2024年1月10日水曜日

大杉栄とその時代年表(5) 1885(明治18)年 8月~9月 子規、帰省中に秋山真之と親しくなる 木下杢太郎・若山牧水・鈴木文治生れる 逍遙(26)「小説神髄」 漱石、虫様突起炎を患い、実家に戻る 子規と熊楠  

 


大杉栄とその時代年表(4) 1885(明治18)年 6月~7月 大杉栄一家、東京府麹町区番町に移る 明治大洪水 子規(18)落第 漱石(18)遠泳参加 幸田露伴(18)北海道余市に赴任 都市下層民の「餓鬼道地獄」現出(「朝野新聞」) 『女学雑誌』創刊 より続く

1885(明治18)年

8月

この月の内閣機密費。

月例支出(新聞社への補助金が90%):日報社補助金975円(「東京日日」発行母体)、大東社補助金600円(「内外新報」発行母体)。

一時金:忠愛社補助金1万5千円(政府系新聞強化政策の一環で創刊の「明治日報」発行母体。売行き不振で打切り)、朝日新聞社補助金不足分補填89円93銭9厘(4年分の不足補填)。この時期の「朝日新聞」は政府系。明治20年代には関係が疎遠になり、明治27年、補助金を返済し関係を絶つ。

8月

予備門が東京大学の管轄を離れ、文部省に直轄となる。それに伴って東京法学校予科と東京外国語学校仏語・独語科が予備門に吸収される。外国語学校ロシア語科・清国語(中国語)・韓国語科は、木挽町から一ツ橋に移転して来た東京商業学校に編入される

8月

坪内逍遙「小説を論じて書生気質の主意に及ぶ」(自由燈)。

8月

馬場辰猪「雄弁法」(朝野新聞社)。

子規、帰省中に秋山真之と親しくなり、桂園派の歌人井出真棹(まさお)に和歌を学ぶ

兄嘉平治(南海)の経営する学校、東京学館の手伝いをしていた宮武外骨、『東京日日新聞』に官武外骨の名で「頓智協会」の設立予告及び会員募集広告を掲載。前年、幼名の亀四郎を外骨と改名し、宮武外骨が戸籍上でも本名となっていた。

8月1日

太田正雄(木下杢太郎)生れる。

8月4日

斎藤緑雨、本郷真砂町の坪内逍遥を訪問。緑雨もまた『当世書生気質』に感動している


『今日新聞』『自由燈』で緑雨の先輩記者だった作家野崎左文が『明星』明治37年5月号に寄せた緑雨への追悼文


春の屋主人の『当世書生気質』が出版さるゝや君は一冊を購ひ来つて之を熟読し夫より続物の出るを待兼ねる風があつて君の懐に『書生気質』と二三雑誌の這入つて居ぬ事は稀であつた。坪内氏の此著は吾々明治第一期の旧式文士に一打撃を加へたのであつたけれども尚は目の醒めぬ人には之に対して負惜みの批評を加へて居た中に君はいつも無口ながら弁護の位置に立って居た。


8月24日

若山牧水、誕生。現在の宮崎県東臼杵郡東郷町大字坪谷3番地、医師若山立蔵、マキの長男として生まれ、繁と命名。

9月

大阪事件。実行グループ、大阪へ移動。景山英子(21)は爆裂弾を運ぶ。資金不足のため渡韓隊長磯山清兵衛(有一館監督)は大井憲太郎(43)・小林樟雄(30)に約束の資金提供せまるが果たせず、配下に強盗を指示するが離反され、失踪。先発組(副首領の新井章吾が首領となり)は下関に向うが、11月末大井・小林らが大阪で、新井らが下関で逮捕。容疑者200人、予審を経て63人が大阪国事犯嫌疑事件として裁判にふされる。参加有志には天野政立をリーダとする相州グループや大矢正夫ら三多摩の民権家のように国内革命の端緒をつかむことを目的としたグループもあり。

9月30日、村野常右衛門(凌霜館館長)、山本与七・水島保太郎から大阪事件の計画を打ち明けられ、翌日、3人で大井憲太郎をを訪問。10日、村野、大井を再訪問。17日、大井の添え書きをもって大阪の小林樟雄を訪問、金玉均同行を提案。後、土方房五郎(南多摩郡新井村、現日野市)や森久保作蔵(南多摩郡高幡村、現日野市)らが事件に関わって行く。 

大井らは甲申事変への国民の愛国的熱狂をみて、その排外エネルギーを国内革命に向ける陰謀を企てる。金玉均が失敗した朝鮮改革クーデタを日本人の手で断行し、日本の蒙った屈辱をそそぎ、日清両国間に緊張関係を作り出すことによって専制日本の外交を危機に陥れ、内政安定・民意尊重に立たせる目的。

大井憲太郎:

天保14(1843)年豊前宇佐郡高並村の庄屋の3男に誕生。少年時、医学・儒学を学ぶ。20歳で長崎に行き洋学・舎密学(化学)を学ぶ。医者大井卜新と親しくなり、共に大阪に出る。この時、大井姓を名乗る。江戸に出て目付新庄右近将監の若党として働き開成所でフランス語を学ぶ。維新時は幕府の大砲隊員(25)。

維新後、箕作麟祥に従い大阪・神戸に行き、大阪の舎密局(理化学研究所)のオランダ人教師助手となる。明治2年、辞職して上京。箕作の塾でフランス学を学び、大学南校でフランス語、万国史、フランス法律学を学ぶ。この頃、名を憲太郎に改める。

