつつある。

しかし、4月19日、『労働週報』は廃刊する。山崎今朝弥の労働戦線統一の企ては破れ、彼は意欲喪失。する

1923年5月~7月(大震災まえ)の錦糸町の汽車製造会社ストライキでは、平沢は反総同盟側で、渡辺政之輔ら総同盟系と激しく対立していた。

9月の震災時には大島製鋼所の争議に関わっていた。

〈略年譜おわり〉


つづく



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