大正12(1923)年
9月4日
亀戸事件(3)
二村一夫『亀戸事件小論』(要旨)
4.事実に関する異説の検討
(2)何時殺されたか
殺害日時は、古森亀戸署長談として各紙が伝えるところでは、自警団員4人は9月4日午後9~10時、労働組合員10人は5日午前3~4時である。しかし、報知新聞だけは労働運動者の殺害は9月3日夜におこなわれたと報じている。この点については、自由法曹団調書のなかにも両説ある。
4日説は殺された北島と広瀬自転車製作所の同僚であった庵沢義夫の聴取書である。庵沢の証言によれば、彼は10月15日、工場長の妻から「九月五日早朝刑事カ来テ北島君ハ四日晩ニヤッタカラ手当ヲヤル必要ハナイモウ交渉ニモ来ナイト主人ニ小声デ話シテ行キマシタ」と聞いたというのである。
一方、3日説は八島京一、全虎岩の聴取書である。八島京一は「私ノ考ヘデハ平沢君ハ3日ニ連レテ行カレルト其夜ノ中ニ殺サレタモノト考ヘラレマス」として、その理由をあげている。それは、9月4日朝、知り合いの巡査から「昨夜ハ主義者モ八人殺シタ」と聞き、死体を焼いたと思われる場所に行ったところ平沢のものとおぼしき靴を発見した事実である。全虎岩聴取書は、4日夜、亀戸署内において立番中の巡査から「昨夜ハ日本人七八名、鮮人共十六名殺サレタ」と聞いたことを述べている。
私(二村)が3日夜(4日未明も含める)説をとる理由。
庵沢聴取書と八島および全聴取書をくらべた場合、後者により高い信頼度があると考えられる。庵沢証言は伝聞であり、対して八島、全の両証言はいずれも本人の直接の体験にもとづいている。しかも、一方は犠牲者と直接関係のない工場長の妻が、40日も前に聞いたことの記億であり、一方は友人の安否を気づかつている八島、あるいは何時殺されるかと恐怖におののいていた全が、事件直後に自ら見聞したことを内容としている。しかも八島証言には平沢の靴という「物的証拠」がある。
(3)殺された場所・方法
労働運動者10人の殺された場所、殺し方についてもいくつかの異説がある。警察発表では亀戸署内演武場右手の広場で兵士の銃剣により刺殺されたことになっている。だが、これには反証がある。
その一つは川崎甚一聴取書である。彼は亀戸町水神森の自転車商諸岡から聞いた話として次のように供述している。
9月3日午前一2時頃(午後12時の誤りではないか。川合らが検束されたのは3日夜のことである)諸岡は5発の銃声を聞き、亀戸署から2丁ほど離れた第四小学校南の塵介埋立地の現場にかけつけたところ4人の銃殺死体があり、亀戸署の伊藤巡査部長は「これは社会主義者だ」と言い、「まだあと二人殺さなければならない」とも言つたという。その後しばらくして警察の方で二発の銃声が聞こえたという。川崎はこの4人のうち二人は服装などから北島と加藤であると推定している。また庵沢義夫聴取書にも小島一郎方でこれとよく似た話を聞いた事実が述べられている。ただし、場所は第一小学校裏、人数は6人となっている。
警察発表に対する第二の反証は、志賀義雄『日本革命運動の群像』ではじめて発表された二葉の写真である。この写真があることは山崎今朝弥の平沼にあてた公開状のなかで述べられており、鈴木茂三郎氏もこれと同じものと思われる写真の原版を所蔵していたことがあるという(同氏『ある社会主義者の半生』)。
