2023年11月7日火曜日

〈100年前の世界117〉大正12(1923)年9月4日 〈1100の証言;北区、江東区〉 「義兄の家からややはなれた所に大きな広場があった。今の江東区大島8丁目、富士急行バス営業所のあるあたりである。その広場へ3日の午後になってから、どこからともなく沢山の死体が運びこまれてきた。いずれも惨殺された男女の遺体である。私は4日の朝、その場所へ行って見ておどろいた。屍山血河という形容詞がそのまま当てはまるような鬼気迫る情景であった。ある人は300体くらいあるだろうといい、またある人は300体ではきかないといっていた。」   

 

〈100年前の世界116〉大正12(1923)年9月4日 〈1100の証言;足立区、荒川区、板橋区、江戸川区〉 「今井橋には習志野の騎兵連隊が戒厳令で来ていた。当時、富士製紙には・・・木下組という運送の下請があって、その飯場に朝鮮人も働いていた。9月4日頃だったか、3人ばかりがひっぱられ軍隊に引渡され、夕方暗くなってから鉄砲で殺されるのを見た。(略)この飯場には沖縄県人もいた。・・・日本語がうまくしゃべれず殺されたらしい。」 より続く

大正12(1923)年

9月4日

〈1100の証言;北区〉

鶴巻三郎〔当時芝浦製作所勤務〕

「不運鮮人射殺さる 荒川堤で200名」

鮮人との争闘は烈しく行われ、荒川堤では200人からの鮮人が射殺されました。ただ私は4日に東京を出ましたが、その頃は大部分の鮮人は郡部の方に逃げていました。

(『北海タイムス』1923年9月7日)


村田富二郎〔工学者。当時7歳〕

〔4日、赤羽で鉄舟の仮橋を渡る時〕 ここで初めて屍体を見た。土左衛門が荒川を流れてきた。〔略〕だれから聞いたのか忘れたが、荒川の死体は朝鮮人として殺された人だと言われた。「として」に注目していただきたい。実際に、朝鮮人だったか否かは不明で、混乱の中で、朝鮮人と誤られて、多くの日本人が殺された。もちろん、「朝鮮人なら殺されてよい」という意味ではない。

〔略〕朝鮮人暴動のデマは、早くも2日に流布され、関東一円で10日程度も続く根強いものであった。暴動の警戒に、日暮里の寺では、中学4年の兄までがかり出されたし、「朝鮮人の女は、妊娠をよそおって、腹に爆弾をかくしているから気をつけろ」などの、微に入った指令までが伝達された。〔略〕日本人と朝鮮人の識別に、10まで数えさせ、つかえると朝鮮人にされてしまった。これで殺してしまうのだからむちゃな話であるが、そのむちやが通る混乱期だったのである。

(『技術と人間』1977年3月号、技術と人間)


〈1100の証言;江東区/大島〉

高梨輝憲〔深川区猿江裏町30番地(現・猿江2丁目2番地)で被災〕

〔3日、猿江町の自宅の焼跡へ行き、立退先へ帰ろうと〕小名木川の方向へ歩き出すと、反対方向から来た年輩の巡査が私を呼びとめ「君は青年団員だろう、今日不逞鮮人が京浜方面から押し寄せて来るという情報がはいっているから、団員に連絡をとって警備にあたるよう手配してくれまいか」というのである。それは私が1日以来ずうっと青年団の制服を着ていたから、巡査は私を青年団員と知り、そう依頼したのだろう。しかし災後やっと3日目のその日に、団員に連絡をとれといわれても、団員は現在どこにいるやら皆目その所在も判らないので、連絡をつけようにもつける手段がない。そこで私は無責任のようだがその巡査の言葉をただ聞くだけで適当に返事をした。この時の巡査の言葉では、不逞鮮人来襲の情報は警察の上部から伝えられたものであるといっていたから、あの時点では朝鮮人暴動説は治安当局も事実として信じていたものであろう。

〔4日〕この日の朝方、私の立退先の近所に思わぬ惨劇がおこなわれた。それは義兄の家の直ぐ近くに一人の朝鮮人が住んでいた。細君は日本人である。夫の朝鮮人は附近の工場に勤めていて、近所の評判では真面目な人であったという。この朝もいつもの通り工場へ出勤しようとして、朝食の膳に向っていた。その時である。数名の日本人が急にその朝鮮人の家を襲い、一人の日本人が物も言あずに食事中の朝鮮人を殴りつけた。するともう一人の日本人は鳶口をもって脳天深く打ちこんだ。朝鮮人は悲鳴とともに血しぶきを吹いて倒れた。これは「あっ」という間もない一瞬の出来ごとである。細君は何が何やら判らない表情で、目の前で行われた凄惨な出来ごとに恐怖を感じてか、ただおろおろしているばかりであった。鳶口を持った男は倒れた朝鮮人の顎に鳶口をひっかけ、ずるずると戸外へ引きずり出した。これを見ていた人びとの中には可愛想なことをするものだと、つぶやいていた人もあったが、また中には当り前のことだという表情でそれをながめている者もあった。私は偶然にそこを通りかかって、この惨劇を一部始終目撃したのである。 

