2023年12月2日土曜日

〈100年前の世界142〉大正12(1923)年9月9日~11日 あそこに朝鮮人が行く!(東京物理学校学生李性求の経験) 「錦糸堀には相愛会の建物があって、その付近には「コジキ宿」といって、貧しい労働者の宿が多く、土方をしていた全羅道出身の同胞が多く住んでいました。これらの人々はほとんど殺されたようでした。」  

 

山本権兵衛内閣総理大臣による「鮮人に対する迫害に関する告諭文」(大正12年9月5日付)

〈100年前の世界141〉大正12(1923)年9月8日 労働運動社一斉検束 習志野収容所で殺された人々「又鮮人を貰ひに行く 九時頃に至り二人貰ってくる 都合五人 (ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定」 江口渙『車中の出来事』より より続く

大正12(1923)年

9月9日

・戒厳司令部より、群馬県上空から「飛行機から皆さんへ」と題するビラが撒かれる(『館林市史』資料編5)。

「埼玉、群馬地方一帯に不穏の流言、殊に鮮人に関する蜚語盛にして人心兢々たる由なるも、其真相を偵察せるに多くは虚伝にして特に憂慮すべき程の事にあらざるを確めたり」として、人心の安定を図る内容。

9月9日 日曜日前後 池袋 

あそこに朝鮮人が行く!(『9月、東京の路上で』より)

9月2日の朝、下宿先(長崎村。現在の豊島区千川、高松、千早、長崎町あたり)を出ると、近所の人から「李くん、井戸に薬を入れるとか火をつけるとか言って、朝鮮人をみな殺しにしているから行くな」と止められた。「そんな人なら殺されてもしかたがない。私はそんなことをしないから」と言って忠告を聞かをかったのがまちがいだった。

雑司が谷をすぎたあたりで避難民に道を尋ねたら、「朝鮮人だ」と殴るのだ。ちょうど地下足袋を『東亜日報』にくるんでいたが、そのなかにノロ(鹿)狩りの記事があって「銃」という漢字を見とがめられたのである。大塚警察署に青年たちに連行された。

「警察に行っても話にならない。明日殺すんだ、今日殺すんだ、という話ばかり。信じなければいけないわけは、半分死んだような人を新しく入れてくるんだ。あ、これは私も殺されると思った。あんまり殴られて、いま(89年)は腰がいたくて階段も登れをい」(李さん)

一過問から9日して「君の家はそのままあるから、帰りたければ帰れ」と言われた。不安だったが、安全だからと晩の6時ごろ出された。池袋あたりまできて道に迷ったが、普通の人間に問いたら大変な目にあう。わざわざ娘さんに聞いたが、教えてくれてから、「あそこに朝鮮人がいく」と叫んだ。青年たちが追いかけてきたが、李さんは早足で行くしかない。「朝鮮人が行く!」。その声が大きく聞こえる。(中略)

目についた交番に飛び込んで巡査にしがみついた。青年たちは交番のなかでも李さんをこづき、蹴飛ばした。警察官にも殴られた。大塚警察署でもらった風邪薬が発見されると、今度は毒薬だということになった。飲んでみせるとやっと信用され、帰された。自分の村に着くと、近所の娘さんたちが「よく無事で」と、フロを沸かしたり夕食を作ってくれた。

『風よ鳳仙花の歌をはこベ』 当時、東京物理学校(税・東京理科大学)の学生、李性求の経験。


9月10日

・永井荷風『断腸亭日乗』大正12年9月10、11日

九月十日。昨夜中州の平澤夫婦三河臺内田信也の邸内に赴きたり。早朝往きて訪ふ。雨中相携へて東大久保に避難せる今村といふ婦人を訪ふ。平澤の知人にて美人なり。電車昨日より山の手の處々運転を開始す。不在中市川筵升河原崎長十郎来訪。

九月十一日。雨晴る。平澤今村の二家偏奇館に滞留することゝなる。

(*註 荷風散人、2家族に宿所を提供する事になる)

・憲兵は、警察力を無視し、救護と云う美名のもとで過激な行動をする山口正憲とその一派を逮捕。新聞には「日鮮人共謀の賊団捕らわれる、横浜市内で」(「東京日日新聞」1923.9.13)と報道された。

その後も「虐殺掠奪頻ゝたりし流言蜚語をはなった山口一派の悪逆行為」などと、不逞鮮人と社会主義者の共謀の犯罪行為を結びつける情報操作が行われた。そして、流言蜚語の発生源の一つが山口正憲であるとの印象づけを行った。


〈1100の証言;墨田区/菊川橋・錦糸町・亀沢〉

金字文

10日ほど過ぎて、私たち朝鮮人労働者4人は死体処理にかり出されました。めいめい腕章をつけさせられ前後を数名の日本人に取り囲まれて、江東の砂町方面にいきました。

錦糸堀には相愛会の建物があって、その付近には「コジキ宿」といって、貧しい労働者の宿が多く、土方をしていた全羅道出身の同胞が多く住んでいました。これらの人々はほとんど殺されたようでした。

私達が処理した死体には、火にあって死んだ人やトビロや刃物で殺された人がありましたが、両者ははっきり区別されます。虐殺された人は、身なりや体つきで同胞であることが直感的にわかるばかりでなく、傷を見れば誰にでもすぐ見分けがつきました。小さな子供まで、殺されていました。

あの頃のことを思うと今でも気が遠くなりそうです。

(朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)

〈1100の証言;港区/高輪・泉南寺〉

岡田益吉〔ジャーナリスト〕

〔10日〕高輪の友人の家へ寄ってみたら、その友人は、自警団の団長にされていた。

〔略〕不逞鮮人の一団が、「いま二子多摩川から五反田へ押し寄せてくる」と大まじめにいっていた。

(『経済往来』1965年9月号、経済往来社)


9月11日

・警視庁の正力官房主事、社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れがあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよと命令。

・日本銀行木村副総裁、災害に対処して日本銀行が取るべき方針について声明(12 新聞発表、いわゆる第1次声明)。


つづく




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