2023年12月3日日曜日

〈100年前の世界143〉大正12(1923)年9月12日~13日 王希天(27)、軍隊に殺害される(政府はこれを隠蔽) ソ連の震災救援船「レーニン」号、横浜に入港しようとするが拒否され帰国  

 

王希天

〈100年前の世界142〉大正12(1923)年9月9日~11日 あそこに朝鮮人が行く!(東京物理学校学生李性求の経験) 「錦糸堀には相愛会の建物があって、その付近には「コジキ宿」といって、貧しい労働者の宿が多く、土方をしていた全羅道出身の同胞が多く住んでいました。これらの人々はほとんど殺されたようでした。」 より続く

大正12(1923)年

9月12日

・永井荷風『断腸亭日乗』大正12年9月12日~20日

九月十二日。窗外の胡枝花開き初む。

九月十三日。大久保より使の者来り下谷の伯父母大久保に来り宿せる由を告ぐ。

九月十四日。早朝大久保に赴き鷲津伯父母を問安す。夕刻家に歸る。

九月十五日。時々驟雨。餘震猶歇まず。

九月十六日。午後松筵子細君を伴ひ来り訪はる。野方村新居の近隣秋色賞すべきものありとて頻に来遊を勧めらる。松筵君このたびの震災にて多年蒐集に力めたる稀書繪画のたぐひ、悉く灰燼になせし由。されど元気依然として溌剌たるは大いに慶賀すべし。

九月十七日。両三日前より麻布谷町風呂屋開業せり。今村令嬢平澤生と倶に行きて浴す。心気頗爽快を覚ゆ。

九月十八日。災後心何となくおちつかず、庭を歩むこともなかりしが、今朝始めて箒を取りて雨後の落ち葉を掃ふ。郁子からみたる窗の下を見るに、毛虫の糞おびたゞしく落ちたり。郁子には毛虫のつくこと稀なるに今年はいかなる故にや怪しむべき事なり。正午再び今村令嬢と谷町の銭湯に往く。

九月十九日。旦暮新寒脉ゞたり。萩の花咲きこぼれ、紅蜀葵の花漸く盡きむとす。虫聲喞々。閑庭既に災後凄惨の気味なし。湖山楼詩鈔を讀む。

九月二十日。午前河原崎権十郎、同長十郎、川尻清潭、相携へて来り訪はる。午後驟雨あり。小野湖山の火後憶得詩を讀む。門前の椿に毛虫つきたるを見、竹竿の先に燭火をじて焼く。


・中国人王希天、軍隊に殺害される。

9月12日 水曜日 未明 逆井橋(東京都江東区)

王希天、70年の「行方不明」(『9月、東京の路上で』より)

中隊長初めとして、王希天君を誘い、「お前の国の同胞が騒でるから、訓戒をあたえてくれ」と云うてつれだし、逆井橋の処の鉄橋の処にさしかかりしに、待機していた垣内中尉が来り、君等何処にゆくと、六中隊の将校の一行に云い、まあ一ぶくでもと休み、背より肩にかけ切りかけた。そして彼の顔面及手足等を切りこまさきて、服は焼きすててしまい、携帯の拾円七十銭の金と万年筆は奪ってしまった。(中略)

右の如きことは不法な行為だが、同権利に支配されている日本人でない、外交上不利のため余は黙している。

野戦重砲兵第3旅団第1連隊第6中隊一等兵久保野茂次の10月19日付け日記(『歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺』)


王希天は12日未明、逆井橋のたもとで、第1連隊中島大隊長副官垣内八州夫中尉(終戦時、大佐)によって殺害された。殺害を指示したのは同連隊第6中隊長佐々木兵吉大尉で、金子直旅団長の黙認のもとに行われた。遺体は中川に投げ捨てられた。

王希天(27歳)は中国人留学生。1896年8月5日、吉林省長春市に皮革商品を扱う豊かな商人の息子として生まれ、対華21ヵ条要求が出された1915年、18歳で日本へ留学。一高在学中から学生運動に参加し、日中両国を行き来して活動。周恩来(1898~1976)、救世軍の山室軍平(1872~1940)、賀川豊彦(1888~1960)などと親交があった。