この事件は朝方起ったのであるが、その日から軍隊によって自警団や一般人の凶器携帯者に対する取締りが厳重に行われた。それはそのころ一般人でも護身用と称して日本刀などを持ち歩く者がおり、反って治安維持の妨げとなっていたから、戒厳司令部ではこの処置を執ることになったのである。また同時に朝鮮人暴動説がこの時点になって、はじめて事実無根であったということが判明したからでもあろう。しかし朝鮮人に関する流言はなかなか止まなかった。

義兄の家からややはなれた所に大きな広場があった。今の江東区大島8丁目、富士急行バス営業所のあるあたりである。その広場へ3日の午後になってから、どこからともなく沢山の死体が運びこまれてきた。いずれも惨殺された男女の遺体である。私は4日の朝、その場所へ行って見ておどろいた。屍山血河という形容詞がそのまま当てはまるような鬼気迫る情景であった。ある人は300体くらいあるだろうといい、またある人は300体ではきかないといっていた。もとより数えて正確な数字をいっているのではないから、その実数はどれだけあるのか判らないが、兎に角無数という表現を用いても、敢えて過言ではないほど多くの死体が横たわり、その酸鼻きわまること、まことに目を覆うものがあった。この日の朝方私の目撃した朝鮮人の死体もこの広場へ運ばれたのである。

中国の史書を読むと、殷の紂王は生きた妊婦の腹を割いて、中の胎児を見たという記事がある。またわが国でも戦国時代の文献には、罪人や敵の虜を殺すにかなり残虐な方法を用いたことがしるされている。この時広場にころがっていた死体はまさにその残虐を方法で殺されたものばかりであった。紂王が腹を割いたというが、この広場にも腹を割かれた妊婦の死体があった。そのほかにも女性の死体の陰部へ竹の棒を突き差したままのものもあった。首がなかば落ちかかっている死体、撲殺で全身紫色に腫れあがっている死体等々、平時なら到底正視出来ないほどの惨忍さであったが、あの当時は私自身も異状に神経が昂ぶっていたものか、それらの死体一つ一つを見てまわっても、左程嫌悪感や恐怖感を覚えることはなかった。〔その後渋谷西原の友人を見舞う〕

〔5日〕朝、西原を立って大島8丁目にかえり着いたのは夕方ちかくであった。ところがこの日暗くなってから、義兄の家の横道に巡査が立番して、人びとの通行を制止していた。この横道はさきに述べた惨殺死体のある広場に通ずる道路である。私は不審に思いその理由を巡査に聞いたら、今夜、広場にある死体に石油をかけて焼くのだと教えてくれた。その時、巡査は私に向って「あの死体の中には支那人も沢山交っているが、あんなに多くの支那人を殺して、これが後になってから国際問題にでもならなければよいが」と、さも憂い気に語った。果せるかなそれから数ヵ月後、中国政府からわが国に対し、同胞虐殺に関して抗議があった。併し、その頃の中国は軍閥割拠の時代で統一国家としての機能がなく、わずかに北京政府がその代表政権と見られるような弱体国家であったから、日本政府はその抗議に強圧を感ずることはなかったので、抗議に対しては適当な外交措置を執ったことを新聞で知った。

(高梨輝憲『関東大震災体験記』私家版、1974年。都立公文書館所蔵)


*日付は不記載、場所は大島8丁目

陳崇帆

地震のとき、8丁目にいたが南千住へ逃げて数日たって帰ってみたら8丁目の人はみな殺されていた。垟抗の人も3人殺された。町はいたるところ殺人で歩けない。私は南千住の警察に保護されたが、大島の警察はよくないね、まったく中国人を保護しなかったよ。南千住は中国人宿舎が多くてたいてい1軒に20~30人ずつ住んでいた。

(仁木ふみ子『関東大震災中国人大虐殺』(岩波ブックレットNo217)岩波書店、1991年からの証言抜粋)


戸沢仁三郎〔社会運動家、生協運動家〕

〔八島祐浩より1963年春に聞いた話。大島8丁目に見張りがあって通行止されていた。そこでは〕たくさんの死体が2ヵ所に山と積み重ねられ、それに薪をのせ、石油をぶっかけて焼いたらしく、なにしろ警察で与太もんを集めた、にわかづくりの火葬人夫で、焼き方を知らない。上積みの方は黒こげ、中ほどは生焼け、下の方は表面黒こげでほかはてんで焼けていない。