この写真は1枚は平沢計七の首と胴とが切り離されたもの、もう1枚は北島と鑑定される首がすえてあるものである。写真にはそれぞれ三体の死体が写っており、いずれもまったく衣服をつけていない。死体には刺したあとも見られるが、生きているうちに首を斬った証拠に傷口がめくれていると志賀氏は推論している。また場所は当時の荒川放水路であるとも推定されている。江口喚氏は、この写真は仲間を殺された自警団員がとったなかにたまたま写っていたものだとして、次のような事実を述べている。亀戸署内で殺しきれなかった者は荒川放水路にはこばれ、軽機関銃の標的にされた。死にきれない者が出ると1人1人軍刀で首を切ったが、その中に平沢、北島がいた。(関東大震災と社会主義者、朝鮮人の大虐殺『関東大震災と亀戸事件』刀江書院、1963年所収)また、江口氏は、川合だけは連行される途上で補助憲兵に殺されたのが事実らしいとも言われている(大震災とファシズムXの失敗『戦旗』第3巻第15号)。
以上の材料だけで、殺された場所や方法を確定することは困難だが、平沢の首の写真を見れば警察発表が事実に反していることだけは確実だと思われる。
(4)殺された人の数
犠牲者の数については、3日説をとる証言で注目されるのは、いずれも同夜殺された「主義者」の数を8人としていることである。この事実は、さきにふれた大杉事件の森調書が「亀戸では八人ばかりやっつけた」としているのとも合致する。とすると、10人は一緒に殺されたのではなく、3日夜に8人、あとの二人は別の時に殺されたものと思われる。8人は誰であり、二人は誰であるのか。あえて推論すれば、8人の方は3日夜警官隊によって検束された平沢、川合、加藤、北島、山岸、近藤、鈴木、吉村であり、二人の方はそれより先に亀戸町香取神社のあたりで捕えられた佐藤、中筋ではないだろうか。なお、中筋については「組合の者では無い」(東京朝日)とされ、自由法曹団の調査の対象にもなっていない。このため従来の文献では、亀戸事件の犠牲者を中筋をのぞく9人としているものが圧倒的に多い。しかし、中筋宇八が平沢と同じ純労働者組合の組合員であったことは同組合理事長だった戸沢仁三郎氏の証書があり(『労働運動史研究』第36号)、訂正の要がある。尚、1924年2月17日におこなわれた亀戸事件の労働組合葬には、労働運動の闘士として中筋も名も見える(『労働』第13巻第3号)。
また、山崎今朝弥によれば亀戸事件の犠牲者はこのほかにもあったという。彼は亀戸事件について平沼司法大臣にあてた痛烈な公開状を発しているが、(『地震憲兵火事巡査』に収録」)そこで塚本労技会幹事、寺島の柔道師範が殺されたことは「動かす可からざる確証ある」ものと論じている。日本労技会は日本車両会社などに組織をもち機械労働組合聯合会に加わっていた労働組合である。「請地ノ柔道ノ先生」が殺されたことは南厳聴取書などにも出ている。
しかし、実際には亀戸事件の犠犠者はこれにとどまらない。
警察も軍も政府もこれについては一切語らないのが、9月3日から5日にかけて多数の朝鮮人が亀戸署内で殺されている。その正確な人員は不明であるが、吉野作造が朝鮮罹災同胞慰問班から聞いた数字として書き残しているところによれば87人、金承学調査によれば36人である(姜徳相「大震災下の朝鮮人被害者数の調査」労働運動史研究第37号)。また全虎厳(岩?)氏の体験記(前出)によれば、亀戸署内の死者は同氏が実見しただけでも50~60人はあったという。
亀戸事件を単に平沢、川合ら10人の労働運動者が殺されたことだけに限っては、事件の全容は明らかにならない。亀戸事件の犠牲者としてはこの他にも、4人の自警団員、塚本労技会幹事、柔道の先生、多数の朝鮮人そしておそらくは何人かの中国人の虐殺をも含め、そしてまた殺されこそしなかつたが藤沼栄四郎、南厳、村田兄弟らに対する不法なリンチをも含めて考えられなければならない。
おわり
初出は法政大学大原社会問題研究所『資料室報』138号(1968年3月)。その後、『自由法曹団団報』第49号(1968年7月)、および『歴史評論』第281号(1973年10月)に再録
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