王は、中国人労働者の状況に関心を寄せるようになり、1922年9月、労働者を支援する「僑日共済会」を大島町3丁目に設立。大島には中国人の肉体労働者が集住していた。僑日共済会は、彼らのために診療所を開き、夜間学校を行い、博打ヤアへンに浸る者が少なくなかった彼らに生活改善を呼びかけた。労働者たちは王に絶大を信頼を寄せ、博打道具を取り上げられても文句ひとつ言わなかったという。

王は、日本労働ブローカーが中国人に対して日常的に行っていた賃金不払いに抗議してブローカーとの交渉に乗り出し、賃金を支払わせる運動を開始する。王の活動は全国に広がっていった。

王は、労働ブローカーや労働運動を敵視する亀戸署の刑事たちに激しく憎まれ、ブローカーに短刀で脅されたこともあった。

9月1日、王は留学生が寄宿する神保町の中国青年会(YMCA)にいて、その後の数日間は留学生救援に奔走した。一段落ついた9日朝、気になっていた労働者の被災状況を確認するために、自転車で大島に向かう。数百人の中国人が殺された事件から6日がたっていた。そして、その日午後、彼は軍に拘束されてしまう。

軍は、捕らえた中国人が労働者に人望が厚い活動家であることを知り、習志野収容所への中国人移送に協力させることにした。夜は亀戸署に留置され、日中は軍の下で働く。それから数日間、「習志野に護送されても心配はない」と中国語で書いた掲示を貼り出すなど、積極的に協力する。

移送を担当していたのは佐々木大尉率いる第6中隊で、久保野一等兵はその1人として王とともに働いた。文学青年肌で軍組織になじめない22歳の彼は、少し年上でスマートな王に対し、すぐに好感を抱くようになった

「いつもきちんと蝶ネクタイをしめた好男子。落ちついたらアメリカに留学すると楽しそうに話していた。無学なわれわれ(兵卒)は王希夫君と呼んで尊敬していた。お茶もよく一緒に飲んで世間話をしたことを憶えている」

だが旅団の一部には、「王はさっさと殺したほうがよい」と強く主張する者たちがいた。9月3日の中国人虐殺の隠蔽をはかる軍、中国人指導者を葬り去りたい労働ブローカー、亀戸署の3者の利害が、王の殺害で一致したのだろう。

軍が政府に提出した覚書には、殺害を現場で指導した佐々木大尉が、亀戸署の「巡査ノ1名」から「王希天ハ排日支那人ノ巨頭ナレバ注意セラレタシ」と告げられていたとある。王希天事件を調べた田原洋と仁木ふみ子はともに、事件の背景に警寮と労働ブローカーから軍への働きかけを推測している

こうして12日未明、王は殺害された。遺体は中川に投げ捨てられ、その後、彼の自転車は「戦利品」と称して第6中隊の者が乗り回していた。

12日朝から姿を見なくなった王希天が実は殺害されていたことを久保野一等兵が知ったのは、逆井橋の現場で歩哨に立っていた兵士の口からであった。久保野は「よくも殺しやがったな。ふざけやがって、畜生」と激しい怒りをおぼえる。だが、下手なことを言えば営倉入りではすままい。佐々木大尉は彼の中隊長だ。実際、11月には、中隊長は講話で「震災の際、兵隊が沢山の鮮人を殺害したそのことにつきては、夢にも一切語ってはならない」と強調する。

「それについては、中隊長殿が殺せし支那人に有名なるものあるので、非常に恐れて、兵隊の口をとめてると一同は察した」(久保野日記11月28日)

久保野は兵営で密かにつけていた日記に、事件について聞いたことを書き残した。

中国で労働者虐殺への非難と王の失踪への疑惑の声が高まり、政府の調査団が来日するに至り、軍はシナリオを用意する。12日未明、佐々木大尉に連行された王希天は大尉の独断で解放された、その後のことは軍も関知しない、というもの。