後、政府の下役人をしながらフランスの法律・政治思想の翻訳に携わる。明治7年加藤弘之の民権議院設立建白書への反対論に対して、馬城台次郎の名で「日新真事誌」に反駁論をかかげ共感をよぶ。翌明治8年元老院少書記官に任命。

一方、銀座に書籍出版の東洋社を設立するが、これが陸奥宗光に忌避にふれ免職。

後、「曙新聞」記者となり自由民権思想を唱え、同志と「講法学舎」を設立(後、ここを去り「明法学舎」設立)。

明治11年「愛国社」議長に推され政界への一歩を踏出す。明治15年自由党常議員に選出、党内青年分子に圧倒的支持を得る。同年、代言人免許を取得。後、東京組合代言人副会長となり、福島事件・加波山事件の弁護などに奔走。

9月

文部省直轄東京法学校、東京大学法学部に合併

9月

井上外務卿、沖縄県令が沖縄・台湾間の魚釣島(釣魚台)などの無人島に国標を建て日本領であることを明確にしたいと上申するが、清国の疑惑を招くとして退ける。

9月

坪内逍遙(26)「小説神髄」全9冊(松月堂)~19年4月。

9月

漱石、虫様突起炎を患い、実家に戻る。翌年までには癒える。

9月

子規、坪内逍遙の『当世書生気質』に感動。


「子規もまた『書生気質』の熱心な読者だった。ちょうどこのころ子規は遊びに行った友人の下宿でこの小説の何篇めかを見つけたのである。柳田泉・河竹繁俊の『坪内逍遥』に、こうある。


正岡子規の回想には「日本の小説は皆こんな物(馬琴の作や梅暦)をと思ひし折から、『書生気質』の出版ありしかは、余は飛び立つ如く面白く忍び、斯くの如き小説も世にはありけるよと、幾度も読み返して、飽くことを知らざりき」と言ってゐる。


この「正岡子規の回想」とは、『筆まかせ』に収められた「小説の嗜好」(明治二十二年)のことである。しかし柳田・河竹氏が引用した部分に続いて、子規は、「其後に至り少しは英語の小説もかぢり読みをする様になりしかば、始めの如くも恩はざりしか」と生意気なことを述べている。・・・・・」(『七人の旋毛曲り』)


9月

真下専之丞の孫(専之丞と原町田の渋谷の娘(妾)の間の子徳次郎の次男)渋谷三郎(17、後、山梨県知事・早稲田大学法学部長を歴任)が上京、東京専門学校邦文法科に入学したのを機に松永の家に出入りし、稽古に来る樋口一葉(13)とも知り合う。この頃、邦子によれば、同家で佐佐木弘綱に歌話を聞き、信綱にも会ったという。

このころまで、一葉はきわめて健康であったという。

また、このころから東大古典科の学生で、則義が保証人になっていた野尻理作も、一葉の家に出入りし始めていた。

渋谷はその後屡々樋口家を訪問、なつとくにを連れて寄席などに行き、実質的にはなつの婚約者のようになる。

9月3日

徳島県、「飢餓に迫る八万人」(全人口の1/10)といわれ、内26,823人が農民。(「朝野新聞」)。

9月4日

鈴木文治、誕生。宮城県栗原郡金成村、酒造業長男。

9月10日

英吉利(イギリス)法律学校、開校(後の中央大学)。

9月11日

英、D・H・ロレンス誕生

9月12日

南方熊楠、新学期になって初めて予備門に行く。

この日付け熊楠の日記。

「朝始て予備門へ之く。木村平三郎氏え金一円貸す。丸善にて英文自助論を買ふ、代価六拾八銭(大学の証券もちゆく)。里見八犬伝第十二をかふ。

四級生徒落第、正岡常規以下四十余人。新入百人斗(ばか)り。」


子規と熊楠

「二人(*子規と熊楠)は、大学予備門の受験準備のために、当時神田淡路町にあった共立学校で共に学んだ仲なのである。予備門では熊楠も子規も授業そっちのけで寄席や演芸場に足しげく通ったらしく、熊楠は、「明治十八年、予東京大学予備門にあつた時、柳屋つばめという人、諸処の寄席で奥州仙台節を唄い、予と同級生だった秋山真之氏や、故正岡子規など、夢中になつて稽古しおつた」(『続南方随筆』)という回想を残している。また、後年、子規門下の俳人河東碧梧桐が田辺に熊楠を訪れた際、自分(熊楠)はビール党だったが子規はせんべい党で、せんべいをかじりながらやれ詩を作るの、句をひねるのといっていたとか、子規は勉強家でおとなしい美少年だったとかという思い出話を聞いている。」(『漱石と熊楠』)

9月20日

植木枝盛、「土陽新聞」補助員となる。この日より10日間「貧民論」連載。

9月22日

東京商業学校開設


「私立商法講習所は、明治八年(一八七五)八月に、森有礼が東京尾張町に設立し、翌九年(一八七六)に木挽町十丁目に移転して府立となる。明治十七年(一八八四)三月に農商務省直轄となって九月、東京商業学校と改称、翌年九月文部省直轄となり、東京外国語学校と合併して、神田区一つ橋通町一番地(現・千代田区一つ橋二丁目一番)に移転した。明治二十年(一八八七)三月に東京高等商業学校と改名し、明治二十二年(一八八九)三月十九日(火)に、第一回卒業式を挙げる。」(荒正人、前掲書)


9月30日

木村熊二、明治女学校設立願いを出し東京府知事の認可を受けて麹町区飯田町1丁日7番地に10月開校。明治23年頃が全盛で、明治41年12月25日まで続く。


つづく


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