いやはや酸鼻のきわみ、むごたらしくて目があてられない。さすがの与太もんどもも気味が悪くて、とうとう逃げだしてしまったのです。

(「純労働組合と大震災」『労働運動史研究』1963年7月「震災40周年号」、労働旬報社)


"*大島6丁目の状況
田辺貞之助〔フランス文学者。当時中学生〕

〔略〕番小屋につめていたとき、隣の大島6丁目にたくさん殺されているから見に行こうとさそわれた。そこで夜が明け、役目がおわるとすぐに出掛けた。

石炭殻で埋立てた400~500坪の空地だった。東側はふかい水たまりになっていた。その空地に東から西へ、ほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にしてならべてあった。数は250ときいた。

ひとつひとつ見てあるくと、喉を切られて、気管と食道と二つの頸動脈がしらじらと見えているのがあった。うしろから首筋を切られて、真白な肉がいくすじも、ざくろのようにいみわれているのがあった。首のおちているのは1体だけだったが、無理にねじ切ったとみえて、肉と皮と筋がほつれていた。目をあいているのが多かったが、円っこい愚鈍そうな顔には、苦悶のあとは少しも見えなかった。みんな陰毛がうすく、「こいつらは朝鮮じゃなくて、支那だよ」と、誰かがいっていた。

ただひとつあわれだったのは、まだ若いらしい女が - 女の死体はそれだけだったが - 腹をさかれ、6、7ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたの中にころがっていた。が、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあるのに気づいたとき、ぼくは愕然として、わきへとびのいた。われわれの同胞が、こんな残酷なことまでしたのだろうか。いかに恐怖心に逆上したとはいえ、こんなことまでしなくてもよかろうにと、ぼくはいいようのない怒りにかられた。日本人であることをあのときほど恥辱に感じたことはない。

[略[その翌朝だった。ぼくはやはり番小屋につめていた。毎日、玄米の小さなむすびと梅干だけだったので、腹がすききっていた。そこへ、明け方の四時ごろだったろうか。脂っこい、新鮭をやくような匂いがながれこんできた。いままで、あんなにうまそうな匂いをかいだことがない。豊潤といおうか、濃厚といおうか。女の肌でいえば、きめのこまかい、小麦色の、ねっとりとした年増女の餅肌にたとえたいような匂いだった。それでいて、相当塩気がきいだ感じで、その匂いだけで茶漬がさらさらくえそうだった。ぼくは思わず生唾をのんだ。腹がぐうぐう鳴った。だが、その音はぼくの腹だけから出たものではなかったらしい。

「うまそうな匂いだね」と、ぼくは思わずいった。

「まったくだ。新巻の鮭だ!」

「誰がいまごろ焼いてやがるんだろう。いまいましい奴だ。押しかけていこうか」と、誰かが真剣な口調でいった。

ぼくらはたまりかねて、みんな外へ出た。まるで九十九里浜へよせる高波のように、例の匂いがひたひたと町じゅうをつつんでいた。しかも、番小屋のなかでかいだより数倍もつよく、むっと胸にこたえるような匂いだった。

「こりゃ、鮭じゃないぞ」と、誰かがいった。「鮭にしちゃ匂いがつよすぎるし、一匹まるごと焼いたって、こんなに匂いがひろがるはずはない」

はくらはしばらく棒立ちになって、いまは不気味な気特で、その匂いをかいでいた。

一人が急に叫んだ。

「わかった! あの匂いだ!」

「なんの匂いだ?」

「なんの匂いだ?」

「ほら、きのう見にいった、あの死骸をやいているんだ!」

その途端に、ぼくはむっとなにかが胸にこみあげてきて、腰の手拭で口をおさえながら、番小屋のうしろへ駆けこんだ。

(田辺貞之助『女木川界隈』実業之日本社、1962年)


陳協豊

9月2日の夜、日本軍人らしき者が、当地の日本人を呼び集め、各自兇器をもって鮮人やわが労働者を惨殺した。その時、協豊らの生命もまた危険であったが、幸にも免れた。

この後毎日惨殺が行なわれ、中国語の助けを求める声がたえずひびきわたった。しかし助けに行く事はできなかった。私たちも1日中びくびくしていたのだから。

〔大島〕6丁目一帯は、軍警がびっしり配置されていて、中国人労働者が殺される場所はすぐ近くでありながら、見て見ぬふりをしたのだから、これは日本の軍警と人民が共謀して中国人労働者を惨殺した証ではないか。

5日になってわれわれ生き残った者たちは、習志野の兵営に押送された。

(「温処災僑駁日外務省文温州同郷会」『時報』1923年10月24日→仁木ふみ子『関東大震災中国人大虐殺』(岩波ブックレットNo217)岩波書店、1991年)


つづく



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