「しかして翌12日午前3時、(佐々木大尉は)亀戸警察署より王希天を受領し、亀戸町東洋モスリン株式会社に在りたる右旅団司令部に同行の途中、種々取調べをなしたるところ、王希天は相当の教育もあり、元支那の名望家にて在京の支那人中に知られおり、何等危険なき者と認めたるにより、旅団司令部に連れ行き厳重をる手続きをなすよりは、此のまま放置するを可なりと考え、本人に対し『習志野に行くことを嫌っている様であり、また教育もあるのであるから十分注意して間違いをせぬ様にせよ、自分が責任を負い逃がしてやる』と告げたれば本人も非常に悦びたり。よって同日午前4時30分ごろ前記会社西北約千米の電車線路附近に於て同人を放置したるに、東方小松川町方面に向かい立去りたり」

政府もまた、関係5大臣の協議で「徹底的ニ隠蔽スルノ外ナシ」として、正式に王希天事件と中国労働者虐殺事件の隠蔽を決定した

王希天はこうして長い間、「行方不明」のままで歴史のなかに消えてしまう。"

戦後、最初に、第3旅団で事件の事後処理を行った遠藤三郎大尉(終戦時、陸軍中将)が、王希天が軍によって殺害されたことを明らかにした。そして1970年代、70歳を越えていた久保野茂次が当時の日記を公表する。彼は兵役を終えてからも抹殺を恐れてこれを隠し、大切に保管してきた。

「あれ以来、そのことが私の脳裏から消えなかった。永い間、私の念願だった王希天の最後の模様を、是非、王の家族に伝えて、成仏させてやりたい」

そして1980年代初め、ジャーナリストの田原洋が、王を斬った垣内八州夫中尉(終戦時、大佐)を探し当て、本人のロから事実が明らかにされるに至った。垣内は、誰を斬ったのかそのときは知らなかった、可哀そうなことをした、中川の鉄橋を渡るときいつも思い出していた、と後悔の言葉を口にする。

1990年、王希天と中国人労働者の死の真相を調べた仁木ふみ子が、王希天の息子を探し出し、事件の真相を伝える。医師としての人生を送り、すでに老齢の域に達していた息子は「やはりそうでしたか」とがっくりと肩を落としたという。

王希天の死から約70年が経っていた。


〈1100の証言;江東区〉

垣内八洲夫〔当時陸軍野重砲兵第一連隊中尉〕

あのね、私は後ろから一刀浴びせただけです。そのまま帰りましたから、王希天が死んだかどうか確認はしとらんです。〔略〕佐々木中隊が、あの日、一人殺(や)ると言っておったので、私は見に行っただけです。・・・いや、そのつもりだった・・・佐々木中隊長は、上から命令を受けておったと思います。・・・後で、王希天が人望家であったと聞いて・・・驚きました。可哀そうなことをしたと・・・。中川の鉄橋を渡るとき、いつも思い出しましたよ。

(田原洋『関東大震災と王希天事件 - もうひとつの虐殺秘史』三一書房、1982年)


久保野茂次〔当時野重砲兵第一連隊兵士〕

(9月3日)東京府下大島にゆく。〔略〕軍隊が到着するや在郷軍人等非情なものだ。鮮人と見るやものも云わず、大道であろうが、何処であろうが斬殺してしもうた。そして川に投げ込んでしまう。余等見たのばかりで、20人ひとかたまり、4人、8人、皆地方人に斬殺されてしまっていた。

(10月18日)〔略〕本日の日々新聞〔東京日日新聞〕に王希典〔王希天〕氏の消息に就てその後警視庁の調査する所では、同氏は軍隊の手から10日亀戸署に引渡し、12日早朝同署では習志野護送するため更に軍隊の手により引渡したが、軍隊では保護の必要なしと認め釈放しこれと共にその旨亀戸署に報告した。その軍隊は当時、亀戸税務署に駐屯していたものであると云々。

この新聞を見て連想した。王希夫君はその当時我中隊の将校等を訪い、支人護送につき労働者のために尽力中であった。快活な人であった彼は支人の為に、習志野に護送されても心配はないということを漢文を書して我支那鮮人受領所に掲示された。支那人として王希夫君を知らぬものはなかった。税務署の衛兵にゆき将校が殺してしまったと云うことを聞いた。彼の乗ってきた中古の自転車は我六中隊では占領品だなんと云うて使用してた。その自転車は六中隊に持ち来りてある。

