2023年11月8日水曜日

〈100年前の世界118〉大正12(1923)年9月4日 〈1100の証言;江東区、品川区、新宿区、墨田区〉 「地点は安田邸の下流100メートルほどの隅田川岸で、針金で縛した鮮人を河に投げては石やビール瓶などを放っている。それが頭や顔に当ると、パッと血潮が吹き上がる。またたくうちに河水が朱に染まって、血の河となった。(略)その南門のところに、〔略〕5、6人の鮮人が、例のごとく針金でゆわえつけられ、石油をぶっかけて火をつけられている。生きながらの焚殺だ。(略)鮮人の虐殺を見て帰途、錦糸堀に来ると、路上に浅黄の中国服を着た若者の死体が転っていた。大島3丁目の中国人寮にいる人だ。」

 

朝鮮の抗日闘争や独立運動の殲滅を実行した軍や兵士の経験と「思想」が、日本社会に還元されるという経緯

〈100年前の世界117〉大正12(1923)年9月4日 〈1100の証言;北区、江東区〉 「義兄の家からややはなれた所に大きな広場があった。今の江東区大島8丁目、富士急行バス営業所のあるあたりである。その広場へ3日の午後になってから、どこからともなく沢山の死体が運びこまれてきた。いずれも惨殺された男女の遺体である。私は4日の朝、その場所へ行って見ておどろいた。屍山血河という形容詞がそのまま当てはまるような鬼気迫る情景であった。ある人は300体くらいあるだろうといい、またある人は300体ではきかないといっていた。」 より続く

大正12(1923)年

9月4日

〈1100の証言;江東区/旧羅漢寺〉 

藤沼栄四郎〔社会運動家、南葛労働会創設者〕

この頃〔4日〕朝鮮人虐殺事件が盛んであったので、大島町のラカン寺の蓮池に行ってみたら池の中に20~50名位の朝鮮の人が竹槍で突かれたのか臓腑が飛出している者もあり、橋の下に殺されている者もあり、目も当てられない有様だった。

また同志遠山君が見たことだが、大島町には朝鮮・中国の人がたくさんいたので、これを警官が皆連れて行き十間川のほとりに立たせ、それを川の中に突き落として軍隊が銃殺したのだった。

(「亀戸事件の犠牲者」『労働運動史研究』1963年7月号、労働旬報社)

〈1100の証言;品川区/品川・北品川・大崎〉

品川警察署

かくて鮮人に対する人心の動揺は日を遂いてはなはだしく、9月4日大井町方面においては鮮人既に管内に入れりとて警鐘を乱打するものあり、警戒隊馳せて現場に赴けば、横浜より来れる7名の鮮人と1名の同胞とを包囲せる多数の民衆は将にこれに危害を加えんとして闘争中なりしかば、即ち民衆を戒めて鮮人等を保護検束したるに、幾もなくして品川橋南側において鮮人を殺害せりとの報告に接し、直に署員を急行せしめたるに、実は猟師町の一青年の鮮人と誤解せられ、瀕死の重傷を負えるなりしかばこれを品海病院に護送して手当を加えたれども数時間にして絶命せり。この外大井町の某々等2名の内1名は同町において殺害せられ、1名は重傷を受けたり、しこうしてまさに迫害を受けんとする鮮人を救護して本署に収容せるもの47名に及べり。

既にしてまた流言あり「鮮人を使嗾する者は社会主義者なるぺければその患を除かんにはこれを応懲するに若かず」と。時に要視察人某は同志十数名と共に大井町に住し、某雑誌を発刊し居たるが、これを知れる民衆はこれを危険視して注意を怠らざりしが、會ゝ(いよいよ)某等もまた自警団員としてその任に就けるの際、部下の某は兇器を忘れたりとてその寓に到りしに、門戸堅く鎖して閲かざるを以て、板塀を乗りこえて屋内に入りしが、これを見たる民衆は鮮人が主義者の家に来りしものと誤解してこれを殴打して昏倒せしむるに至れり。

かくて要視察人の身辺また危険なるを慮り、遂に某々等を始め数名を保護検束し、かつ某は曩に負傷せるを以て応急手当を加えたり。

(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

内田良平〔政治活動家〕

4日夕刻代々木富ヶ谷に於て1台の自動車渋谷方面に向って疾走し来れり。〔略〕第二の警戒線たる富ヶ谷二ノ橋に差しかかりたる時あたかも第一警戒線より追跡し来りたるものに追付かれ、この第二線に於て喰い止められたり。その自動車内には4人の鮮人と日本人の運転手とありたるが、詰問の結果その答弁頗る曖昧にして不逞鮮人なること明かとなりたるため或はこれを殴殺し或はこれを傷けたる末渋谷驚察署に引渡したり。

(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)


〈1100の証言;新宿区/戸山・戸塚・早稲田・下落合・大久保〉

方珠源〔当時早稲田大学工科(夜間)に留学中〕

9月3、4日頃火が鎮まった。4、5日たってから電信柱に「不逞鮮人200名中野に爆弾投下」「品川で不逞鮮人3千名暴動を起し襲ってきた。自警団が戦ったが負けた」と書いたビラが貼ってあった。新聞社の名前で流言ビラがまかれた。小石川付近で鐘を鳴らして「不逞鮮人が橋の下に入った」と騒いで調べてみたところ杭だったという話を聞いた。朝鮮人識別法は「鉢巻をしてみろ」といって、できれば日本人、できなければ朝鮮人とされた。自分は虐殺の現場を見ていない。自分が殺されるので外には出なかった。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『韓国での聞き書き』、1983年)