(10月19日)〔略〕今日新聞にも前途有為な、社会事業に尽瘁(じんすい)の王希夫君が出てた。その

真相については逐一或る者より聞いた〔欄外に「高橋春三氏より聞いた」とある〕。

中隊長初めとして、王希天君を誘い 「御前の国の同胞が騒でるから順戒をあたえてくれ」と云うて、つれだし逆井橋の所の鉄橋の所にさしかかりしに期待〔待機〕しておった垣内〔八洲夫〕中尉が来り、君等何処にゆくと、六中隊の将校の一行に云い、まあ一ぶくで〔も〕と休み背より肩にかけ切りかけた。そして、彼の顔面及手足等を切りこまざきて、服は焼きすててしまい、携帯の10円70銭の金と万年筆は取ってしまった。そして殺したことは校将〔将校〕間に秘密にしてあり、殺害の歩哨にたたされた兵により逐一聞いた。

(「久保野茂次日記」関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺 - 歴史の真実』現代史出版会、1975年)


佐藤弥右衛門

〔王兆澄に話した内容。中国人の死体は〕9月12日、最覚寺院の空き地に土葬されたが、すでにウジがわいていた。〔略〕日本人の人夫頭はみんな王〔希天〕を恨んでいた。①中国人労働者を助けるから、②共済会事務員に日本人をやとわないから、③日本人人夫頭の意見を聞かないから。今もって行方不明というのは危険だ。

ここで中国人労働者は200人も殺された。中国人労働者だけをやとっていた日本人の人夫頭林某も殺されたし、あと3人行方不明だ。

(仁木ふみ子『震災下の中国人虐殺』青木書店、1993年)


・朝日新聞、東京・大阪間飛行郵便開始。

・ソ連の関東大震災救援船「レーニン」号、横浜に入港。食料・建築資材約17万円分積載。14日、日本側の退去命令で出港。

9月21日付「天声人語」は「▲救済品を積んだ露国のレーニン号は横浜入港を拒絶されたまま怒って浦塩に帰ったが▲それにも拘はらず露国民の日本に寄する同情の一向に変りないのは感激するに足る・・・」と書く。

22日付「天声人語」は、レーニン号「拒絶」は政令か、軍令かと問い、露国の中央執行委員会が日本の震災救援のために極東の森林伐採権や漁業の利権を与えると声明したことに「実以て痛み入らざるを得ない」と恐縮する。

10月1日付「大阪朝日」社説は、「国際的誤解を解く為めにレーニン号追放顛末を明かにせよ」として、退去させた理由を天下に明らかにすることを求める。


・スペイン・バルセロナの駐屯地で反乱。

13、カタルーニャ総督プリモ・デ・リベーラ将軍、クーデタ。バルセロナ制圧。

15日、国王アルフォンソ13世の同意下、スペイン全土に戒厳令。議会解散。憲法停止。自由主義派の運動全面的に封じ、軍事独裁政府樹立(~1930)。


9月13日

・中野鈴子の日記に「彼の人」(窪川鶴次郎)の記述が現れる。この日までに鶴次郎と鈴子は出会い、鈴子は鶴次郎の存在を意識するようになっていたと思われる。ただ「彼の人は私のことを少しも気にかけてゐては下さらないのだ」と恨み言を述べている。「彼の人」が「窪川」であることが16日の日記に出てくる。

9月18日、窪川の部屋へ行く。「窪川は歌がうまい。友達になりたいけれども言い出すことも出来ない」と嘆く。

19日、窪川宛にあの本を下さるようにと書く。窪川が私の心を誤解しないように。素直にとって下さい。

20日、本のお礼に窪川に花を差し上げる。少女心から差し上げるだけで、「浄かな友であり、兄の友であり、その妹でありたい」と願う。「短歌を私は一生はなさなくやる積りだ。私は歌の道に生きよう。内の内なるもの、満足を私は求める」。

10月26日、窪川と金石へ行く。料理屋でコーヒーを飲む。「すゞさん」と窪川が呼んだ。「あゝ私は幸福だった」と鈴子は思う。「山へゆき、海へゆき、帰りは独りになる。又、夜、一寸遊びにゆき、すぐ帰る」。鈴子の恋が一歩すすんだ。


つづく


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