〈1100の証言;墨田区/吾嬬・小村井〉

鈴木忠正〔裁判官、弁護士〕

〔4日に亀戸で聞いた話〕あくる日の午後、曳舟に住んでいる同郷の父と知り合いの人が見舞いにきてくれた。

その人は、東武線の線路をつたわってあるいてきたが、途中あちこちに朝鮮人の死体があった。それは、焼け死んだのではなく惨殺された死体で、腹を断ち斬られたうえにその傷口に小石をたくさん投げこまれたままの姿で線路の上に横たわっているものや、顔や頭をめちゃめちゃにされて男か女かも分らなくなっているものなど、どう見ても大勢でよってたかって虐殺したものにちがいないと思った、とその人は話していた。

朝鮮人のあまり住んでいない滝野川でさえ、前に述べたように、1日の午後にはもう朝鮮人暴動の噂がとんで、人々は不安に駆られ自警団をつくったほどなので、朝鮮人の多く住んでいる地区では、そのような噂がいっそう大きく伝わり、人々を恐怖に怯えさせたのであろう。それにしても、いいかげんなデマを信じて、かえって日本人が集団で朝鮮人を虐殺するとは、なんということだろう、と、いまさらながら人間の野獣性の怖ろしさをしみじみと感じたことであった。

(鈴木忠五『青春回想記』矢沢書房、1980年)

〈1100の証言;墨田区/請地・押上・横川〉

司法省「鮮人を殺傷したる事犯」

4日午前12時、吾嬬町請地飛木稲荷神社附近で、池田安太郎外3名が朝鮮人2名を鍼、鉄棒、木刀で殴打殺害した。

(美徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)


『東京日日新聞』(1924年9月17日)

「請地の鮮人殺しは無罪」

府下吾嬬町請地116素封家横山金之助(50)、外木造直七(41)、永澤八郎(21)、橋本徳二郎(42)、池田廉太郎(29)の5名は昨年9月5日吾嬬請地飛木稲荷踏切りで鮮大崔先外2名を斧にて殺害した嫌疑で亀戸署に検挙され殺人罪として東京地方裁判所で審理中の所、16日午前10時同裁判所刑事1部久保裁判長永井検事立会で公判に付せられ証拠不十分で5名とも無罪の判決を言い渡された。


〈1100の証言;墨田区/菊川橋・錦糸町・亀沢〉

湊七良〔労働運動家〕

〔4日〕本所区亀沢町都電車庫の焼跡に針金で後手に縛られて30歳位の美男の青年が、座っていた。2人の憲兵がそれを護っている。自警団は渡してくれと交渉している。この美男鮮人は毒を投じたというのだ。やがて憲兵はどこかに連れ去った。

その日は九月四日頃だ。両国河岸の食糧品倉庫から避難民が、ビール、缶詰などの食料品を掠奪している。吾々も三人で同調して担げるだけ持ったはよいが、パトロール中のお巡りに見つかって全部取り上げられてしまった。

その食糧品倉庫のところに来たところ大変な惨虐が展開されているところであった。

地点は安田邸の下流100メートルほどの隅田川岸で、針金で縛した鮮人を河に投げては石やビール瓶などを放っている。それが頭や顔に当ると、パッと血潮が吹き上がる。またたくうちに河水が朱に染まって、血の河となった。

罪なき者を! 罪なき者!! と悲痛な叫び声が今でも耳朶に残っている。これをやっているのが、理性を失った在郷軍人団の連中であった。

それから目と鼻の先に安田邸の焼跡がある。川に面した西門と横川の南門とがそのままに保たれていた。その南門のところに、〔略〕5、6人の鮮人が、例のごとく針金でゆわえつけられ、石油をぶっかけて火をつけられている。生きながらの焚殺だ。〔略〕現実に見たのはこのときが初めてだ。人数も5、6人と書いたが、勘定しているゆとりなどない。それにこの人達は半死半生の態で気力を失っていたのか、それとも覚悟していたのか、隅田川に投げ込まれた人々のようにひとことの叫びもしなかった。ただ顔をそむけて去る私の背後にウウッ!!といううめきの声が、来ただけだ。

〔略〕大島3丁目などは焼土化から免れた。私が仮宿していた友人の家の近くに、中華民国の当時苦力と呼ばれていた労務者が大勢居住していた。鮮人の虐殺を見て帰途、錦糸堀に来ると、路上に浅黄の中国服を着た若者の死体が転っていた。大島3丁目の中国人寮にいる人だ。

当時は江東方面の川といわず、いたるところ死屍がごろごろしていた。錦糸堀終点の馬車の中に、真黒焦げになって死んでいる人が沢山焼電車に乗ったままになっていた。この中華民国の苦力の死は勿論、地震によってまねいた自然死でなく、自警団の犠牲によるものである。この死体の腰に、大きなウナギが針金でぶら下げてあったのが印象的であった。

(「その日の江東地区」『労働運動史研究』1963年7月「震災40周年記念号」、労働旬報社)


つづく



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